第1話:出発の前に
朝の光はまだ弱く、朔弥邸のリビングには薄い影が落ちていた。
普段は家族の気配だけが漂う静かな空間に、今日は人が多い。
テーブルを囲むのは──
美咲の家族、優斗の家族、そして風間大臣。
それぞれの表情には、眠気よりも不安の色が濃く浮かんでいた。
朔弥はレオンの隣に座り、落ち着かない指先を膝の上で組み直す。
レオンは背筋を伸ばし、静かに目を閉じていた。
風間が深く息を吸い、口を開く。
「……今日は、皆さんにお願いがあって来ました」
低い声だが、迷いはなかった。
美咲の母が眉を寄せる。
「お願い……とは?」
風間は頷き、四人──朔弥、美咲、優斗、そして──レオンへ視線を向けた。
「秩父ダンジョンの再調査を、彼ら四人に頼みたいのです」
その瞬間、空気が凍りついた。
美咲の父が椅子を押しのけるように立ち上がる。
「ま、待ってください! 子どもに何を言っているんですか!」
優斗の母は震える声で言った。
「この間の件で、どれだけ危険か分かっているはずでしょう!」
優斗の姉、沙耶は、優斗の肩を掴んだまま声を荒げる。
「アンタ、またあんな目に遭うかもしれないんだよ……!」
美咲の母は娘を抱き寄せ、必死に言葉を絞り出す。
「美咲は……まだ夜も眠れないのよ……」
雫は美咲の袖をぎゅっと掴み、涙をこらえながら訴えた。
「お姉ちゃん、行かないで……」
朔弥の母は胸元で手を組んだまま、声が出ない。
朔弥の父は腕を組み、風間を鋭く見据えた。
「大臣、説明が足りない。なぜ子ども達なんですか」
家族の声が重なり、リビングの空気がざわつく。
風間はそのすべてを受け止めるように、静かに頭を下げた。
「……危険なのは承知しています。ですが、彼らでなければ辿り着けない場所がある」
美咲の父が険しい表情で問う。
「どういう意味ですか」
風間は一度言葉を切り、重く沈んだ空気を確かめるように息を吐いた。
「昨日、自衛隊で探索班を編成し、第一陣・第二陣を投入しました。しかし……どちらも壊滅しました」
リビングの空気がさらに沈む。
「ダンジョン内の影は、通常の戦闘では対処できない性質を持っていると判明しました」
優斗の父が低く唸る。
「そんな場所に……子どもを行かせるなど……」
朔弥の母は震える声で言った。
「朔弥……怖かったでしょう? もう行かなくていいのよ……」
美咲の母は涙をこらえながら言う。
「美咲には……普通の生活に戻ってほしいの……」
沙耶は優斗の腕を掴んだまま、必死に言う。
「アンタ……死んだらどうすんの……?」
雫は美咲の手を握りしめ、泣きそうな声で言った。
「お姉ちゃん、やだよ……」
家族たちの声が胸に刺さる。
止めたい。守りたい。
その気持ちが痛いほど伝わってくる。
だが──
三人の胸の奥には、別の感情が静かに燃えていた。
沈黙を破ったのは、朔弥だった。
「……俺、行く」
美咲が驚いて朔弥を見る。
優斗も目を見開いた。
朔弥は家族をまっすぐ見つめた。
「怖いよ。正直、めちゃくちゃ怖い。でも……その影を放っておいたら、もっと多くの人が危険になる」
美咲も小さく息を吸い、震えを押し殺して言った。
「……私も行く。あの影を……見たまま、何もしないなんてできない」
優斗は頭をかきながら、苦笑を浮かべた。
「……俺も行くよ。みんなを守るのが前衛だからな」
家族たちは三人の言葉に揺れた。
反対したい。止めたい。
だが──
三人の目は、決意で満ちていた。
そのとき、レオンが静かに立ち上がる。
リビングの空気がわずかに揺れた。
「……三人は、俺が守る」
その声は低く、揺らぎがなかった。
まるで事実を告げるだけのような確信。
美咲の父がレオンを見る。
「……君は、本当に……美咲たちを守れるのか」
レオンは迷いなく頷いた。
「命に代えても」
その一言で、空気が変わった。
朔弥の母は涙を拭いながら言った。
「……帰ってきてね。絶対に」
朔弥の父は息子の肩に手を置く。
「信じる。必ず戻ってこい」
美咲の母は美咲の手を包み込むように握った。
「美咲……あなたの選んだ道なら、信じるわ。でも……無事で帰ってきて」
雫は涙をこぼしながら、美咲の腕にしがみついた。
