第9話 正解と本音は違う
裏アカの投稿は、消えなかった。
『今度は被害者ヅラした女が先生に泣きついたらしい』
何度見ても、同じ文字だった。
見間違いじゃない。
誰かの冗談でもない。
もう、俺だけの話ではなくなっていた。
卯月春乃。
昨日まで、加害側にいた女子。
罰ゲームを断れなかった女子。
俺に謝った女子。
自分の責任を認めた女子。
その春乃が、今度は晒されている。
俺はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
消したい。
この投稿を消したい。
酉宮の口を塞ぎたい。
午堂の笑いを止めたい。
裏アカの向こうにいるやつを、引きずり出したい。
でも、何もできない。
いや、違う。
できることはある。
スクリーンショットを撮る。
投稿時間を残す。
文言を記録する。
反応したアカウントを見る。
そういうことならできる。
けれど、それは助けることなのか。
記録することと、助けることは同じなのか。
画面の中で、春乃は「被害者ヅラした女」に変えられていた。
そんな言葉で、昨日からの全部を塗りつぶされていた。
俺はスクリーンショットを撮った。
撮ったあとで、吐き気がした。
まただ。
また、俺は誰かが傷つけられているところを残している。
残さなければ消される。
消されたら戦えない。
戦えなければ、もっと傷つく。
分かっている。
分かっているのに。
画面を保存するたびに、自分も少しだけ加害側へ近づいている気がした。
翌日の教室は、いつもより静かだった。
静か、というより、様子を見ている。
誰が先に話すか。
誰が昨日のことを持ち出すか。
誰が春乃を見るか。
誰が俺を見るか。
そんな空気だった。
春乃は席にいた。
机に教科書を出している。
ノートも開いている。
でも、手はほとんど動いていない。
友達だった女子たちは、少し離れたところで話していた。
無視ではない。
でも、いつもみたいに春乃の席へ集まってはいない。
誰かが春乃を見る。
すぐに逸らす。
また見る。
昨日まで俺に向けられていた視線と、少し似ていた。
春乃は顔を上げなかった。
俺はその横顔を見た。
話しかけるべきか。
大丈夫か、と聞くべきか。
昨日の投稿を見た、と伝えるべきか。
何かする、と言うべきか。
視界に、文字が浮かぶ。
【今、卯月春乃に話しかけた場合の危険】
第1位 四季零司が卯月春乃を操っている印象が強まる
第2位 卯月春乃への標的化が加速する
第3位 酉宮秋人に新しい切り取り材料を与える
第4位 午堂夏樹が二人の関係を茶化す
第5位 春乃自身が言葉を選ぶ機会を失う
また、それか。
俺は机の端を握った。
正しい。
たぶん、正しい。
今、俺が春乃のところへ行けば、また酉宮に使われる。
春乃が俺に言わされている。
春乃が俺に守られている。
春乃が俺側についた。
そういう形にされる。
分かる。
分かるけど。
じゃあ、俺は見ているだけなのか。
春乃が孤立しかけているのを、また見ているだけなのか。
昨日、真冬に言われた言葉が戻ってくる。
正しいとは思う。
でも、ひどい判断ね。
あれは、まだ終わっていなかった。
職員室で黙ったことだけじゃない。
今日も続いている。
俺は正しい方を選ぶたびに、誰かの横顔を見捨てている。
一時間目。
黒板の文字は、ほとんど頭に入らなかった。
ノートには写した。
写してはいる。
でも、視線は何度も春乃の方へ行った。
春乃は一度だけ、消しゴムを落とした。
前の席の女子が拾おうとして、途中で手を止めた。
たぶん、迷ったのだと思う。
拾うか。
拾わないか。
今、関わっていいのか。
その数秒の迷いの間に、春乃は自分で消しゴムを拾った。
小さなことだ。
ただ、それだけのこと。
でも、その数秒が嫌だった。
昨日までなら、誰かが普通に拾っていたはずだ。
ランキングは出なかった。
出なくても分かった。
春乃の周りで、何かが少しずつ変わっている。
その変化を、俺は止めていない。
昼休みになっても、春乃は席を立たなかった。
弁当を出している。
でも、箸は動いていない。
俺も、何も食べていなかった。
腹は減っている。
でも、食べる気がしない。
スマホを見る。
裏アカの投稿はまだ残っている。
反応も増えていた。
『急に正義側になるの草』
『最初から止めろよ』
『泣きつけば勝ち?』
『春乃ってそういう感じだったんだ』
読まなければいい。
見なければいい。
でも、見なければ残せない。
残せなければ、また消される。
俺はスクリーンショットを撮った。
撮るたびに、胸が冷えていく。
春乃の悪口を保存している。
春乃を助けるために。
たぶん。
本当に?
