第8話 正しい沈黙
翌朝、学校へ向かう足が重かった。
昨日よりも重い。
ただ教室へ行くだけなら、まだいい。
いや、よくはない。
全然よくない。
でも今日は、教室ではない。
職員室。
大人がいる場所。
正しい名前をつける場所。
正しいふりをした言葉で、全部を小さくできる場所。
スマホには、担任からのメッセージが残っている。
『クラス内でトラブルが起きていると聞きました。関係者は明日朝、職員室に来なさい』
トラブル。
その言葉が、ずっと引っかかっていた。
トラブル。
便利な言葉だ。
罰ゲーム告白も。
笑い声も。
スマホ撮影も。
裏アカも。
切り取られた動画も。
春乃の謝罪も。
未原の証言も。
全部まとめて、トラブル。
誰が何をしたのかを、ぼかせる言葉。
加害も、被害も、傍観も、全部同じ箱に入れられる言葉。
俺はスマホを握った。
録音データはある。
昨日の音。
教室の笑い。
酉宮の声。
午堂の声。
出そうと思えば、出せる。
でも。
【今日、職員室で最初に取るべき行動】
第1位 聞く
第2位 記録する
第3位 担任が使う言葉を見る
第4位 録音データを出さない
第5位 感情を説明しない
まただ。
出さない。
出したくて仕方ないものを、まだ出すなと表示される。
俺は奥歯を噛んだ。
正しいのかもしれない。
でも、気分は最悪だった。
職員室前の廊下には、すでに何人かいた。
春乃。
未原。
午堂。
酉宮。
春乃は俺を見ると、小さく頭を下げた。
謝罪ではない。
挨拶でもない。
たぶん、自分は逃げないという合図。
俺は頷かなかった。
でも、目は逸らさなかった。
未原沙耶は、壁際でスマホを握っていた。
顔色はよくない。
昨日、グループで証言したことを後悔しているのかもしれない。
それとも、今日ここに呼ばれたことが怖いのかもしれない。
どちらにしても、彼女は来た。
午堂は、いつものように軽い顔をしていた。
面倒くさそうに首を鳴らし、俺を見る。
「朝から呼び出しとか、だる」
言葉は俺に向けているようで、周りに聞かせるための声だった。
酉宮は黙っていた。
スマホは持っていない。
いや、持っていないように見せているだけかもしれない。
ポケットの形。
制服の上着の膨らみ。
視線の落とし方。
昨日までなら気づかなかったことばかりが、今日は嫌でも目に入る。
酉宮と目が合った。
あいつは笑わなかった。
昨日より、少しだけ慎重な顔だった。
それだけで、胸の奥が少し熱くなる。
効いている。
昨日の一文は、少しだけ効いている。
でも、そこまでだ。
まだ勝っていない。
職員室の扉が開いた。
担任が顔を出す。
「入って」
声は普通だった。
普通すぎた。
俺たちは順番に中へ入る。
職員室の空気は、朝から忙しかった。
プリンターの音。
教師同士の会話。
椅子を引く音。
誰かの笑い声。
コピー用紙の匂い。
昨日までの教室とは違う。
でも、安心できる場所ではなかった。
担任は空いている面談スペースへ俺たちを連れていった。
丸い机。
簡易パーテーション。
隣の席から聞こえる教師の声。
完全な個室ではない。
でも、外からは何を話しているか分かりにくい。
そういう場所だった。
担任は俺たちを見回した。
「昨日、クラスのグループで少し揉めていたね」
少し。
揉めていた。
いきなり、言葉が小さくされた。
俺は鞄の中で、スマホの録音ボタンを押した。
指が震えた。
この行動が正しいのかは分からない。
でも、もう言葉を空気の中へ逃がしたくなかった。
担任は続ける。
「動画も出ていたようだけど、まず確認したい。あれは、いじめなのかな」
いじめ。
ようやく出た言葉。
でも、その言い方は質問だった。
判断ではない。
確認でもない。
逃げ道を残した問い。
午堂が先に口を開いた。
「いや、いじめっていうか、ノリです」
春乃の肩が少し動いた。
未原が俯く。
酉宮は黙っている。
担任は午堂を見る。
「ノリ?」
「罰ゲームみたいな感じで。まあ、やりすぎたのはあるかもですけど」
やりすぎた。
便利な言葉だ。
悪かった、ではない。
傷つけた、でもない。
やりすぎた。
少し線を越えただけみたいに聞こえる。
担任はメモを取る。
「酉宮。動画を撮ったのは君?」
酉宮は少しだけ目を伏せた。
「撮ったっていうか、たまたまです。みんな騒いでたんで」
「投稿した?」
「グループに出したのは俺です。でも春乃が心配だったんで」
心配。
またその形に戻す。
俺は机の下で拳を握った。
言いたい。
昨日の裏アカは?
