第12話:闇に沈む玉座
扉が、ゆっくりと押し開かれた。
その瞬間──
外の霧が、巨大な肺に吸い込まれるように一気に引いていく。
音もなく、色もなく、ただ消えた。
残されたのは、異様な静寂。
空気が変わる。
温度は同じなのに、肌が粟立つ。
胸の奥に、冷たい指を差し込まれたような感覚が走った。
優斗は思わず息を呑む。
「……なんだ、この感じ……」
足を踏み入れた瞬間、靴底が音を吸われたように沈んだ。
石床のはずなのに、踏みしめた感触が曖昧だ。
玉座の間は広い。
だが、広さを感じさせないほど空気が重い。
まるで、この部屋そのものが生きていて、侵入者を飲み込もうとしている──
そんな錯覚すら覚える。
美咲が胸元を押さえ、小さく震えた。
「……ここ……空気が……死んでる……」
声が遠い。
反響しない。
吸い込まれていく。
朔弥は眉をひそめ、肩をすくめた。
「うわ……なんだよこれ……息が重い……」
レオンだけが、静かに前を見据えていた。
その横顔は、普段よりもずっと鋭い。
「……来るぞ」
低く、短く。
だが、その一言で三人の背筋が一気に伸びた。
「20階層の主だ」
その瞬間だった。
天井から、黒い霧が逆流するように落ちてきた。
重力を無視したような動き。
水でも煙でもない、もっと濁った何か。
玉座の背後に、巨大な霧の魔法陣が浮かび上がる。
淡い光ではない。
闇が光の形を真似ている──
そんな不気味な輝き。
霧がゆっくりと集まり、人の形を作り始めた。
階層主──
闇霧の魔導士。
輪郭は曖昧。
腕も脚も、霧が揺れるたびに形を変える。
だが、目だけははっきりしていた。
赤い線のような光が、ゆらりと揺れた。
優斗は息を止める。
その目が、確かにこちらを見た気がした。
レオンが聖剣を握り直した。
その動きだけが、異様な静寂の中で唯一生きている音だった。
ダークミストが形を取り終えた瞬間──
玉座の間の空気が、さらに一段階沈んだ。
音が消える。
気配が沈む。
呼吸が胸の奥で引っかかる。
優斗は喉の奥がひりつくような感覚に眉を寄せた。
「……なんだよ……こいつ……」
朔弥は腕をさすりながら呟き、美咲は胸元を押さえたまま後ずさる。
「空気が……重いっていうか……吸われてるみたいだな……」
「……嫌な感じ……心臓が……掴まれてるみたい……」
レオンだけが微動だにせず、前を見据えていた。
勇者としての鋭さだけが、その横顔に残っている。
「……構えろ。ここからだ」
レオンがそう言った瞬間──
ダークミストの目が赤く揺れた。
ゆらり、と。
ただそれだけの動きなのに、四人の背筋に冷たいものが走る。
ダークミストが腕をゆっくりと広げた。
水中で手を伸ばすように重く、しかし確実に世界を覆う意志を持った動き。
次の瞬間──
玉座の間が、闇に沈んだ。
光が消えたのではない。
吸われた。
炎の明かりも、光球も、聖なる光すらも、すべて黒い霧に飲まれ跡形もなく消えていく。
優斗は思わず声を上げ、朔弥は胸に手を当て息を呑む。
「……っ、なんだよ、これ……! 全然見えねぇ……!」
「魔力……吸われてる……!? やべ……身体が冷える……!」
美咲は光膜を展開しようとしたが、指先から生まれた光は霧に触れた瞬間“しゅっ”と消えた。
「……光が……維持できない……!」
「みんな落ち着け。まだ敵は動いていない」
レオンは暗闇の中でただ一人、霧の流れを読むように静かに息を整えた。
だが──
その静けさこそが、最初の罠だった。
暗闇の奥から、声がした。
それは、聞き慣れた声だった。
『きゃあぁぁぁぁぁ!』
美咲の悲鳴が響き渡る。
その声に優斗が反応して叫んだ。
「美咲!? どこだ!」
美咲は優斗の声に慌てて首を振る。
「えっ……私じゃない……!」
次の瞬間、また別の声が重なる。