「絶対帰ってきて……約束だよ……」
優斗の母は震える声で言う。
「無茶はしないで……お願いだから」
優斗の父は深く息を吐き、息子の背中を軽く叩いた。
「……行くなら、覚悟を持て。帰ってこい」
沙耶は優斗の腕を掴んだまま、涙をこらえて言った。
「アンタ……絶対死ぬなよ……」
風間は静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。我々も全力でサポートいたします」
レオンは三人を見て、わずかに目を細めた。
「行く準備をしろ。時間は多くない」
こうして──
四人は秩父の駐屯地へ向かうことになった。
―秩父ダンジョン前駐屯地―
午後の空気はまだ冷たく、山の影が長く伸びている。
駐屯地の一角には、異様な光景が広がっていた。
資材置き場の前に──
山があった。
食材入りの木箱、麻袋、金属ケース。
折りたたみ式ベッド、簡易トイレ、薪の束、調理器具、テント、ロープ、ランタン、etc……それらが山のように積み上がっている。
レオンはそれを見て、満足げに頷いた。
「物資の調達は、無事出来たようだな」
朔弥は思わず声を漏らす。
「……これ、全部……?」
美咲は目を丸くした。
「え、えっと……キャンプ……じゃないよね……?」
優斗は額を押さえた。
「いやいや……これ、引っ越しだろ……」
風間は苦笑しつつ言う。
「レオンくん……注文通りだとさすがに多すぎるから、最低限に絞ったつもりなのだが……これは、背負って行ける量ではないだろう」
レオンは淡々と答えた。
「問題ない。全部必要だ」
風間は困ったように眉を寄せる。
「いや、必要かどうかではなく……物理的に無理だ。これを四人で運ぶのは──」
レオンは一歩前へ出た。
「運ばない。しまうだけだ」
そう言うと、レオンは手を軽く振った。
次の瞬間──
ドンッ……!
木箱がひとつ、レオンの足元から消えた。
風間が目を見開く。
「……今、消え……?」
レオンは無表情のまま、次々と物資に触れていく。
木箱が消える。
麻袋が消える。
金属ケースが消える。
薪の束が消える。
簡易ベッドが消える。
簡易トイレが消える。
音もなく、影も残さず。
まるで空間そのものが飲み込んでいるようだった。
朔弥は呆然と呟く。
「……いや、ちょっと待て……量……!」
美咲は胸元を押さえ、震える声で言う。
「レオンくん……ストレージって……そんなに入るの……」
優斗は頭を抱えた。
「お前……それ……反則だろ……」
風間は完全に固まっていた。
口を開けたまま、言葉が出てこない。
レオンは最後の薪の束を消し終えると、何事もなかったかのように振り返った。
「ん、何か変か?」
三人と風間は、同時にため息をついた。
(変だよ……)
(変すぎるよ……)
(なんで平然としてんだよ……)
(この子は……本当に何者なんだ……)
それぞれの胸の中で、同じ言葉が渦巻いた。
レオンは気にした様子もなく、淡々と続けた。
「装備の最終確認をする。ダンジョンに入ったら戻る時間はない。最奥まで何階層あるか分からないからな」
四人は装備チェックを始めた。
―朔弥―
マナコートの袖を整え、マギアリングに触れる。
魔力の流れが静かに整い、胸の奥が落ち着いていく。
「……よし。魔力の循環も問題ない」
―美咲―
純白の聖衣の紐を結び直し、白木の癒杖を胸元で抱える。
足元に微弱な浄化が広がった。
「……大丈夫。落ち着いてる……」
―優斗―
紅鱗甲の胸部を軽く叩き、紅迅足の紐を締め直す。
紅牙をわずかに抜き、刀身の赤い輝きを確かめた。
「よし……問題なし」
―レオンー
勇輝装の胸部プレートを押し、肩の位置を調整する。
聖布のマントが風に揺れた。
「準備完了だ」
風間は三人の姿を見つめ、静かに言った。
「……頼んだ。君たちにしかできないことだ」
レオンは三人の前に立ち、ダンジョンの入口へ向かって歩き出す。
その背中は、まさに異世界の勇者だった。
三人は互いに頷き合い、レオンの後を追う。
秩父ダンジョンの入口は、山の呼吸が集まったように静かで、暗かった。
こうして──
四人は、日常の外側へ踏み込んだ。




