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第11話:微かな軋み

 朝の光が薄いカーテン越しに差し込み、部屋を淡く照らしていた。


 布団の中でゆっくりと目を開けた朔弥は、しばらく天井を見つめたまま動かなかった。

 身体の奥に残る重さが、一昨日の出来事が夢ではなかったことを静かに告げている。

 布団から抜け出し、寝癖のついた髪を手で押さえながら階段を降りる。

 その途中、庭のほうから空気を切り裂くような鋭い音がした。


 ──あの音だ。


 窓の外を覗くと、庭ではレオンが鍛錬をしていた。

 木刀を振るうたび、朝の光が細く裂けるように軌跡を描く。

 だが、その動きはどこか張り詰めていた。


 ふと、レオンが動きを止めた。

 風の流れを読むように、静かに目を細める。


「……どうした?」


 朔弥が声をかけると、レオンはわずかに首を振った。


「気にするな。ただ……風が、少し騒がしいだけだ」


 その言葉は、まるで何かが近づいていると告げるようだった。



 ―美咲家の朝―


 朝の光がダイニングのテーブルを柔らかく照らしていた。

 美咲はスプーンを持ったまま、テレビの画面に視線を固定している。


『──秩父地域で未明、小規模な地震が観測されました──』


 淡々としたアナウンサーの声が、胸の奥の不安を静かに刺激した。

 その横から、小さな影がそっと覗き込む。


「……お姉ちゃん、昨日のところ……揺れたの?」


 パジャマ姿の雫が、袖をぎゅっとつまんでいた。

 その指先は、ほんの少し震えている。


「雫、起きてたの?」

「うん……なんか、怖くて……」


 美咲はスプーンを置き、雫の頭を優しく撫でた。


「大丈夫。もう終わったから」

「ほんと……?」

「ほんと」


 そう言いながらも、胸の奥のざわつきは消えなかった。

 雫は美咲の腕にしがみつき、小さく呟いた。


「……今日も気をつけてね」


 美咲は微笑んで頷き、制服のリボンを整えて玄関へ向かった。



 ―優斗家の朝―


 テーブルに突っ伏した優斗が、片手にトーストを持ったまま呻いていた。


「……一昨日の疲れが残ってる……学校行きたくねぇ……」


 その背中に、気だるげな声が飛んでくる。


「アンタさぁ、朝からうるさいんだけど。ほら、食べて行きなよ」


 キッチンから顔を出したのは、大学生の姉──沙耶だった。


「いや、今日はマジでキツいんだって……」

「はいはい。どうせ夜更かししたんでしょ。ほら、ニュース見なよ。地震だって」


 優斗はスマホを手に取り、ニュースの見出しをちらりと確認した。


『秩父地域で未明、小規模な地震──』


「……またかよ」


 胸の奥に、言葉にならないざわつきが広がる。


 一昨日の影の気配。

 あの異質な強さ。

 そして──

 自分の無力さ。


 トーストをかじりながら、優斗は小さく呟いた。


「……今日、何も起きなきゃいいけどな」

「アンタが静かにしてれば、何も起きないんじゃない?」


 沙耶が笑いながら言うと、優斗は「うるせぇ」とだけ返し、制服の上着を羽織って玄関へ向かった。



 ―朔弥邸―


 玄関のチャイムが鳴った瞬間、朔弥はちょうど靴を履こうとしていた。

 扉を開けると、制服姿の美咲と優斗が並んで立っていた。


「おはよ」


 美咲が小さく手を振る。


「……眠い。マジで眠い」


 優斗は目の下にクマを作りながら、まだトーストの残りを口に入れていた。


「おはよう。行くか」


 三人は靴を揃えて外に出た。

 玄関の扉が閉まると、家の中に残っていたレオンの気配がすっと薄れていくように感じられた。

 歩き出してすぐ、優斗が欠伸をしながら言った。


「連休前の宿題やった?」

「……やったけど、眠すぎて頭働かん」


 朔弥がぼそっと返す。


「お前はいつもだろ」