『撮れてるなら出せ』は?
『ガチで信じてて草』は?
喉まで出かかった。
でも、視界に文字が浮かぶ。
【今、四季零司が反論した場合に失うもの】
第1位 担任が“感情的な対立”として処理する余地
第2位 酉宮秋人が“責められている側”に回る余地
第3位 卯月春乃が自分で話す機会
第4位 未原沙耶が補足する機会
第5位 録音データの効果
黙れ。
そういうことだ。
また、黙れ。
俺は唇の内側を噛んだ。
春乃が顔を上げた。
「違います」
声は震えていた。
でも、出た。
「酉宮くんが心配して撮ったんじゃありません。昨日のことも、その前から……私が四季くんに罰ゲームで告白するって話があって、それで……」
言葉が詰まる。
午堂が小さく笑った。
「いや、罰ゲームって言ってもさ」
「罰ゲームです」
春乃は、今度は止まらなかった。
「私は断れませんでした。止められませんでした。でも、あれは冗談で済ませていいことじゃないです」
担任のペンが止まった。
午堂の口元から笑いが消える。
酉宮は春乃を見た。
目だけが細くなる。
春乃は震えていた。
それでも、続けた。
「四季くんに謝りました。でも、その場面だけを撮られて、四季くんが私を責めているみたいに出されました」
担任は少し困ったような顔をした。
「うん。卯月が反省しているのは分かった」
反省。
また、言葉がずれた。
春乃が言っているのは、自分の反省だけではない。
切り取られたことだ。
酉宮が意味を変えたことだ。
でも担任は、春乃の反省として受け取った。
俺は机の下でスマホを握った。
録れている。
この言葉も。
未原が小さく手を上げた。
授業中でもないのに、手を上げた。
その仕草が、少しだけ痛々しかった。
「先生」
「未原?」
「私も、昨日いました」
未原の声は春乃より小さい。
でも、面談スペースには届いた。
「止めなよって言いました。でも、止めきれませんでした。午堂くんたちが笑ってたのも、酉宮くんがスマホ持ってたのも見ました」
午堂が舌打ちしかけて、やめた。
担任の前だからだ。
その顔を見て、俺は思った。
こいつは、ちゃんと分かっている。
どこなら笑っていいか。
どこなら止めるべきか。
誰の前なら態度を変えるべきか。
分かっていてやっている。
担任は、少し眉を寄せた。
「なるほど。ただ、未原もその場にいたんだよね?」
未原の顔が白くなる。
「はい」
「止めようとしたのは分かった。でも、結果的に止められなかった。そこは、未原も反省しないといけない」
間違ってはいない。
たぶん、間違ってはいない。
未原は止めきれなかった。
春乃も止められなかった。
俺だって、今までずっと何も言えなかった。
でも。
その言い方は、全部を平らにする。
止めようとしたやつと、笑ったやつ。
撮ったやつと、撮られたやつ。
謝ったやつと、切り取ったやつ。
全部を同じ高さに並べる。
視界に文字が浮かぶ。
【現在、この場で最も危険な処理】
第1位 全員に反省を求める形で終わらせる
胃が冷えた。
やっぱり。
担任は悪人ではないのかもしれない。
でも、危ない。
悪意ではなく、処理で人を潰す。
担任は俺を見た。
「四季」
名前を呼ばれただけで、背中が固くなる。
「君はどう思っている?」
全員が俺を見た。
春乃。
未原。
午堂。
酉宮。
担任。
ここで言えばいい。
全部言えばいい。
昨日の録音がある。
裏アカも見つけた。
酉宮は動画を切り取った。
午堂は笑っていた。
春乃は謝った。
未原は止めようとした。
言える。
言えば、楽になるかもしれない。
でも、ランキングが浮かぶ。
【今、四季零司が取るべき行動ランキング】
第1位 質問で返す
第2位 録音を継続する
第3位 担任の処理方針を確認する
第4位 録音データの存在を伏せる
第5位 怒りを説明する
怒りを説明する。
第5位。
低い。
怒っているのに。
今、いちばん言いたいことなのに。
俺は息を吸った。
「先生は、これを何だと思っていますか」
担任が少し目を瞬かせた。
「何だ、というのは?」
「トラブルですか。悪ふざけですか。いじめですか」
声が震えなかった。
自分でも少し驚いた。
担任はすぐに答えなかった。
午堂が目を逸らす。
酉宮は、俺を見ていた。
担任は、ペンを持ち直した。
「現時点では、事実確認中です」
