第10話 標的が増えた
酉宮秋人は、何も言わなかった。
教室の入口に立ったまま、俺を見ていた。
俺の伏せたスマホ。
俺の顔。
それから、ほんの少しだけ動いた口元。
何かを見たのか。
それとも、俺が隠したことそのものを見たのか。
分からない。
分からないのに、嫌な予感だけはあった。
酉宮は小さく肩をすくめた。
「別に」
俺が何も聞いていないのに、そう言った。
そして、教室から出ていった。
その背中が見えなくなってからも、俺はしばらく動けなかった。
スマホを開く。
春乃との画面が残っている。
『一人で見るな』
『見てた』
『ありがとう』
『明日、学校行くのが怖い』
『俺も怖い』
たった、それだけ。
それだけなのに。
見られたかもしれないと思った瞬間、文字の意味が変わっていく。
個別連絡。
裏でつながっている。
春乃を操っている。
春乃が俺側についた。
春乃と俺が、何かを企んでいる。
酉宮なら、いくらでも形を変えられる。
視界に文字が浮かんだ。
【酉宮秋人が次に作ろうとしている印象】
第1位 四季零司と卯月春乃が裏で口裏を合わせている
胃の奥が沈んだ。
やっぱり。
俺は本音で動いた。
正解じゃない方を選んだ。
その結果が、もう形になりかけている。
それでも、春乃に送らなければよかったとは思えなかった。
思えないことが、また怖かった。
◇
翌朝、教室に入った瞬間、空気が変だった。
静かではない。
むしろ、いつも通りの声はある。
部活の話。
小テストの話。
昨日の動画の話を、していないふりをする声。
でも、その下に別のものがある。
誰も真正面から触れない。
でも、全員が少しだけ知っている。
そういう空気。
春乃は、もう席にいた。
昨日より早い。
机の上には教科書。
ノート。
筆箱。
きちんと並んでいる。
でも、春乃の手は机の下で固く握られていた。
俺は自分の席へ向かった。
話しかけない。
それが正しい。
そう思った瞬間、もう嫌だった。
正しいことばかり考えている自分が嫌だった。
席につくと、スマホが震えた。
クラスのグループではない。
裏アカ。
新しい投稿だった。
『今度は裏で連絡取り合って被害者ごっこ?』
心臓が、嫌な音を立てた。
添付画像はない。
名前もない。
でも、誰のことか分かる。
俺と春乃。
やっぱり、酉宮は拾った。
画面を見たのか。
俺の動きだけを見たのか。
どちらでもいい。
あいつは、使った。
投稿は続いていた。
『昨日まで加害側だったのに、急に守られる側になるの上手いな』
『正義ごっこ、裏で相談済み?』
反応が増えていく。
笑う顔。
目だけ笑っているスタンプ。
短い同意。
『それな』
『急に二人で被害者面?』
俺はスクリーンショットを撮った。
一枚。
二枚。
三枚。
保存する。
残す。
まただ。
また、春乃が傷つくところを保存している。
春乃はまだ、スマホを見ていないようだった。
それが救いなのか、遅れて刺さるだけなのか分からない。
視界に文字が浮かんだ。
【今、四季零司が取るべき行動】
第1位 投稿を保存する
第2位 反応したアカウントを記録する
第3位 卯月春乃にすぐ見せない
第4位 個別連絡の内容を公開しない
第5位 酉宮秋人に反応しない
正しい。
全部、正しい。
でも、俺の中で別の言葉が暴れていた。
ふざけるな。
人の言葉を、勝手に変えるな。
俺はただ、「一人で見るな」と送っただけだ。
春乃が怖いと言ったから、俺も怖いと返しただけだ。
それだけを。
それだけのものまで、笑いに変えるのか。
机の端を握った。
音が出そうになって、慌てて力を抜く。
酉宮は、少し離れた席で何食わぬ顔をしていた。
スマホは出していない。
黒板を見ている。
昨日のことなんて知らない顔。
その横で、午堂が誰かと話している。
「いや、朝から空気重くね?」
わざとだ。
誰に向けているわけでもない声。
でも、聞こえるように出している。
数人が笑いかけて、すぐにやめた。
もう、簡単には笑えない。
でも、完全に止めることもできない。
教室の空気は、割れている。
それでも、春乃の周りだけはまだ薄く空いていた。
前の席の女子が振り返りかけて、やめる。
隣の女子が春乃に何か言おうとして、別の子に話しかける。
春乃は、それに気づいていないふりをしている。