 優斗が笑いながら肩を小突く。

 美咲はそのやり取りを見て、小さく苦笑した。


「二人とも、朝から元気だね……」

「元気じゃねぇよ……」


 優斗がぼやき、朔弥は無言で肩をすくめた。


 そんな他愛ない会話が続く。

 声の調子はいつも通り。

 歩幅もいつも通り。

 三人の距離感も、いつも通り。


 ──なのに。


 胸の奥に残るざらつきだけは、誰も口にしなかった。


 一昨日の続き。

 あの影の気配。

 レオンの言った「風が騒がしい」という言葉。


 美咲がふと空を見上げた。

 雲は薄く、風は穏やか。

 それでも、どこか落ち着かない。


「……今日、何も起きなきゃいいけどね」


 美咲の呟きに、優斗が肩をすくめた。


「起きないでほしいけど……なんか、嫌な予感がすんだよな」


 朔弥は二人の言葉に返事をしなかった。

 ただ、胸の奥に沈んだ重さを、そのまま抱えて歩き続けた。


 三人の影が並んで伸びる。

 朝の光は柔らかいのに、その影だけがどこか濃く見えた。

 学校へ向かう道は、いつもと同じはずなのに、どこか違って見える。

 校門が見えてくると、三人は自然と歩く速度を落とした。


「……先生、多くね」


 優斗が眉をひそめる。


 生活指導の教師が二人、校門脇で立ち話をしていた。

 もう一人は腕を組んで周囲を見回している。


「地震のせい……かな」


 美咲の声は、ほんのわずかに震えていた。


 優斗は気づかない。

 朔弥も気づかない。

 一昨日の影を見たのは、レオンと美咲だけだから。


「まぁ、揺れたしな。秩父のほう、結構だったらしいし」


 優斗がスマホをちらりと見せる。

 朔弥は二人の会話を聞きながら、校門の向こうを見つめた。


(……レオン、朝のあれは何だったんだ)


 庭で木刀を振っていたときの、あの一瞬の張り詰めた気配。

 理由はわからない。

 美咲が何を見たのかも知らない。

 ただ、胸の奥に小さなざわつきだけが残っていた。

 校門をくぐると、生徒たちの声が耳に入る。


「昨日の地震、やばくなかった?」

「秩父のほうだけ揺れたんだって」

「ダンジョン、大丈夫なのかな」


 どれも他愛ない話題だ。

 学校はいつも通りの朝を迎えている。


 ただ──

 三人の中で、一人だけ温度が違っていた。

 美咲は胸の奥に沈んだ恐怖を抱えたまま、二人に気づかれないようにそっと息を整えた。


 教室の扉を開けた瞬間、部屋のざわつきがふわっと押し寄せてきた。


「なんで秩父の方だけなんだろうな?」

「うち全然だったのに、ニュースで見てビビったわ」

「あそこ地盤弱いのかな」


 深刻さはない。

 ただの珍しい局地地震としての話題。


 美咲は席に座り、机の端にそっと指を置いた。

 その指先が、ほんの少しだけ震えていた。

 優斗は隣の男子と笑いながら話している。


「揺れなかった地域のほうが多いらしいぞ」


 朔弥は教室の後ろをちらりと見た。

 レオンの姿はない。


(……どこに行ったんだ)


 理由はわからない。

 ただ、胸の奥にざわつきだけが残った。


 授業終わりのチャイムが鳴ると同時に、教室のざわつきが一段階大きくなった。


「……廊下、行かない?」


 美咲の声は、いつもより少し低い。

 三人は教室を抜け、人の少ない廊下の端に立った。


「一昨日のことなんだけど──」


 美咲が言いかけた瞬間、優斗が口を挟む。


「そういえば美咲、お前風間さん来た時、なんであんなに焦ってたんだ?」

「俺ら、気づいたら病院だったから、何があったのか分からないんだけどさ」


 美咲は一瞬だけ言葉を失った。

 影のことを言うべきか迷ったが、喉が固まって動かない。


「……ごめん。ちょっと怖かっただけ」


 それ以上は言えなかった。

 朔弥は美咲の横顔を見つめた。

 ただの怖さではない何かが混じっている。


(……何があったんだ)