分からない。
自分が何のためにやっているのか、時々分からなくなる。
復讐か。
証拠集めか。
自己防衛か。
春乃を助けたいのか。
俺はノートの端に書いた。
『春乃への投稿 継続』
『裏アカ 反応増加』
『投稿時間 昼休み』
そこまで書いて、ペンが止まる。
次に何を書く。
『助けたい』
そう書きかけて、やめた。
助けたい?
本当に?
昨日まで加害側にいた春乃を。
俺を傷つけた春乃を。
俺は助けたいのか。
違う。
たぶん、違う。
ただ、酉宮が許せないだけだ。
春乃を次の玩具にするやり方が、気持ち悪いだけだ。
そう思った。
でも、それだけでもなかった。
春乃が消しゴムを拾う時、周りが迷った。
あの数秒が、ずっと胸に引っかかっている。
俺はその数秒を知っている。
誰も助けない数秒。
誰も悪くない顔で、少しずつ一人になる数秒。
あれは、知っている。
知っているから、嫌だった。
放課後。
教室を出ようとしたところで、真冬に呼び止められた。
「四季くん」
廊下の窓際。
人の流れから少し外れた場所。
真冬は、いつものように表情を変えずに立っていた。
「何」
「卯月さんのこと、見ていた」
心臓が跳ねた。
「別に」
「別に、ではないと思う」
同じようなやり取り。
でも、前より少しだけ嫌だった。
真冬は、俺が隠したいところにだけ手を伸ばしてくる。
「何が言いたいの」
「あなた、最近ずっと正しいことをしてる」
俺は眉を寄せた。
「悪いのか」
「悪くない」
真冬は即答した。
それから、少しだけ間を置く。
「でも、正しいことだけで動いてると、たぶん人から離れていく」
言葉が、思ったより深く刺さった。
人から離れていく。
何だそれ。
もう十分、離れている。
クラスの中で最下位みたいに扱われて。
笑われて。
晒されて。
誰にも見られない場所で、階段の前に立って。
それでも、まだ離れる余地があるのか。
「俺は勝ちたいだけだ」
強がりだった。
言ってすぐ分かった。
でも、撤回しなかった。
「午堂も、酉宮も、このまま終わらせたくない。あいつらに、なかったことにされたくない」
「それは分かる」
「分かるなら、邪魔するなよ」
「邪魔はしていない」
真冬は淡々と言った。
「確認しているだけ」
「何を」
「あなたが、何を失ってもいいと思っているのか」
言葉が止まった。
真冬は続ける。
「勝つためなら、卯月さんが傷つくのを見ていられる?」
俺はすぐに答えようとした。
そんなわけない。
そう言おうとした。
でも、声が出なかった。
昨日、見ていた。
職員室で。
担任に春乃が遮られても、俺は黙っていた。
それが正しかったから。
未原が責任を平らにされても、俺は黙っていた。
それが正しかったから。
今日、春乃が一人で弁当を開いていても、俺は話しかけなかった。
それが正しかったから。
見ていた。
全部。
だから、即答できなかった。
真冬は俺の沈黙を責めなかった。
それが余計にきつい。
「勝つには、必要なことがある」
俺はようやく言った。
「黙ることも、記録することも、タイミングを待つことも」
「うん」
「だったら、仕方ないだろ」
「仕方ない」
真冬は頷いた。
「でも、仕方ないことを選んだ人の顔をしていない」
何だよ、それ。
そう言いたかった。
でも、言えなかった。
自分でも分かっていたからだ。
俺は、仕方ないで片づけきれていない。
片づけられるほど、強くない。
視界に文字が浮かんだ。
【今、四季零司が最も認めたくない本音】
第1位 卯月春乃を助けたい
息が止まった。
やめろ。
そう思った。
勝手に決めるな。
俺は春乃を許していない。
春乃がしたことを忘れていない。
傷は消えていない。
笑い声はまだ残っている。
なのに。
助けたい?
