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第12話:日常の終わり

 夜明け前の山は、世界そのものが息を止めているように静まり返っていた。


 風間は司令部の中央に立ち、第一探索班の映像を見つめていた。

 森の映像は暗く、木々が密集しているはずなのに──

 一本の通路のように、不自然なほどまっすぐ道が続いている。


(……自然じゃない。森が、道を作っているように見える)


 その違和感が、胸の奥に冷たいものを落としていく。


『……影が、遅れて動いてる……?』


 隊員の声が震える。

 ライトに照らされた木々の影が、光源と一致せず、数秒遅れて揺れている。


(影が遅れる……? そんな現象、聞いたことがない)


 その瞬間──


 ザザッ……!


 映像が乱れた。


「第一陣、応答しろ」


 返答はない。

 代わりに、マイクの奥から何かが擦れる音が聞こえた。


 ……ズ……ズズ……

 ……カサ……カサ……


 風間の背筋が冷たくなる。


(これは……生き物の音じゃない。もっと……違う何かだ)


『……後方、確認する……』


 カメラがゆっくりと後ろを向く。

 そこには何もいない。

 だが──

 本来あるはずのない影だけが揺らいでいた。


『……影だけ、ある……?』


 隊員の声が細くなる。

 影が、ゆっくりと隊員の方へ伸びた。


『な、なんだっ……!』


 次の瞬間──


 ガッ!!


 隊員の体が画面の外へ引きずられた。


『離せッ!! 離れろッ!!』

『腕が……ッ、引っ張られて……!』

『誰かッ、後ろッ!!』


 悲鳴が重なる。

 風間は拳を握りしめた。

 その爪が掌に食い込む。


(……まただ。また、富士の時と同じだ)


 そして──


『パンッ! パンパンパンッ!!』

『ダダダダダダダダッ!!』


 乾いた発砲音が森に弾けた。


『当たらねぇ……! 抜けてる……!』

『影が……形が……変わって……!』

『くそっ、見えねぇッ!!』


 弾丸は確かに影を通過している。

 だが、影がそこに存在していないかのように、何の反応もない。


『やだ……やだ……やだ……!』

『暗い……視界が……暗……っ……!』

『誰か……手……掴まれて……ッ!!』


 風間は胸の奥が冷たく沈むのを感じた。


「くっ、撤退だ! 一陣を撤退させろ!!」


(……これは、戦闘ではない。狩りだ)


 そして──

 ブツッ。

 通信が途絶えた。

 司令部がざわつく。


「第一陣……全滅……!」


 風間は深く息を吸い、すぐに指示を出した。


「第二陣を出せ。第一陣を援護だ。距離を保って絶対に接触するな。可能な限り、第一陣を救い出せ!」


 第二陣の映像が映る。

 隊員たちの呼吸音が、やけに大きく聞こえる。

 森の中の通路は、先ほどよりもさらに細く、まるで何かに誘われるように奥へ続いていた。


(……道が変わっている。ダンジョンが、形を変えている……?)


『……温度、急降下……』

『風が……止まって……』


 そのときだった。


 ザァァ……ッ。


 風が吹いた。

 だが、木々は揺れない。

 風だけが、隊員たちのマイクを撫でていく。

 風間はその音を聞いた瞬間、胸の奥がひどく冷たくなるのを感じた。


(……これは風じゃない呼吸だ)


 次の瞬間──


『後方ッ! 距離五メートル!』

『影が……浮いて……!』

『来るぞッ!!』


『パンパンパンッ!!』

『ダダダダッ! ダダダダッ!』


 第二陣も発砲を開始する。


 だが──


『効かねぇ……! 抜けてる……!』

『違う……避けてるんじゃねぇ……!』

『影が……笑って……る……?』


 ザザザザッ!!


 映像が激しく揺れ、黒い何かが画面を横切った。

 その一瞬だけ、風間は確かに見た。


 ──影が、地面から浮いている。

 ──影が、光を吸い込んでいる。

 ──影が、こちらを見ている。


 風間の心臓が、ひとつ強く脈打った。


(……これは、人間が相手にできる存在じゃない)


「第二陣、通信途絶!」


 司令部が悲鳴のような声を上げる。

 風間は静かに目を閉じた。


(……やはり、あの子たちを呼ぶしかない)


