第10話:日常へ戻る音
夜が完全に明け、病院の廊下には消毒液の匂いと、どこか眠気の残る朝の空気が漂っていた。
病室の扉が、コン、コン と控えめにノックされる。
「失礼しまーす。朝の検温に来ましたよ」
看護師さんがカートを押しながら入ってきた。
柔らかい笑顔と、慣れた手つき。
この病院の朝の始まりを象徴するような存在だ。
「はい、体温計どうぞ。脇に挟んでくださいね」
朔弥と優斗に体温計が手渡される。
その瞬間──
レオンが、まるで未知の魔道具を発見したかのように体温計を凝視した。
「……これは」
美咲が嫌な予感を覚える。
レオンは体温計を指先でつまみ、光にかざしながら真剣な声で言った。
「魔力を測る道具か? 魔力の流れを数値化する……そういう類の──」
「レオンくん、それ体温計!! 魔力は測れないよ!!」
美咲のツッコミが病室に響いた。
看護師さんは一瞬驚いたが、すぐに苦笑い。
「ふふ……魔力? は測れませんけど、体温は測れますよ」
レオンは小さく咳払いし、体温計をそっと元の位置に戻した。
「……そうか。違うのか」
(いや、なんでちょっと悔しそうなの……?)
美咲は心の中でそっと突っ込んだ。
「では、お二人は追加の検査がありますので、こちらへ」
看護師さんが優斗と朔弥を促す。
「えっ、まだ検査あるの……?」
朔弥の顔が一気に青ざめる。
「俺もう元気だって! 走れるし! ジャンプもできるし!」
優斗はアピールするが、看護師さんはにこやかに首を振る。
「元気でも検査はしますよ〜」
「マジかよ……」
「終わった……」
二人は肩を落としながら、まるで処刑場に向かう囚人のような足取りで連れていかれた。
美咲は心配で胸がきゅっとなる。
でも──
(……なんか、ちょっとだけ……可愛い)
そんな気持ちも混ざっていた。
レオンはというと、去っていく二人の背中を見ながら真剣に呟いた。
「……検査とは、戦士の耐久試験のようなものか?」
「違うよ!!」
美咲のツッコミが、今日二度目の朝を明るくした。
追加検査を終えた朔弥と優斗が戻ってきたのは、ちょうど病院の朝が少しずつ慌ただしくなり始める時間だった。
「……俺もう今日一日分の寿命使った気がする……」
朔弥は魂が抜けたような顔でベッドに倒れ込む。
「俺もう絶対健康だわ。検査で証明された」
優斗は胸を張るが、腕には採血の絆創膏が貼られている。
美咲は思わず笑ってしまった。
(……ほんと、元気だなぁ……)
そんな中、看護師さんが再び顔を出した。
「では、診察室に移動しましょう。先生がお待ちです」
四人はぞろぞろと診察室へ向かった。
診察室の扉を開けると、白衣の医師がカルテをめくりながら待っていた。
「はい、座ってくださいね。まずは朔弥くんから」
朔弥は椅子に座るなり、恐る恐る医師の顔を見上げた。
「せ、先生……注射は……?」
医師はカルテから顔を上げ、にこりと微笑んだ。
「ん、打ちましょうか?」
「いやいやいや、結構ですーー!!」
朔弥の声が診察室に響き、美咲は思わず吹き出しそうになる。
「ふふ……朔弥くん、そんなに嫌なんだ……」
そのとき、レオンが壁に張られたレントゲン写真を指差した。
「ふむ……興味深い。このスケルトンの絵は実に細かいな」
美咲は一瞬固まり、次の瞬間、勢いよくツッコんだ。
「違うよ!! あれはレントゲン写真!! スケルトンは飾らないよ!!」
レオンは真剣な顔のまま、こくりと頷く。
「……そうか。違うのか」
(ほんと、なんでちょっと残念そうなの……?)