そんな都合のいいことがあるか。
俺は視線を逸らした。
「違う」
小さく言った。
真冬が少しだけ首を傾げる。
「何が?」
「何でもない」
危なかった。
ランキングに返事をした。
真冬に言ったわけじゃない。
でも、真冬にはそう聞こえたはずだ。
真冬の目が細くなる。
疑われたか。
能力じゃない。
見られているだけだ。
俺の反応を。
俺は慌てて言葉を探す。
「俺は、春乃さんを助けたいわけじゃない」
言ってから、また胸が痛んだ。
嘘っぽい。
自分でも分かるくらい、嘘っぽい。
「酉宮が許せないだけだ」
「そう」
真冬はそれだけ言った。
信じたのか。
信じていないのか。
分からない。
「なら、それでもいい」
「何が」
「理由は、ひとつじゃなくてもいい」
真冬は窓の外を見た。
校庭では、部活の掛け声が聞こえている。
普通の放課後。
普通の学校。
その普通の中で、誰かが少しずつ削られている。
「勝ちたい。許せない。助けたい。自分を守りたい。全部混ざっていても、動く理由にはなる」
真冬の声は、やはり平坦だった。
でも、いつもより少しだけ柔らかく聞こえた。
気のせいかもしれない。
「ただ」
真冬は俺を見た。
「どれを一番上に置くかで、たぶんあなたは変わる」
どれを一番上に置くか。
勝つこと。
酉宮を潰すこと。
自分を守ること。
春乃を助けること。
ランキングみたいだと思った。
何でも順位にするな。
そう思った。
でも、世界はそうやって俺に見えている。
大事なものまで、順位にされる。
だったら。
俺は何を一位にする。
答えは出なかった。
真冬が言う。
「何を失ってもいいかは、決めておいた方がいい」
詳細な説明はなかった。
でも、分かった。
勝つために春乃を失ってもいいのか。
勝つために未原を失ってもいいのか。
勝つために自分の怒りを凍らせてもいいのか。
勝つために、人から離れてもいいのか。
俺は黙った。
真冬もそれ以上、何も言わなかった。
教室へ戻ると、春乃の席は空だった。
鞄はない。
帰ったのだと思った。
それだけなのに、少しだけ胸がざわついた。
スマホを見る。
裏アカ。
新しい投稿が増えていた。
『正義感出すなら最初から止めろよ』
続けてもう一つ。
『急にいい子ぶってる女、見ててきつい』
反応がついている。
笑う顔。
同意の短い言葉。
誰かの引用。
俺は画面を見つめた。
春乃は、もう帰った。
この投稿を見ているかもしれない。
見ていないかもしれない。
でも、見ていなくても、空気は届く。
教室で離れた席。
止まった手。
拾われなかった消しゴム。
そういう形で届く。
視界に文字が浮かぶ。
【今、四季零司が取れる最も正しい行動】
第1位 追加投稿を保存する
第2位 反応したアカウントを記録する
第3位 卯月春乃に直接連絡しない
第4位 真冬に共有する
第5位 明日の職員室対応に備える
また、正しい。
全部、正しい。
春乃に直接連絡しない。
分かる。
今、俺が連絡すれば、また切り取られるかもしれない。
春乃が俺に頼っている形になるかもしれない。
酉宮に材料を与えるかもしれない。
だから、しない。
それが正解。
俺はスマホを握った。
その時、別のランキングが浮かんだ。
【今、四季零司が本当にしたいこと】
第1位 卯月春乃に「一人で見るな」と送る
画面が、ぼやけた。
やめろ。
やめてくれ。
正解と本音を、別々に出すな。
どっちを選べばいいんだよ。
俺はその場に立ち尽くした。
保存するべきだ。
連絡しないべきだ。
明日に備えるべきだ。
