第9話:涙の朝
夜が明けた。
カーテン越しの淡い光が、白い病室の空気をゆっくり押し広げていく。
その光は、夜の名残をそっと追い出すように、壁や床の冷たさを少しずつ溶かしていった。
昨夜──
朔弥と優斗は駐屯地の医務室で応急処置を受け、深夜のうちに救急車でこの総合病院へ移送された。
美咲とレオンも同行し、気づけば、二人のベッドのそばで夜を明かしていた。
美咲は椅子に座ったまま、朔弥の手を握りしめて眠っていた。
指先には、夜の間ずっと離さなかった証のように、微かな痺れが残っている。
レオンは窓際に立ち、薄青い空を静かに見つめていた。
その横顔には疲労の影があるのに、張り詰めた気配だけは崩れない。
電子音のリズムの中、美咲の肩が小さく揺れた。
眠りの浅いところを、何かがそっと引き上げたような感覚。
握っていた朔弥の手が──
ほんのわずかに震えた。
美咲のまぶたがぴくりと動く。
(……今……?)
夢か現実か分からないほどの小さな動き。
それでも、美咲の心臓は一瞬で跳ね上がった。
もう一度、指が動く。
「……さ……くや……?」
掠れた声が喉から漏れた。
レオンが気配で気づき、静かに振り返る。
朔弥のまつげが、重たそうに震えた。
「……ん……」
その小さな声が、美咲の胸の奥を一気に熱くする。
「朔弥くん……! 朔弥くん……!」
美咲は身を乗り出し、彼の顔を覗き込んだ。
ゆっくりと瞼が開き、焦点の合わない視線が天井を彷徨う。
やがて、美咲の顔を捉えた。
「……美咲……?」
その一言で、美咲の目から涙がこぼれた。
「よかった……! 本当に……よかった……!」
涙が止まらない。
朔弥は困ったように笑い、かすれた声で言った。
「……泣くなよ……美咲……俺……ちゃんと……生きてるって……」
美咲は首を振り、握った手をぎゅっと強く握り返した。
「生きてる……それだけで……十分だよ……」
レオンが近づき、静かに言葉を落とす。
「目覚めてよかった。だが、まだ動くな。体力が戻っていない」
朔弥はレオンを見て、弱々しく笑った。
「……レオン……お前……助けてくれたんだろ……?」
レオンは短く頷いた。
その仕草だけで十分だった。
隣のベッドで布団が小さく揺れた。
「……ん……ここ……どこだ……?」
美咲が振り返ると、優斗がゆっくりと目を開けていた。
「優斗くん……! よかった……!」
状況を理解するまで数秒。
レオンと美咲の顔を見て、優斗は息を吐いた。
「……俺……生きてるのか……」
「生きてるよ……! ちゃんと……!」
優斗は天井を見つめ、ぽつりと呟く。
「……ありがとな……本当に……ありがとう……俺……死んでてもおかしくなかったよな……」
レオンは淡々と答えた。
「生きて帰れた。それで十分だ」
美咲は胸が熱くなり、涙を拭いながら笑った。
(……本当に……よかった……)
美咲は胸の奥の熱を必死に抑えようとしていた。
その静けさを、破るように──
バンッ。
病室の静けさを乱暴に切り裂く音。
扉が壁にぶつかり、金属の取っ手が震えた。
部屋の中に駆け込んできたのは二人の両親。
顔色は青ざめ、目の下には深い隈。
息は荒く、肩が上下している。
「朔弥!!」
「優斗!!」
叫び声は、泣き声にも怒鳴り声にも聞こえた。
その声だけで、どれほど夜を眠れずに過ごしたのかが分かる。
朔弥と優斗は、逃げ場を失った子どものように固まった。
二人の顔色を確認した瞬間、その場にいた全員の胸の奥で、張り詰めていた何かがほどけた。
「何考えてるの!? 勝手にダンジョンなんて!!」
「死んでたらどうするつもりだったんだ!!」
「心配で……心配で……! お前たちが戻らないって分かった時……!」
声が震えている。
怒りよりも、恐怖の方が強い震えだった。
朔弥の母は肩を掴んだまま、言葉を詰まらせた。
「……生きてて……よかった……本当に……よかった……」
朔弥は俯いた。
「……ごめん……」
優斗の父は拳を震わせながら言った。
「お前……! 俺たちがどれだけ心配したと思ってる……!」
優斗は唇を噛み、声を絞り出す。
「……すみません……本当に……すみません……」
怒鳴り声と涙声が混ざり、病室の空気は重く、熱く、痛いほどに満ちていく。
美咲は胸が苦しくなった。
自分のせいではないと分かっていても、胸の奥がひりついた。
(……怒られて当然だよね……でも……生きてるから怒られるんだ……)
レオンは少し離れた場所で静かに見つめていた。
その瞳の奥に、言葉にしない温度だけが静かに灯っていた。
怒りが涙に変わり、涙が安堵に変わり、やがて両親たちの肩から力が抜けていく。
「……もう……二度と……こんなこと……しないで……」
それは叱責ではなく、願いだった。
二人は深く頭を下げた。
「……はい……」
「……すみません……」
静けさが戻った。
だがその静けさは、怒号よりも胸に刺さった。