 風がまた吹いた。

 今度は、笑うような音が混じっていた。

 風間は携帯を取り出し、校長へ連絡を入れた。


「……三人を呼んでください。話があります」


 その声は、静かで、しかし決して揺らいでいなかった。



 ―狭山市立上所中学校・校長室―


 校長室は、外の明るさとは対照的に、どこか影が落ちたような静けさに包まれていた。


 窓から差し込む光は柔らかいのに、部屋の奥だけが妙に沈んでいる。

 まるで、この空間だけ時間の流れが遅くなっているようだった。

 三枝校長は、緊張を隠すようにタブレットを両手で持ち、画面を軽くタップした。


「……お待たせしました。風間大臣、三人をお呼びしました」


 画面に映った風間は、疲労を隠しきれない表情で三人を見つめた。

 その目には、政治家の冷静さよりも、何かを恐れている人間の影があった。

 風間はゆっくりと美咲に視線を向ける。


「──天城美咲さん。君は一昨日、秩父ダンジョンで影を見たな」


 美咲の肩がびくりと震えた。

 その震えは、一昨日の恐怖がまだ体の奥に残っている証だった。


 朔弥と優斗は、なぜ美咲だけ? という表情で彼女を見る。


 美咲は喉が詰まり、声が出ない。

 息だけが、細く震えながら漏れた。


 風間は眉を寄せた。

 その表情には無理をさせたくないという迷いが滲んでいた。


「無理に話さなくていい。ただ、君が見たものを──」


 そのときだった。


 校長室の空気が、ふっと揺れた。

 風が吹いたわけでもない。

 誰かが歩いたわけでもない。


 ただ、そこに誰かが現れたとしか思えない揺れ。


「……美咲は話せない。まだ、恐怖が残っている」


 低く、落ち着いた声がした。

 三人は慌てて振り返る。


「「「レオン(くん)……!」」」


 レオンが、気配隠蔽を解いて姿を現した。

 その瞬間、校長の三枝は椅子から半分立ち上がり、驚きに目を見開いた。


「……えっ……あなた、どなた……?」


 その声は、突然現れた人物に対する純粋な戸惑いと、生徒を守ろうとする本能が混じった、かすかに震える声だった。

 一方、タブレットの向こうで風間も目を見開いて驚いていた。


「……レオンくん? どうして君がそこにいるんだ」


 レオンは二人の反応を受けても、いつもの無表情のまま軽く頭を下げた。


「彼らのそばにいる必要があったので」


 朔弥と優斗は、「あちゃー……」という顔で同時にため息をついた。


(また勝手に出てきた……)


(そりゃ驚かれるよな……)


 美咲はレオンの姿を見た瞬間、張り詰めていた肩の力が少しだけ抜けた。

 だが──

 影の記憶が蘇り、指先が震え始める。

 朔弥はその震えに気づき、そっと美咲の手を握った。


「……大丈夫か、美咲?」


 その声は、普段の朔弥よりもずっと柔らかかった。

 美咲は驚いたように朔弥を見たが、すぐに小さく首を振った。

 あなたのせいじゃないと伝えるように。

 優斗も、照れくさそうに頭をかきながら言う。


「……大丈夫だって。俺らもいるしさ。な?」


 美咲の目に、ほんの少しだけ光が戻る。

 その様子を見て、風間は静かに息を吐いた。


(……この子たちは、互いを支え合える関係なのか)


 レオンが二人に向き直る。


「……二人にも話すべきだろう。俺と美咲が見たものを」


 朔弥と優斗は息を呑む。


「……何があったんだよ、美咲」


「俺らが知らないことがあるんだな?」


 美咲は言葉を探すように唇を震わせたが、声は出ない。

 代わりに、レオンが静かに語り始めた。


「──影だ。人の形をしていない。光を吸い込み、存在そのものが歪んでいる」


 校長も風間も、息を呑んで聞き入る。

 レオンは続けた。


「美咲は、その影に触れられかけた。恐怖で声が出なくなるほどに」


 朔弥と優斗の表情が変わる。

 驚き、怒り、そして──

 美咲を守れなかった悔しさ。


「……そんなことが……」


「マジかよ……」


 レオンは二人を見つめ、静かに言った。


「君たちも、もう無関係ではいられない」


 その言葉が落ちた瞬間、校長室の空気が変わった。

 風間が画面の向こうで姿勢を正す。


「……では、私からも話そう」


 風間の声は低く、重かった。


「秩父のダンジョンで、自衛隊の探索班が一陣、二陣共、壊滅した」


 三人の顔色が変わる。


「……壊滅……?」


「二陣って……全員……?」


「そんな……」


 風間は続けた。


「原因は影だ。君たちが遭遇したものと同じだろう」


 レオンが静かに頷く。


「……間違いない」


 風間は、画面越しに四人を見つめた。

 その目には、政治家としての判断ではなく人としての願いが宿っていた。


「──協力してほしい。このままでは、秩父だけでは済まない」


 校長室の空気が、深く沈んだ。

 四人は互いに視線を交わす。

 美咲は震えながらも、朔弥の手を握り返した。

 朔弥は静かに頷く。

 優斗も、いつになく真剣な表情で言う。


「まぁ……やるしかねぇだろ」


 レオンは、その三人を見て小さく目を細めた。

 風間は、その様子を見て確信する。


(……この四人なら、突破口を開けるかもしれない)


 校長室の空気は、静かに、しかし確実に変わっていた。


 日常の終わりと、非日常の始まりが、同じ部屋の中で静かに重なっていた。

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