美咲は心の中でそっと突っ込んだ。
医師は咳払いをして、カルテを閉じながら言った。
「検査の結果は問題なしですね。午後には退院しても大丈夫です」
「ご家族に迎えに来てもらってください」
「よっしゃ帰れる!!」
優斗がガッツポーズ。
「やった……!」
朔弥もほっと息を吐く。
美咲は胸の奥がじんわり温かくなる。
レオンも静かに頷いた。
(……本当に、よかった……)
診察室を出ようとしたその瞬間、レオンがくるりと振り返り、医師に向き直った。
「この世界の治癒魔法はどこで学べる?」
医師は一瞬きょとんとし、カルテを持つ手を止める。
「……え?」
レオンは構わず続けた。
「魔力の流れを視る装置はあるか?」
医師は困ったように眉を下げ、ゆっくりと首を振った。
「……ないです」
「レオンくん、やめて……!」
美咲が慌てて袖を引っ張る。
レオンは不満そうに眉を寄せた。
「……この世界は不便だな」
「いや、魔力がある世界基準で語らないで!!」
美咲のツッコミが、張り詰めかけた空気を一気に明るく弾ませた。
病院の玄関前。
昼の光がガラス越しに差し込み、朝の緊張がようやくほどけていくような、柔らかい空気が漂っていた。
そこへ──
二台の車が滑り込むように停まる。
ドアが開くと、優斗の両親、朔弥の両親、美咲の母が次々と降りてきた。
朔弥の母が、肩にそっと触れる。
「……顔色、良くなったじゃない。ほんと、よかった」
「昨日より元気そうで安心したよ」
父もほっとしたように息を吐く。
優斗の母も笑顔で言った。
「優斗、ちゃんと歩けてるじゃない。よかったわ」
「心配したぞ」
優斗の父も、どこか照れくさそうに頭をかく。
朔弥は少し照れながらも、いつもの調子で笑った。
「……心配かけたね。でも、もう大丈夫だよ」
優斗も胸を張る。
「俺も元気! ほら、見て!」
と軽くジャンプしてみせる。
「やめなさいってば!」
母に軽く尻を叩かれ、みんなが笑った。
美咲はその光景を見て、胸の奥がじんわり温かくなる。
(……よかった。本当に、みんな無事で……)
怒りも説教もない。
ただ、帰ってきた子どもたちを迎える家族の安心だけがそこにあった。
美咲の母が、レオンの前に立つ。
「レオンくん……改めて、本当にありがとうね。あなたがいてくれてよかった……」
深々と頭を下げる母。
レオンは一瞬固まり、ぎこちなく、しかし丁寧に頭を下げ返した。
「……俺は、美咲を守るのが役目だ」
その言葉に、美咲の母は目を丸くした。
「えっ……あ、ありがとう……?」
(レオンくん……言い方……!)
美咲は心の中で全力ツッコミ。
優斗の父が車のドアを開けながら言った。
「よし、帰るぞ。お前ら、もう二度と勝手に行くなよ」
その言葉に、朔弥・優斗・レオンの三人はほぼ同時に返事をした。
「……はい」
「……はい」
「……はい」
一瞬の静寂。
次の瞬間、周囲の大人たちが一斉に声を上げた。
「いや君は違う!!」
レオンがきょとんとした顔で首を傾げる。
「……違うのか?」
朔弥がすかさず突っ込んだ。
「レオン、お前は行った側じゃなくて探した側だろ!!」
美咲も慌てて続く。
「そうだよ!! なんで一緒に反省してるの!?」
そのやり取りに、両親たちも思わず笑ってしまった。
高速道路に乗ってしばらくすると、優斗の父がハンドルを切りながら言った。
「よし、ちょっと休憩するか。みんな腹減ってるだろ?」
「減ってる!!」
優斗が即答。
「……俺も」
朔弥も控えめに手を挙げる。
美咲は思わず笑った。
(ほんと、元気だなぁ……)
車がサービスエリアに入ると、昼前の時間帯で人も多く、どこか旅の途中みたいな空気が漂っていた。
「アイス買う!!」
優斗は車を降りるなり、一直線に売店へ走っていく。
「ちょっ……優斗くん!? 走らないで!」
美咲が慌てて追いかける。
朔弥はというと、ショーケースを覗き込みながら呟いた。
「……プリンがある……」
「買えば?」
美咲が笑うと、朔弥はこくこく頷いた。
その横で──
レオンが棚に並んだ小瓶を手に取っていた。
透明な瓶に、金色のラベル。
栄養ドリンクと書かれている。
レオンは真剣な顔で瓶を光にかざし、低く呟いた。
「……見てみろ。この世界にもマナポーションがあったぞ」
その瞬間、三人が同時に反応した。
美咲が慌てて手を伸ばす。
「それただの飲み物!! 魔法関係ないよ!!」
優斗は半ば叫ぶように続いた。
「飲むなよ!? 絶対飲むなよ!?」
朔弥も全力でツッコミを入れる。
「それ飲んだら元気にはなるけど……魔力は回復しねぇよ! てか飲むなよ!?」
三方向からのツッコミを受け、レオンは少しだけ不満そうに眉を寄せた。
「……そうか。違うのか」
(なんでちょっと残念そうなの……?)
