第7話:影の追跡
聖域の光が完全に消え、広間は再び薄暗い影に包まれた。
広間の奥からは、まだ低い唸りが響いている。
レオンは深く息を吐き、朔弥の身体へ歩み寄る。
呼びかけても返事はない。
だが、胸は上下していた。
生きている──
それだけで十分だった。
「レオンくん……朔弥くん……大丈夫かな……?」
美咲の震える声に、レオンは短く頷いた。
「息はある。だが……このまま放置すれば危険だ。すぐに医療処置をしないと」
朔弥も優斗も美咲の範囲治癒によって外傷は治癒された。
それでも、失った血は戻らないので、弱々しい呼吸が続いている。
レオンは朔弥に続き、優斗の身体も抱え上げる。
片腕で優斗を抱え、もう片方の腕で朔弥を背負う。
「レオンくん……その状態じゃ……戦えないよ……!」
レオンは苦笑を浮かべた。
「分かってる。だが……俺以外運べない」
迷いのない声だった。
勇者としての責任と、仲間を守るという強い意志だけが宿っている。
美咲は唇を噛む。
「私……運べなくてごめん……私がもっと強かったら……」
レオンは首を振った。
「美咲のせいじゃない。むしろ……美咲がいなかったら、朔弥たちはここで死んでた」
美咲の目に涙が滲む。
「……でも……」
レオンは優しい声で呼んだ。
「美咲。お前は……二人を生かした、それだけで十分だ。あとは……任せろ」
その言葉に、美咲の胸が熱くなる。
レオンは二人の体重をしっかりと受け止め、ゆっくりと立ち上がる。
仲間の命を背負う勇者そのものの姿だった。
美咲はレオンの隣に並ぶ。
「……行こう、レオンくん。早く……外へ……!」
レオンは頷き、出口へ視線を向けた。
「……ああ。ここに長居はできない。急ぐぞ、美咲」
二人は倒れた仲間を抱え、闇の広間を後にした。
だが──
背後で、何かがゆっくりと蠢いた。
──ゴォォォォ……。
広間の奥、さらに下層へ続く暗い通路から、空気そのものを震わせるような低い唸りが響いた。
美咲の背筋がぞくりと冷たくなる。
「……っ……なに……今の……?」
寒さでも恐怖でもない。
もっと深い、もっと原始的な──
本能の奥底を直接撫でられるような感覚。
レオンも眉をひそめ、通路の奥へ鋭い視線を向けた。
「あれは……ただの魔物の気配じゃない」
その言葉に、美咲の心臓が跳ねる。
(……レオンくんがただの魔物じゃないって言うなんて……そんな……)
通路の奥は真っ暗だった。
だが、その暗闇は質が違う。
普通の影は光を吸う。
だがその闇は──
光そのものを拒絶しているみたいだ。
まるで、『ここに光を持ち込むな』とでも言うように。
美咲は通路の奥を見つめながら、無意識に胸元を押さえた。
「……なんか……呼ばれてる……気がする……」
「美咲、見るな。その呼び声に応えるのは……危険だ」
美咲の瞳が揺れる。
「……でも……あの奥……誰かが……」
「違う。誰かじゃない」
レオンの声は低く、確信に満ちていた。
「……あれは何かだ。意思を持った影……いや、もっと……根源的な……」
言葉を探すように、レオンは奥の闇を睨みつける。
美咲は震える声で呟いた。
「……あの闇……生きてるみたい……」
その瞬間──
通路の奥で、影がゆっくりと脈動した。
光のないはずの闇が、心臓の鼓動のように膨らんでは縮む。
美咲は思わず後ずさる。
「……っ……やだ……あれ……生きてる……!」
レオンは朔弥と優斗を抱えたまま、美咲の前に立つように位置を変えた。
「美咲、絶対に近づくな。あれは……呼んでるんじゃない誘ってるんだ」
美咲の喉がひゅっと鳴る。
「……誘って……?」
「獲物を……深層へ引きずり込むために、な」
その言葉に、美咲の全身が総毛立つ。
闇は再び脈動し、今度は低い囁きのような音が混じった。
──……ミ……サ……キ……。
美咲の肩が跳ねる。
「っ……! 今……名前……呼ばれた……!」
「聞くな! 耳を塞げ、美咲!」
美咲は慌てて耳を塞ぐが、声は耳ではなく頭の奥に直接響いてくる。
──……オイデ……ミサキ……。
「やだ……やだ……! レオンくん……怖い……!」
「大丈夫だ、美咲。俺がいる。絶対に……お前をあそこには行かせない」
その言葉に、美咲の震えが少しだけ収まる。
だが、闇はまだ脈動を続けていた。
レオンは奥の闇を睨みつけ、低く呟いた。
「……美咲、行くぞ。今すぐ撤退だ」
美咲は涙を拭い、必死に頷いた。
「……うん……! ここ……もう……いたくない……!」
二人は闇に背を向け、出口へと走り出した。
背後の闇は、獲物を逃した捕食者のように、ゆっくりと蠢き続けていた。
──……ミサキ……。
耳ではなく、心臓の奥に直接触れてくるような湿った囁き声。