気づいていないわけがない。
俺は、その横顔を見ていた。
その時、春乃のスマホが震えた。
春乃の肩が小さく跳ねる。
画面を見る。
顔色が変わった。
見たのだ。
裏アカか。
誰かからの転送か。
どちらでもいい。
届いた。
春乃はしばらく画面を見つめていた。
そして、ゆっくりスマホを伏せた。
手が震えている。
それでも泣かなかった。
泣かない顔をしていた。
その顔を見て、俺は立ち上がりそうになった。
だめだ。
今、行けば使われる。
また切り取られる。
春乃が俺に頼っているように見える。
俺が春乃を操っているように見える。
分かっている。
でも、分かっているから動けないのが、いちばん腹立たしかった。
視界に文字が浮かんだ。
【卯月春乃を助けるべき理由】
第1位 証言者として必要
第2位 午堂たちの空気が割れる
第3位 本人が本気で後悔している
第4位 四季零司が後悔しなくて済む
第5位 彼女を見捨てると、過去の自分と同じになる
第5位。
俺は、そこで止まった。
彼女を見捨てると、過去の自分と同じになる。
ランキングは、最初の四つを正しい理由として並べている。
証言者。
空気を割る。
後悔。
俺の後悔。
どれも分かる。
でも、第5位が一番嫌だった。
春乃を見捨てれば、俺はまたあの日の自分を見る。
誰も助けない数秒。
誰も悪くない顔で、少しずつ一人になる時間。
それを知っているくせに、見ないふりをすることになる。
俺はゆっくり息を吸った。
昼休みまで待った。
午前中の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
春乃は一度も後ろを見なかった。
俺も話しかけなかった。
それが正しい間合いなのか、ただの臆病なのか、自分でも分からなかった。
◇
昼休み。
春乃は、一人で中庭へ出ていた。
教室で食べるのを避けたのだと思う。
でも、中庭も安全ではない。
人がいる。
目がある。
スマホがある。
俺は少し遅れて中庭へ出た。
春乃はベンチの端に座っていた。
膝の上に弁当箱がある。
蓋は開いている。
でも、中身はほとんど減っていない。
近づくべきか。
迷った。
迷っている間に、視界に文字が浮かぶ。
【今、卯月春乃に近づく場合の最善条件】
第1位 周囲に人がいる場所で立ち止まる
第2位 距離を取る
第3位 長話をしない
第4位 命令ではなく手順を渡す
第5位 感情を押しつけない
手順。
また手順だ。
助けたいとか、声をかけたいとか、そういうものまで手順にしないと動けないのか。
でも、手順がないと俺はたぶん間違える。
俺は春乃から少し離れた場所で止まった。
ベンチには座らない。
隣には行かない。
立ったまま、声だけをかける。
「春乃さん」
春乃が顔を上げた。
驚きと、少しの警戒。
それから、ほっとしたようなもの。
その全部が一瞬で混ざって、すぐに消えた。
「四季くん」
声が小さい。
俺は周りを見た。
近くには二人組の女子。
少し離れたところに男子が三人。
校舎の窓。
安全ではない。
でも、密室でもない。
「一人でやるな」
俺は言った。
春乃の目が揺れた。
「え?」
「裏アカを見る時も、何か言う時も、一人でやるな。記録を残してからにしろ」
言い方が硬い。
自分でも思った。
もっと優しい言葉はないのか。
でも、出ない。
「助けてくれるの?」
春乃が聞いた。
その声には、期待と恐れが両方あった。
俺は目を逸らした。
「違う」
すぐに言った。
すぐに言いすぎた。
春乃の表情が少しだけ固まる。
胸が痛んだ。
でも、言葉を続ける。
「俺が勝つために必要なだけだ」
半分本当。
半分嘘。
いや。
どっちが本当なのか、もう分からない。
「春乃さんが潰されたら、証言が消える。酉宮が作った形だけ残る。それは困る」
春乃はしばらく黙っていた。
それから、少しだけ苦笑した。
泣きそうな顔のままの、下手な笑いだった。
「そう言うと思った」
「何が」
「助けるって言わないところ」
俺は何も返せなかった。
春乃は弁当箱の蓋を閉じた。
「でも、それでいい」
「よくないだろ」
「うん。よくはない」
春乃は手元を見た。
「でも、今の四季くんが『助ける』って言ったら、たぶん私、そこに逃げる」
俺は言葉を失った。
春乃は続ける。