事実確認中。
また便利な言葉。
「だから、断定はしない。ただ、生徒同士の行き違いや、悪ふざけが大きくなった可能性もあると思っている」
来た。
悪ふざけ。
行き違い。
俺の中で、何かが静かに沈んだ。
怒りではない。
もっと冷たいもの。
ああ、この人はそう見たいのか。
そう思った。
担任は続ける。
「まずは動画を消すこと。グループでこれ以上話さないこと。それから、関係者同士で謝ること。学校としては、これ以上広げない形にしたい」
これ以上広げない。
つまり、閉じる。
小さくする。
記録を消す。
俺は、笑いそうになった。
笑えなかった。
視界に文字が浮かぶ。
【担任が現在最も守ろうとしているもの】
第1位 問題の拡大防止
第2位 クラス運営
第3位 学校への報告負担の軽減
第4位 卯月春乃の精神状態
第5位 四季零司の被害感情
第5位。
俺は、その順位を見て、少しだけ楽になった。
期待しなくて済むから。
担任が俺を一番に考えていないことが分かれば、期待しなくて済む。
ひどい話だ。
でも、楽だった。
春乃が言った。
「先生、それだと……四季くんが」
「卯月」
担任は少し強めに遮った。
「君も今は感情的になっている。自分を責めているのは分かる。でも、グループでああいう投稿をするのは、周りを巻き込むことにもなる」
春乃の顔が固まった。
未原が息を呑む。
午堂は少しだけ、安心したような顔をした。
酉宮は、何も言わない。
でも、机の下で指が動いた。
スマホはないはずなのに。
癖か。
それとも、何かを考えているのか。
俺は言葉を飲み込んだ。
春乃を庇いたい。
今のは違うと言いたい。
春乃が投稿しなければ、酉宮の動画だけが全部になっていたんだと言いたい。
でも。
【今、卯月春乃を庇った場合の危険】
第1位 四季零司が卯月春乃を操っている構図が強まる
第2位 担任が二人をまとめて感情的と判断する
第3位 酉宮秋人が“ほら”と空気を作る
第4位 未原沙耶が沈黙する
第5位 春乃自身が言い返す機会を失う
正しい。
分かる。
ここで俺が前に出れば、春乃の言葉はまた俺の言葉になる。
だから、黙る。
黙るしかない。
春乃は拳を握った。
手が震えている。
それでも、顔を上げた。
「感情的かもしれません」
声は小さかった。
でも、はっきりしていた。
「でも、黙っていたら、四季くんが私を責めたみたいな動画だけが残ります」
担任が口を開きかける。
春乃は続けた。
「私が謝ったことも、私が悪かったことも、なかったことになります」
その言葉に、未原が小さく頷いた。
午堂は舌打ちを飲み込む顔をした。
酉宮は無表情だった。
俺は、ただ聞いていた。
聞いているだけだった。
正しい行動。
録音する。
観察する。
春乃が自分で言うのを待つ。
正しい。
たぶん、正しい。
でも、春乃の横顔が忘れられない。
怖いのに、自分で言っている顔。
俺は、それを見ているだけだ。
また誰かが晒されている。
今度は春乃だ。
俺は黙っている。
正しいから。
それが、気持ち悪かった。
担任は、少し疲れたように息を吐いた。
「分かった。卯月の言いたいことは分かった。ただ、この場で結論は出せない。学年主任にも確認する」
学年主任。
表示にあった名前。
第4話でも、第1話の夜にも。
担任ではなく、学年主任。
俺は顔を上げた。
担任は続ける。
「ただし、今日のところは全員、これ以上グループに書き込まないこと。動画も投稿も削除すること。いいね?」
酉宮が最初に頷いた。
「はい」
早い。
早すぎる。
削除。
それは、酉宮にとって都合がいい。
俺は口を開いた。
「削除する前に、学校側で保存してください」
職員室の空気が、ほんの少し止まった。
担任が俺を見る。
「四季?」
「消したら、何があったか分からなくなります」
声は震えていた。
でも、言った。
「削除するなら、その前に学校で保存してください。動画も、投稿も、時間も」
午堂が顔をしかめる。
「何それ、怖」
酉宮が言う。
「そこまでしなくてもよくね? 消せば終わりじゃん」
俺は酉宮を見た。
初めて、まっすぐ見た。
「終わらせたいから、消したいんだろ」
酉宮の表情が、ほんの一瞬だけ消えた。
すぐに戻った。
「は? 何それ」
でも、見えた。
今の一瞬。
担任が声を強める。