美咲は心の中でそっと突っ込んだ。
優斗はアイスを片手に満面の笑み。
朔弥はプリンを大事そうに抱えている。
「……プリン……これだけは譲れねぇ……」
「そんな真剣な顔で言うこと?」
「命の次に大事なんだよ!!」
美咲はお茶を買って、ほっと一息。
レオンは──
結局、栄養ドリンクを棚に戻し、代わりに水を買っていた。
「……水は裏切らない」
「いや、名言みたいに言うな!!」
朔弥のツッコミに、優斗と美咲が吹き出した。
車がゆっくりと住宅街に入り、見慣れた家々が窓の外を流れていく。
病院の白い空気とは違う、どこか生活の匂いが戻ってくる感じがして、美咲は胸の奥がじんわり温かくなった。
「……あ、着いた」
優斗の父が車を停めると、朔弥の家の前には、昨日までと変わらない静かな庭が広がっていた。
けれど──
その静けさが、今日は少しだけ特別に見えた。
車から降りると、朔弥が深く息を吸い込んだ。
「……はぁ……帰ってきた……」
その声には、安堵と、少しの疲れと、そして生きて帰れたという実感が混ざっていた。
優斗も隣で伸びをしながら言う。
「俺さ……マジで死ぬかと思ったんだよな」
「……俺も」
朔弥が苦笑いする。
美咲は二人の顔を見て、胸の奥がきゅっとなる。
「……もう、無茶しないでね。本当に……心臓に悪いから……」
その声は怒りでも呆れでもなく、ただただ心配した気持ちがそのまま溶けたような声だった。
朔弥は照れたように視線をそらし、優斗は頭をかきながら笑った。
「……ごめん」
「……悪かったって」
美咲はふっと笑う。
「謝るなら、ちゃんと元気でいてね」
そのやり取りを、レオンは少し離れた場所で静かに見ていた。
風に揺れる木々の音。遠くで聞こえる子どもの声。
どこにでもある日常の音。
レオンはその音を確かめるように目を閉じ、ゆっくりと頷いた。
「……無茶は、しない方がいい」
その声は低くて、けれどどこか優しかった。
美咲はレオンの横顔を見て、胸の奥がまた温かくなる。
(……レオンくんも、心配してたんだ……)
言葉にはしないけれど、その沈黙が全部を物語っていた。
「とりあえず……家に入ろうぜ」
朔弥が玄関の扉を開ける。
「おう、じゃあまたな。あー腹減ったー!」
優斗が元気に叫ぶ。
「……ほんと、優斗くんは元気だね。また明日―」
美咲が笑う。
レオンは靴を脱ぎながら、真剣な顔で言った。
「……食事は大事だ」
「名言みたいに言うな!!」
朔弥のツッコミが、家の中に明るい笑いを広げた。
病院とはまったく違う生活の匂いが家の中に満ちていた。
味噌汁の残り香、木の床の温もり──
どれも、朔弥にとっては帰ってきた実感そのものだった。
「……ふぅ……帰ってきたなぁ」
靴を脱ぎながら、朔弥が心底ほっとした声を漏らす。
「ほんとよ。もう……心配したんだからね」
母が言う声は、怒っているようで怒っていない。
むしろ、息子が目の前にいる安心が滲んでいた。
父も腕を組みながら、わざとらしく咳払いをする。
「まぁ……無事ならいい。だが、もう二度と勝手な真似はするなよ」
「……わかってるって。俺だって、もうあんな目に遭いたくないし」
朔弥は素直に頭を下げつつ、いつもの軽さも忘れない。
その横で、レオンが少しだけ居心地悪そうに立っていた。
「……俺も、心配をかけた」
父と母は驚いたように目を丸くしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「レオンもありがとうね。朔弥を……守ってくれて」
レオンは一瞬だけ目を伏せ、ぎこちなく頭を下げた。
「……当然だ。俺は……仲間を守る」
その言葉に、母は胸に手を当てて小さく息を呑む。
(レオン……ほんとに真っ直ぐな子……)
朔弥は照れくさそうに笑った。
両親が夕飯の準備に向かい、家の中が少し落ち着いた頃。
レオンはふと、リビングから庭へと歩き出した。
夕焼けの光が芝生を赤く染め、風が木々を揺らしている。
どこにでもある、平和な夕方の景色。
……なのに。
レオンの表情が、ほんのわずかに硬くなる。
「……」
その気配に気づいた朔弥が、後ろから声をかけた。
「レオン? どうしたんだよ」
レオンは空を見上げたまま、しばらく黙っていた。
夕焼けの赤が、彼の瞳にゆっくりと映り込む。
「……いや。気のせいだ」
ゆっくりと首を振る。
その声は静かで、けれどどこか、ほんの少しだけ重かった。
朔弥は隣に立ち、同じ空を見上げる。
「……そっか」
(レオンが気のせいって言う時って、大体気のせいじゃないんだよな……)
心の中でぼそっと呟きながらも、深くは聞かない。
風が吹き、二人の影が庭に長く伸びる。
その影の先に、まだ誰も知らない何かが潜んでいることを──
この時の二人は、まだ知らなかった。