美咲は震える手で胸元を押さえ、必死に呼吸を整えようとしていた。
「……レオンくん……あの奥……まだ……呼んでる……」
レオンは朔弥と優斗を抱えたまま一度止まると、奥の闇を睨みつけた。
その表情には、勇者としての本能が告げる危険と、確かめたいという衝動が混ざっていた。
美咲はその横顔を見て胸がざわつく。
(……レオンくん……行きたいって思ってる……? あの奥に何かあるって……)
レオンはゆっくりと目を閉じ、深く息を吸った。
「……美咲。俺は……本当は……行きたい」
美咲の心臓が跳ねる。
「……っ……!」
「この呼び声……ただの魔物じゃない。もっと……根源的な何かだ。このダンジョンの活性化の原因……その核心が、あの奥にある」
美咲は唇を噛んだ。
「……じゃあ……行くべき……なんじゃ……」
レオンは首を振った。
「行きたい。確かめたい。倒したい。勇者として……そう思う」
戦士としての本能が叫んでいるような声だった。
だが──
レオンは朔弥と優斗の身体を抱え直し、美咲の方へ向き直った。
「……でもな、美咲」
その瞳には、戦場の鋭さではなく、仲間を想う人間の温度が宿っていた。
「今の俺たちじゃ……絶対に勝てない」
美咲の目に涙が滲む。
「……レオンくん……」
「美咲は魔力が残ってない。朔弥も優斗も動けない。俺は……その二人を抱えてる。この状態で戦えば……全員、死ぬ」
勇者としての誇りを押し殺すような、苦しい決断だった。
美咲は震える声で言う。
「……でも……このままじゃ……もっと悪いことが起きるかもしれない……」
レオンは静かに頷いた。
「分かってる。だからこそ……今は行けないんだ」
美咲の瞳が揺れる。
「……今は……?」
レオンは強い声で言った。
「撤退だ。生きて戻る。体勢を整える。仲間を治す。そして──必ず……戻ってくる」
「レオンくん……」
レオンは美咲の肩に手を置いた。
「美咲。お前がいてくれたから……俺たちは生きてる。だから……今度は俺が守る番だ」
美咲の目から涙がこぼれた。
「……うん……信じてるよ……一緒に……戻ってこよう……」
レオンは力強く頷いた。
「行くぞ、美咲。ここは……もう危険すぎる」
二人は闇に背を向け、出口へと走り出す。
背後で深層の闇が、獲物を逃した捕食者のように蠢き続けていた。
「美咲。俺が前を走る。お前は後ろを見てくれ。何か来たら……すぐに言え」
美咲は震える声で頷いた。
「……うん……! 任せて……!」
レオンは深く息を吸い、出口へ視線を向けた。
その瞬間──
背後の闇が、どくん……どくん……と脈動した。
美咲の背筋が凍りつく。
「レオンくん……! あれ……まだ動いてる……!」
レオンは振り返らず、低く呟いた。
「急ぐぞ──!」
レオンは地を蹴った。
二人の体重が肩にのしかかる。
それでも速度は落ちない。
むしろ、仲間を抱えているとは思えないほど速い。
美咲は必死にその背中を追いかける。
「レオンくん……! 待って……!」
「大丈夫だ、美咲。俺を見失うな!」
通路に響くのは、レオンの荒い呼吸と、美咲の必死の足音。
そして──
背後から聞こえる、影が這うような湿った音。
──ズ……ズズ……。
美咲の心臓が跳ねる。
「レオンくん……! ついてきてる……! 影が……!」
「分かってる! でも戦えない! 走るしかないんだ!」
焦りを押し殺した声だった。
勇者である彼が、ここまで声を荒げるのは珍しい。
美咲は涙をこぼしながら叫ぶ。
「……怖い……! でも……レオンくんがいるから……走れる……!」
「美咲……絶対に離れるな!」
通路の先に、かすかな光が見えた。
出口だ。
だが──
背後の影が大きく揺れた。
──……ミサキ……。
美咲の足が止まりかける。
「っ……! また……呼んでる……!」
「美咲! 走れ!! あれは呼んでるんじゃない! お前を捕まえようとしてるんだ!!」
美咲は涙を振り払うように顔を上げ、必死に足を動かした。
「……うん……! 行く……! レオンくんと一緒に……!」
レオンは仲間を抱えたまま出口へ向かって全力で走る。
美咲はその背中を追い、影の気配を振り返りながら叫んだ。
「レオンくん……! 影……まだ来てる……! すごく……速い……!」
レオンは歯を食いしばり、出口の光を睨みつけた。
「もう少しだ……! 美咲、絶対に倒れるな……!」
美咲は涙をこぼしながら叫び返す。
「倒れない……! レオンくんが……前にいるから……!」
影の気配が、背後で大きく膨れ上がった。
まるで闇そのものが息を吸い込み、獲物を飲み込む準備をしているかのようだった。
──ズズズズズッ……!