『うわっ、やめろーー!』
『こっちくんな!』
『おまえたち、一度こっちにこい!』
朔弥が思わず叫ぶ。
「俺!? いや、今の俺じゃねぇぞ!」
優斗は歯を食いしばった。
「くそっ……どれが本物だ……!」
その混乱を断ち切るように、レオンの声が暗闇を裂いた。
「落ち着け! 16階層の幻覚を思い出せ!」
美咲が息を呑む。
「あの時……朔弥くんの声を真似てた……!」
朔弥も思い出したように声を上げ、優斗も頷いた。
「そ、そうだ……あの時の……!」
「確かに状況が似てる……!」
だが──
その時だった。
優斗の背後に、倒れた朔弥が現れた。
血を流し、動かない朔弥。
その姿はあまりにも本物だった。
優斗は息を呑み、駆け寄る。
「朔弥!? おい、しっかりしろ──!」
手を伸ばした瞬間、その朔弥は影のように霧へ溶けた。
優斗は拳を握りしめる。
「……っ、違う……これ……幻覚……! くそっ……どれが本物だ……!」
美咲の震える声が響き、朔弥は見えないと分かっていながらも、手を振りながら叫んだ。
「優斗くん! それ偽物だよ!!」
「おい、俺はここだって!」
レオンは霧の流れが変わったのを肌で感じ取り、静かに構えを低くした。
「……敵は……後方だ!」
その言葉に、三人の意識が一点へ集中する。
だが──
暗闇は依然として濃い。
気配は乱れ、音は歪み、後方と言われても、どこが後方なのかすら曖昧だ。
優斗は歯を食いしばる。
「……くそ……見えねぇ……!」
朔弥は魔力を練ろうとするが、指先から漏れた魔力は霧に触れた瞬間“じゅっ”と吸われた。
「……っ、魔力が……持ってかれる……!」
美咲は震える手で杖を握りしめ、必死に光を生み出そうとする。
「……お願い……少しでいいから……光って……!」
だが、光は生まれた瞬間に霧へ飲まれた。
その時だった。
美咲の胸の奥で、何かが強く脈打つ。
(……みんなが……困っている。私が……光を……)
深く息を吸い、震える声で詠唱を紡ぐ。
「……貫け……《聖なる矢》──!」
杖の先に、かすかな光が生まれた。
霧がそれを飲み込もうと蠢く。
だが、美咲の祈りがそれを押し返す。
光は細い矢となり、暗闇を裂くように一直線で飛んだ。
その一瞬──
玉座の間が光に焼かれた。
黒い霧が後退し、闇の奥に隠れていたものが露わになる。
レオンが息を呑む。
「……あれは……!」
玉座の後方。
そこに──
不自然に渦を巻く霧の柱が立っていた。
それは、ダークミストの背中に直接繋がっているようだった。
霧は柱から本体へ流れ込み、本体から柱へ戻っていく。
循環している。
脈動している。
まるで、生き物の心臓のように見えた。
優斗は息を呑み、朔弥も顔をしかめる。
「……なんだ、あれ……」
「……気持ち悪……あれ、絶対ヤバいやつだろ……」
レオンは長年の戦いで培った勘で確信した。
「……あれが何かは分からないが……壊せば状況が変わるかもしれん!」
その声には迷いがなかった。
朔弥がすぐに反応する。
「俺にも見えた! 任せろ……火なら焼ける!!」
魔力を練り、右手に炎を集中させる。
「《火槍》!」
ゴォォッ──!
炎の槍が霧の柱へ一直線に飛ぶ。
だが──
ボシュゥゥゥ……
霧に触れた瞬間、炎は音もなく消えた。
朔弥は目を見開く。
「なっ……! くそ、勢いが足りないのか……!」
優斗が声を張る。
「焦るな、朔弥!」
美咲も前に出ようとするが、朔弥が慌てて手を伸ばした。
「なら……私がもう一度──」
「いや、待て美咲!」
「え……?」
朔弥は拳を握りしめ、自分の胸に言い聞かせるように呟いた。
「こうなれば……まだ練習中だったけど……もうそんなこと言ってられねぇ……!」
「何をする気だ、朔弥」
レオンが問いかけるも、朔弥は振り返らずただ前だけを見据えていた。