「四季くんに助けてもらう人になる。自分でやったこととか、自分で言わなきゃいけないこととか、また見なくて済む気がする」
春乃の声は震えていた。
でも、逃げてはいなかった。
「だから、勝つために必要って言われた方が、まだ立っていられる」
俺は、何も言えなかった。
春乃は俺が思っているより、自分の弱さを見ている。
それが、少しだけ怖かった。
俺が春乃を助ける理由を誤魔化していることも、たぶん分かっている。
でも、それを今は暴かない。
お互いに、曖昧なまま立っている。
それが今の距離だった。
「記録って、何をすればいいの」
春乃が聞いた。
俺は息を吸う。
ここからは、感情ではない。
手順。
そう自分に言い聞かせる。
「裏アカを見る時は、スクショ。投稿本文、投稿時間、反応してるアカウント。できればURL」
「うん」
「誰かに何か言われたら、日時。場所。誰がいたか。言われた言葉をそのまま」
「うん」
「自分で何か送る時は、送る前に残す。送った後も残す。消されても分かるように」
「うん」
「一人で判断しない。俺じゃなくてもいい。真冬でも、未原さんでもいい。誰かに見せてからにしろ」
言ってから、少しだけ引っかかった。
俺じゃなくてもいい。
本当にそう思っているのか。
たぶん、思っている。
春乃が俺だけを頼る形にしない方がいい。
それは正しい。
でも、少しだけ嫌だった。
自分で自分に呆れる。
何だ、その感情は。
春乃は小さく頷いた。
「分かった」
「分かってる人は、分かってるって言う」
口にしてから、真冬の言葉だと気づいた。
春乃が少しだけ目を丸くする。
「それ、子日さん?」
「……たぶん」
春乃は、ほんの少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
でも、朝から初めて見た笑いだった。
胸の奥が、妙に痛くなった。
助けたわけじゃない。
何も解決していない。
でも、その一瞬だけは、春乃が裏アカの文字から離れた。
その時、視界に文字が浮かぶ。
【今の行動で最も守られたもの】
第1位 卯月春乃が一人で判断しない状態
勝利ではない。
証拠でもない。
反撃でもない。
一人で判断しない状態。
それだけ。
でも、今はそれが必要だったのだと思った。
「春乃さん」
「何?」
「許したわけじゃない」
言ってから、自分でも驚いた。
なぜ今それを言ったのか分からない。
春乃は瞬きをした。
それから、静かに頷いた。
「うん」
「でも、見捨てるのも違うと思った」
言葉が不器用すぎる。
もっと言い方があるだろ。
でも、これしか出なかった。
春乃は弁当箱を握った。
「うん」
返事は同じだった。
でも、さっきより少しだけ違って聞こえた。
「ありがとう、とは言わない方がいい?」
「言われると困る」
「じゃあ、言わない」
春乃はそう言って、視線を落とした。
それだけの会話だった。
隣に座ったわけでもない。
長く話したわけでもない。
でも、遠くから見れば、俺たちは話している。
それは、材料になる。
分かっている。
だから、俺はすぐに離れようとした。
その時だった。
校舎側の影で、誰かがスマホを下げた。
酉宮ではない。
午堂でもない。
名前は知らない男子。
隣のクラスかもしれない。
目が合うと、そいつは気まずそうに顔を逸らした。
俺の背中が冷えた。
もう、酉宮本人が撮らなくてもいい。
空気がそうなっている。
誰かが撮る。
誰かが送る。
誰かが笑う。
その中心に酉宮がいなくても、酉宮の形は広がっている。
視界に文字が浮かぶ。
【現在、最も危険な変化】
第1位 酉宮秋人以外の生徒が“素材”を集め始めている
終わっていない。
むしろ広がっている。
春乃も、その男子に気づいたようだった。
顔が強張る。
俺は春乃に近づかなかった。
代わりに、少しだけ声を落とす。
「今のも記録」
春乃は息を呑む。
そして、震える手でスマホを取った。
俺を見る。
俺は頷かない。
命令もしない。
春乃は自分で画面を開いた。
時刻を確認し、メモを打った。
『昼休み。中庭。校舎側。知らない男子が撮影していたかもしれない』
文字を打つ指は震えていた。
でも、打った。
俺はそれを横から見て、少しだけ息を吐いた。
これでいいのかは分からない。
でも、一人で固まっているよりは、ずっといい。