美咲は振り返らない。
振り返ったら終わる。
そんな確信が、理屈ではなく本能として胸に突き刺さっていた。
(……来てる……! すぐそこまで……!)
足がもつれそうになる。
肺が焼けるように痛い。
それでも走る。
レオンの背中が、光のように前を導いている。
「美咲!! 出口だ!!」
レオンの声が、闇を裂くように響いた。
その先には、確かに光があった。
地上へ続く、唯一の道。
美咲は涙を振り払い、最後の力を振り絞る。
「……行く……! みんなと……帰る……!!」
だが──
影は諦めていなかった。
闇の奥から、赤い眼がいくつも開く。
その全てが、美咲だけを見つめていた。
──……ミサキ……。
──……オイデ……。
声が、頭の奥に直接触れてくる。
耳を塞いでも意味がない。
心臓の鼓動に混ざって、囁きが入り込んでくる。
美咲の足が一瞬だけ揺らいだ。
(……やだ……やだ……! 来ないで……!)
その瞬間、影が床を滑るように迫り、黒い触手が美咲の足首を掴もうと伸びた。
「美咲!! 跳べ!!」
レオンの怒号が飛ぶ。
美咲は反射的に地を蹴り、影の触手を飛び越えた。
背後で、触手が床を叩きつける鈍い音が響く。
──ズシャッ……!
影は形を崩し、黒い液体のように散ったが、すぐに再び形を取り戻し、追跡を再開する。
美咲は泣きながら叫んだ。
「レオンくん……! もう無理……! 怖い……!!」
レオンは仲間を抱えたまま、それでも速度を落とさずに叫び返す。
「美咲!! 俺が前にいる!! 絶対に……絶対に守る!! だから──諦めるな、走れ!!」
その声に、美咲の胸が熱くなる。
(……レオンくん……こんな状況でも……私を……)
涙を拭い、美咲は前だけを見て走った。
出口の光が、もうすぐそこにある。
だが──
影は最後の力を振り絞るように、巨大な波のように膨れ上がった。
──ズズズズズズッ……!!
美咲の背中に、冷たい気配が触れた気がした。
「レオンくん……!! もうだめ……!! すぐ後ろ……!!」
「美咲!! 止まるな!! そのまま光の中へ飛び込め!!」
美咲は大きく息を吸い込み、出口へ向かって全力で駆け抜けた。
影の触手が、最後の一撃を放つように伸びる。
──ミサキ……!
美咲は振り返らず、ただ光へと飛び込んだ。
次の瞬間──
影の気配が、ふっと途切れた。
光が、闇を断ち切ったのだ。
眩しさに目が焼けるようだった。
だが、それは恐怖の光ではない。
温かい。
柔らかい。
生きている世界の光。
美咲はその場で膝から崩れ落ち、地面に手をついた。
「……はぁ……っ……はぁ……っ……外……だ……帰って……これた……!」
涙が止まらない。
恐怖から解放された身体が、一気に力を抜いていく。
レオンは朔弥と優斗を抱えたまま、出口から少し離れた場所まで走り、ようやく足を止めた。
「……っ……はぁ……はぁ……美咲……無事か……?」
美咲は涙を拭いながら、震える声で答えた。
「うん……! レオンくんこそ……!」
レオンは頷き、二人の脈を確認する。
「……大丈夫だ。二人とも……生きてる。美咲のおかげだ」
美咲は首を振った。
「違うよ……レオンくんが……ずっと前で……守ってくれたから……私……走れたんだよ……!」
レオンは少しだけ笑った。
「……そうか。なら……お互い様って事だな」
美咲の胸が熱くなる。
だが、安堵の中にも、まだ影の気配が残っていた。
美咲は出口の方を振り返る。
ダンジョンの入口は、まるで闇が名残惜しそうに揺れているように見えた。
──……ミサキ……。
美咲は思わず耳を塞ぐ。
「……っ……! まだ……呼んでる……!」
レオンは美咲の肩を掴み、強く引き寄せた。
「美咲。もう聞くな。ここは……外だ。あいつらの領域じゃない」
美咲は震える声で答えた。
「……うん……分かってる……でも……怖い……」
レオンは優しく言った。
「大丈夫だ。俺がいる。ここから先は……俺たちの世界だ」
その言葉に、美咲の涙がまた溢れた。
(……帰ってこれた……本当に……生きて……帰ってこれた……)
レオンは空を見上げ、深く息を吸った。
「美咲。自衛隊の駐屯地に急ぐぞ。二人を……助けなきゃならない」
美咲は涙を拭い、力強く頷いた。
「うん……! 行こう……レオンくん……!」
二人は倒れた仲間を抱え、光の世界へと歩き出した。
その背後で──
ダンジョンの闇は、獲物を逃した捕食者のように、静かに揺れ続けていた。