「四季、決めつけるような言い方はやめなさい」
決めつけ。
そう来るのか。
俺は奥歯を噛んだ。
言い返したい。
でも、担任の顔を見た瞬間、視界に文字が出た。
【今、担任に反論した場合の危険】
第1位 指導対象が四季零司に移る
俺は黙った。
また。
また黙った。
担任は、少し安心したように見えた。
「まずは保存については先生が確認する。勝手に消さないように。今日は一旦、教室に戻りなさい」
確認する。
それが本当に保存されるのかは分からない。
でも、言わせた。
削除前に保存する。
それだけは言わせた。
職員室を出る時、春乃が俺の横に並んだ。
何か言いかけて、やめた。
未原も何も言わなかった。
午堂は廊下に出た瞬間、舌打ちした。
「まじでだる」
酉宮は、俺の横を通り過ぎる時に小さく言った。
「録音でもしてんの?」
心臓が止まりかけた。
俺は顔を動かさなかった。
酉宮は笑った。
「冗談」
冗談。
便利な言葉だ。
なんでも刺して、あとから引っ込められる言葉。
俺は何も言わなかった。
そのまま廊下を歩く。
足が重い。
正しい沈黙をした。
たぶん、今日はそれが一番よかった。
春乃が自分で言えた。
未原も言えた。
担任の言葉も録れた。
削除前に保存するという言葉も引き出せた。
判断としては、間違っていない。
間違っていないはずだ。
でも。
春乃が担任に遮られた時。
未原が「反省しないといけない」と言われた時。
俺は黙っていた。
黙ることが正しかったから。
その正しさが、喉の奥に残っている。
苦かった。
放課後。
教室の後ろで、真冬が俺に近づいてきた。
春乃も未原も、もう帰っていた。
午堂と酉宮は、まだ何人かと話している。
笑ってはいない。
でも、完全に崩れてもいない。
真冬は俺の横に立った。
「今朝の」
「何」
「わざと黙った?」
俺は黒板を見た。
まだ朝の連絡事項が残っている。
提出物。
小テスト。
清掃当番。
いつも通りの文字。
その下で、自分たちだけが変なものを抱えている。
「証拠が必要だった」
俺は答えた。
真冬はすぐには何も言わなかった。
その沈黙が嫌だった。
「正しかっただろ」
言わなくていいことを言った。
分かっていた。
でも、言ってしまった。
真冬は俺を見た。
「正しいとは思う」
そして、少しだけ間を置いた。
「でも、ひどい判断ね」
息が止まった。
その言葉は、録音より重かった。
責められたわけではない。
たぶん、そうじゃない。
真冬はただ、見たことを言っただけだ。
正しい。
でも、ひどい。
その二つは、同時に成り立つ。
俺は何も言い返せなかった。
言い返せば、もっと嫌なものが出てきそうだった。
春乃の顔。
未原の震えた声。
担任の「反省しないといけない」。
酉宮の「冗談」。
全部、頭の中で重なっている。
視界に、静かに文字が浮かんだ。
【今日の四季零司の選択】
第1位 戦術的には正しい
第2位 感情的には後味が悪い
第3位 卯月春乃への負担が増えた
第4位 未原沙耶の立場が危うくなった
第5位 四季零司自身の怒りが少し冷えた
俺はそれを見て、笑いそうになった。
笑えなかった。
ランキングは、また正しかった。
でも、正しいから何だ。
真冬が言う。
「あなた、勝つためなら黙れるんだね」
「悪いか」
「悪くない」
真冬は短く答えた。
「ただ、黙っている間に誰が傷つくかは、見ていた方がいい」
俺は真冬を見た。
何か言いたかった。
でも、何も出なかった。
真冬はそれ以上、何も言わなかった。
教室の外で、誰かが笑った。
いつもの放課後の笑い声。
俺はその声を聞きながら、スマホを握った。
録音は残っている。
今日の職員室の音も。
担任の言葉も。
午堂のノリも。
酉宮の冗談も。
春乃の声も。
未原の声も。
全部、残った。
それは勝ちに近づく記録だ。
でも同時に、誰かがもう一度傷ついた記録でもある。
俺はやっと分かった。
ランキングは、正しい行動を教えてくれる。
でも、その正しさで誰が傷つくかまでは、選ぶ俺が背負わなければならない。
スマホが震えた。
通知。
裏アカだった。
新しい投稿。
『今度は被害者ヅラした女が先生に泣きついたらしい』
添付画像はない。
でも、誰のことかは分かった。
卯月春乃。
俺は画面を見つめたまま、息を止めた。
標的が、増えた。