◇
放課後。
裏アカに新しい投稿が出た。
『昼休みに中庭で密談してたらしい』
添付画像はなかった。
でも、言葉だけで十分だった。
反応がつく。
『やっぱ裏でつながってんじゃん』
『春乃、完全に四季側?』
『被害者ムーブからの共闘は草』
俺はスクリーンショットを撮った。
もう手順は分かっている。
投稿本文。
投稿時間。
反応したアカウント。
春乃にも送るか迷った。
いや、違う。
送るのではない。
知らせるなら、見せ方を考える。
そんなことを考えている時点で、また正解を探している。
スマホが震えた。
春乃からだった。
『見た』
続けて、もう一つ。
『一人では見てない。未原さんに見てもらってる』
俺は画面を見た。
未原。
春乃が、俺ではなく未原にも見せている。
正しい。
それでいい。
春乃が俺だけに寄らない方がいい。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥が少しだけ変な形に歪んだ。
俺は短く返した。
『記録して』
すぐに既読がつく。
『した』
それだけだった。
その短さに、少しだけ安心した。
春乃は、少しずつ自分で動いている。
俺の言葉だけで動いているわけではない。
それは良いことだ。
本当に良いことだ。
なのに、少し寂しいと思った自分がいて、心底嫌になった。
教室の隅で、真冬が俺を見ていた。
いつから見ていたのかは分からない。
彼女は近づいてくる。
「一歩、助けた?」
俺は顔を上げる。
「助けてない」
「そう」
「勝つために必要なことを言っただけだ」
「そう」
真冬は二回、同じ返事をした。
どちらも、信じているようには聞こえなかった。
「何だよ」
「別に」
真冬は少しだけ視線をずらす。
「ただ、あなたは今、自分の理由を毎回言い換えている」
俺は何も言えなかった。
「勝つため。証言者だから。酉宮を止めるため。自分が後悔しないため」
真冬は淡々と並べる。
「たぶん、全部本当」
それから、俺を見る。
「でも、全部ではない」
息が止まった。
この人は、どこまで見ているんだ。
能力ではない。
ランキングではない。
ただ、人の顔を見ているだけ。
それなのに、近い。
近すぎる。
真冬は静かに言った。
「あなた、時々、答えを見てから理由を探しているみたい」
背筋が冷えた。
今までで一番、冷えた。
ランキングが見えている。
そう言われたわけじゃない。
でも、近い。
かなり近い。
俺は喉を動かした。
「何それ」
「そのまま」
「意味分かんない」
「私も、まだ分からない」
まだ。
その言葉が嫌だった。
まだ分からない。
つまり、分かろうとしている。
視界に文字が浮かぶ。
【現在、四季零司の秘密に最も近づいている人物】
第1位 子日真冬
心臓が鳴った。
真冬は、もちろんその表示を見ていない。
でも、俺が固まったことは見ていた。
彼女の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「今、何か考えた?」
「別に」
自分でも分かるくらい、下手な返事だった。
真冬はそれ以上、踏み込まなかった。
ただ、最後に言った。
「言いたくないなら、言わなくていい」
少し間を置く。
「でも、嘘を重ねるなら、いつか自分でも戻れなくなる」
それだけ言って、真冬は教室を出ていった。
俺はその場に立ったまま、動けなかった。
能力は言わない。
絶対に言わない。
誰にも。
春乃にも。
真冬にも。
味方にも。
敵にも。
そう決めている。
まだ、決めている。
でも。
真冬の言葉が、喉の奥に残った。
嘘を重ねるなら、いつか自分でも戻れなくなる。
俺はスマホを見る。
裏アカの投稿。
春乃との連絡。
未原の名前。
酉宮の気配。
そして、俺にしか見えない順位。
戦うために、隠す。
守るために、隠す。
でも、隠しているものが増えるたびに、俺は何か別の場所へ進んでいる気がした。
視界に、最後のランキングが浮かぶ。
【今夜、四季零司が決めなければならないこと】
第1位 この力を誰にも話さない理由
俺は息を呑んだ。
理由。
秘密にすることは、もう決めていた。
でも、理由までは決めていなかった。
誰にも言わない。
そのための言い訳ではなく。
自分が壊れないための、理由を。