それが正しい。
でも。
春乃が一人でこの投稿を見ているところを想像した瞬間、息が詰まった。
俺は知っている。
一人で見る悪意は、音がしない。
教室の笑いより静かで、でも、ずっと深く沈む。
誰にも見られていない場所で、勝手に体温が下がっていく。
あれを、一人で見続けるのは。
だめだ。
俺はスマホを開いた。
春乃の連絡先。
指が震える。
送信欄に文字を打つ。
『一人で見るな』
それだけ。
慰めではない。
許しではない。
助ける、でもない。
ただの命令みたいな文。
でも、それ以上の言葉は出なかった。
送信ボタンの上で、指が止まる。
正しくないかもしれない。
材料になるかもしれない。
春乃をまた巻き込むかもしれない。
それでも。
俺は送った。
『一人で見るな』
既読は、すぐにつかなかった。
廊下の向こうから、部活の声が聞こえる。
俺は画面を見つめたまま、立っていた。
一分。
二分。
既読がついた。
返事は来ない。
それだけで、心臓が少しだけ強く鳴った。
そして、数十秒後。
春乃から、短い返事が来た。
『見てた』
俺は息を呑む。
続けて、もう一つ。
『ありがとう』
その文字を見て、俺は少しだけ目を閉じた。
助けたわけじゃない。
何も解決していない。
酉宮の投稿は消えていない。
春乃への視線も変わっていない。
担任も、学校も、まだ信用できない。
でも。
今だけは、一人で見ている状態を止めた。
それは、ランキングの一位ではなかった。
正しい行動でもなかった。
たぶん、戦術としては悪い。
でも、俺は後悔しなかった。
その瞬間、視界に文字が浮かぶ。
【この選択によって失う可能性があるもの】
第1位 戦術的な安全性
第2位 酉宮秋人に利用されにくい距離
第3位 卯月春乃との関係を曖昧に保つ余地
続いて、もう一つ。
【この選択によって守れた可能性があるもの】
第1位 卯月春乃が一人で悪意を見続ける時間
俺は、長く息を吐いた。
順位は見える。
損も見える。
危険も見える。
でも、それでも選ぶしかない時がある。
たぶん、そういうことなのだと思った。
スマホがまた震えた。
今度は裏アカではなかった。
春乃からだった。
『明日、学校行くのが怖い』
俺は画面を見た。
何と返せばいいのか分からない。
大丈夫、とは言えない。
俺が守る、とも言えない。
許したわけでもない。
送信欄に、文字を打つ。
消す。
また打つ。
また消す。
結局、残ったのは短い一文だった。
『俺も怖い』
送信。
すぐに既読がついた。
返事は、しばらく来なかった。
けれど、その沈黙は、さっきまでの沈黙とは少し違った。
一人で沈んでいく沈黙ではない。
画面の向こうに、同じように怖がっている人間がいる沈黙だった。
その時。
教室の入口で、誰かが足を止めた。
顔を上げる。
酉宮秋人だった。
帰ったと思っていた。
俺は反射的にスマホを伏せた。
遅かったのか。
間に合ったのか。
分からない。
画面の上に春乃の名前が残っていたかもしれない。
それとも、俺が慌てて隠した動きだけを見られたのかもしれない。
酉宮は俺のスマホを見る。
それから、俺を見る。
何も言わない。
でも、口元だけが少し動いた。
見えた。
こいつは、何かに気づいた。
確信ではない。
たぶん、まだ。
でも、材料になりそうなものを見つけた顔だった。
視界に文字が浮かぶ。
【酉宮秋人が今、利用しようとしているもの】
第1位 四季零司と卯月春乃の個別連絡
心臓が、冷たく跳ねた。
正解じゃない方を選んだ代償が、もう来た。