嵐が過ぎ、病室には重たい静けさが残った。
けれどその静けさは、怒りの余韻ではなく──
生きていてくれたという安堵が形になった後の静けさだった。
両親たちは深く息を吐き、子どもたちの肩にそっと手を置いた。
「……もういい。とにかく……無事でよかった……」
朔弥はゆっくりと顔を上げる。
視線の先には、美咲。
泣き腫らした目でこちらを見つめている。
その目に映る自分が、どれほど心配をかけたのかを物語っていた。
朔弥は弱々しい笑みを浮かべた。
「……美咲……」
美咲は肩を揺らし、涙を拭って顔を上げた。
「……なに……?」
朔弥は少し視線をそらし、それでもしっかりと向き直った。
「……心配かけて……ごめん」
その言葉は、美咲の胸の奥に静かに落ちた。
「……ううん……生きててくれたら……それだけで……」
声が震え、最後は息になった。
レオンはそのやり取りを静かに見守っていた。
美咲の涙が安堵の涙に変わったことを感じ取ったのか、その瞳の奥に柔らかい光が宿った。
(……よかったな、美咲)
言葉にはしない。
けれど、その沈黙は美咲の心をそっと支えていた。
静けさが落ち着き始めた頃──
廊下の空気がわずかにざわめいた。
低い指示、複数の足音、無線の短い応答。
ただ者ではない気配が、病室の外からじわりと迫ってくる。
「大臣がお通りになります!」
扉が静かに開き、SPたちが先に入る。
その後ろから、風間防衛大臣が姿を現した。
昨夜、モニター越しに見た時と同じ鋭い眼差し。
だが今は、その奥に人としての心配が滲んでいた。
「……朔弥君、優斗君。まずは無事でよかった」
朔弥と優斗は反射的に背筋を伸ばした。
両親たちも慌てて頭を下げる。
風間は二人のベッドのそばまで歩み寄り、静かに、しかし逃げ場のない声で言った。
「さて──話を聞かせてもらおう。なぜ、ダンジョンに入った?」
病室の空気が止まった。
美咲は息を呑み、レオンは静かに二人を見つめる。
朔弥と優斗は顔を見合わせ、視線を落とした。
沈黙。
それは怒られる恐怖ではなく自分たちがどれほど危険なことをしたのかようやく理解し始めた少年たちの重さだった。
朔弥は喉を鳴らし、息を吸った。
「……昨日……家族で山に登ってて……その時……」
風間は腕を組み、続きを促した。
「話してみろ」
朔弥は目を閉じ、昨日の光景を思い返す。
──あの昼下がりの山頂。
―回想―
三家族の笑い声が広がる中、朔弥は優斗の肩を軽く叩いた。
「なぁ優斗……この山にダンジョンあるらしいじゃん。ちょっと2人で行ってみない?」
「2人でか? 危なくないか?」
「1階層を覗くだけだって。抜け道も見つけたしさ」
優斗はため息をつき、肩をすくめた。
「……まぁ、ちょっとだけなら」
二人はこっそり立ち上がり、家族の視線を避けるように山道の奥へ消えていった──
―回想終わり―
話が終わると、病室の空気はさらに重く沈んだ。
朔弥は肩を落とし、優斗も深く頭を下げた。
「……軽率でした……」
「……ほんとに……すみません……」
風間は長い沈黙の後、低く言った。
「命を捨てる覚悟で行動するのは勇気ではない。それは無謀だ。二度と同じことをするな」
その言葉は叱責ではなく、宣告だった。
二人は完全に萎縮した。
「……はい……」
「……すみません……」
美咲は胸が痛くなり、レオンは静かに二人を見つめていた。
その瞳には、生きて帰れたことの重さを知る者の光があった。
風間は視線をレオンと美咲へ移し、昨夜の話の続きを始めた。
「昨日の件だが……影の異常は、放置できない」
美咲の背筋が震えた。
「自衛隊で調査隊を編成し、秩父のダンジョンへ向かわせる。正式な調査だ」
レオンが静かに問う。
「……俺たちも行くべきか?」
風間は慎重に言葉を選んだ。
「君たちの力は必要だ。だが、まずは体を休めろ。正式な要請は後日伝える」
レオンは短く頷いた。
「分かった」
美咲の胸がざわつく。
(……また、あの影と向き合うの……? 怖い……でも……)
レオンの横顔を見る。
その瞳は揺らがず、ただ前だけを見据えていた。
(……レオンくんがいる……それだけで……少し、怖くなくなる……)
美咲は小さく息を吐いた。
風間が去ると、病室の空気はゆっくり緩んだ。
だがその緩みは安心ではなく次の嵐の前の静けさのようだった。
朔弥と優斗は疲れ切って眠り、両親たちもようやく椅子に腰を下ろした。
美咲は窓の外を見上げた。
朝の光は穏やかで、まるで何事もなかったかのように世界を照らしている。
けれど──
その奥に潜む影の気配は、決して消えていなかった。
レオンは窓の外を見つめたまま、静かに言った。
「……嵐は、これからだ」
美咲は小さく頷く。
「……うん……」
震えていたが、逃げる気配はなかった。
新しい一日が始まる。
そして──
新しい戦いの気配も、確かにそこにあった。