 聞きたいのに、聞けない空気があった。

 そのとき──


「隠す必要はないぞ」


 背後から声がして、三人は振り返った。


「うわっ……!」

「心臓に悪いって……」

「気配ゼロかよ……」


 レオンが無表情で立っていた。


「今さっき来たところだ」


(絶対嘘だ)


 三人は同時にそう思ったが、誰も言わない。

 レオンは外を見つめたまま、静かに言った。


「……風が、少し騒がしい」


 その一言で、美咲の肩がわずかに震えた。

 朔弥はその反応を見逃さなかった。


(……やっぱり、何かある)


 優斗も眉をひそめる。


「風って……またそういうのかよ。何が見えてんだよ」


 レオンは答えない。

 ただ、廊下の窓から外をじっと見つめていた。

 学校は普通の朝のまま。

 生徒たちの笑い声も聞こえる。


 なのに──

 四人の周りだけ、空気がひどく静かだった。



 ―校長室―


 職員室の奥、校長室の扉が静かに閉じていた。

 机の上の電話が震え、校長は受話器を取る。


「……はい、三枝です」


 短いやり取りのあと、表情がわずかに固くなる。


「……三人を、ですか。ええ、すぐに」


 受話器を置く音が、静かな部屋に小さく響いた。

 校長は一度だけ深く息を吐き、職員室へ向かった。



 ―教室―


 数学の授業が半ばに差しかかったころ、教室の扉がコン、コンと叩かれた。

 扉が開き、担任の藤原先生が立っていた。

 いつもより少しだけ表情が硬い。


「光野、天城、剣。ちょっと来てくれるか」


 教室の空気が一瞬止まる。


「え、三人?」

「何したの?」

「生活指導じゃね?」


 ざわつきが広がる。

 朔弥はペンを置き、美咲と優斗と目を合わせた。

 美咲の指先が机の下でわずかに震えている。

 三人が立ち上がると、藤原先生は短く言った。


「校長先生がお呼びだ。ついてきて」


 理由は言わない。

 言えない、という空気だった。

 廊下に出た瞬間、レオンの気配が寄り添うように現れた。


(……やっぱり何かある)


 三人は無言のまま、校長室へ続く廊下を歩いた。

 校長室の前に着くと、藤原先生が軽くノックした。


「三人をお連れしました」


 返事はない。

 ただ、中で誰かが動いた気配だけが伝わってくる。


 美咲が息を呑む。

 優斗は落ち着かない様子で足元を見る。

 朔弥は扉を見つめたまま、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。


 廊下の向こうでは授業の声が聞こえる。

 学校はいつも通りだ。

 なのに、この扉の前だけ空気が違う。


 レオンの気配が、三人のすぐ後ろで静かに揺れた。

 やがて、扉の向こうから声がした。


「入りなさい」


 三人は息を整え、扉に手をかけた。

 扉を開けると、校長室の空気は廊下よりもひんやりしていた。

 窓からの光は柔らかいのに、部屋の奥だけが妙に静かだ。

 校長の三枝が机の前で待っていた。


「来てくれてありがとう。座りなさい」


 声は穏やかだが、その奥にある何かが隠しきれていない。

 三人が椅子に座ると、校長は受話器に一度だけ視線を落とし、ゆっくりと三人に向き直った。


「……風間大臣が、あなた達と話がしたいと言っているわ」


 その一言で、部屋の空気がわずかに揺れた。

 美咲の肩が震え、優斗が目を見開く。

 朔弥は胸の奥に沈んでいたざわつきが形を持ち始めるのを感じた。

 レオンの気配が、静かに、しかし確かに強まった。


 ──日常は、ここで終わった。

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