第11話 言えない力
夜になっても、頭の中から真冬の言葉が消えなかった。
嘘を重ねるなら、いつか自分でも戻れなくなる。
嘘。
そう言われれば、そうなのかもしれない。
俺は誰にも本当のことを言っていない。
春乃にも。
真冬にも。
担任にも。
母さんにも。
ランキングが見えている。
そんなことを言っていない。
言えるわけがない。
自分でも、まだ信じきれていないのに。
夕飯の時、母さんは俺の顔を見て、少しだけ箸を止めた。
「零司」
「何」
「最近、ちゃんと寝てる?」
心臓が変な跳ね方をした。
「寝てる」
「本当に?」
「本当」
嘘だ。
あまり寝ていない。
寝ようとすると、文字が浮かぶ。
笑い声が戻る。
スマホの画面が目の裏に焼きつく。
母さんはしばらく俺を見ていた。
その目が怖かった。
担任の目とは違う。
酉宮の目とも違う。
俺を処理しようとしている目ではない。
利用しようとしている目でもない。
ただ、心配している目。
だから余計に怖い。
ここで言えば、少し楽になるのかもしれない。
学校で何があったか。
罰ゲームだったこと。
動画を撮られたこと。
春乃が謝ったこと。
裏アカがあること。
そこまでは言える。
でも、その先は?
俺だけが見える順位がある。
人の本気も。
危険も。
誰が嘘をついているかも。
この場で何をすべきかも。
見える時がある。
そう言ったら、母さんはどんな顔をする。
視界に文字が浮かんだ。
【母親に万象ランキングのことを話した場合に起きること】
第1位 心配される
第2位 病院へ連れていかれる
第3位 学校への説明が複雑になる
第4位 母親が自分を責める
第5位 四季零司が自分の見ているものを説明できなくなる
心配される。
それが一位だった。
悪いことではない。
でも、今の俺には重かった。
母さんが自分を責めるところまで、簡単に想像できた。
もっと早く気づいていれば。
学校に何か言っていれば。
零司がそこまで追い詰められていると分かっていれば。
そうやって、俺の見ているものまで母さんの痛みに変わる。
それは嫌だった。
「寝てるよ」
俺はもう一度言った。
母さんは、納得していない顔をした。
でも、それ以上は聞かなかった。
「何かあったら、言いなさいね」
「うん」
その「うん」は、ほとんど空だった。
部屋に戻って、机に座った。
ノートを開く。
今まで書いてきたメモが、ページの端から端まで並んでいる。
『酉宮 右手 机下』
『消してない』
『動画 最初が切れてる』
『裏アカ ガチで信じてて草』
『春乃 反応なし』
『未原 止めようとした』
『担任 トラブル/悪ふざけ/行き違い』
『削除前保存を要求』
『春乃 一人で見るな』
『酉宮 個別連絡を材料にする可能性』
『中庭 知らない男子 撮影?』
全部、現実の言葉だ。
誰が見ても、異常ではない。
いや、十分に気味悪いかもしれない。
でも、まだ説明はできる。
記録しているだけ。
時系列を整理しているだけ。
証拠を残しているだけ。
でも、本当は違う。
本当は、このメモの裏に、俺にしか見えない順位がある。
俺は新しいページを開いた。
上に、何を書くか迷う。
そして、ゆっくり書いた。
『これは何か』
書いた瞬間、自分で馬鹿みたいだと思った。
答えがほしくて書いたのに、答えなんて出るわけがない。
それでも、書いた。
万象ランキング。
そう呼べるのかもしれない。
でも、その名前をノートに書く気にはなれなかった。
書いたら、形になる。
形になれば、誰かに見られるかもしれない。
見られた時点で終わる。
だから、書かない。
代わりに、別の言葉を書く。
『表示』
『順位』
『違和感』
『判断材料』
どれもしっくりこない。
でも、万象ランキングよりはましだった。
視界に文字が浮かぶ。
【現在、四季零司が最も理解していないこと】
第1位 自分に見えているものの正体
やめろ。
そんなことは分かっている。
分かっているから書いている。
俺はペンを握り直した。
幻覚なのか。
本当に世界の順位なのか。
それとも、俺の頭が勝手に、今まで見逃していたものを順位にしているだけなのか。
分からない。
分からないのに、当たる。
当たるから使う。
使うから、さらに信じそうになる。
それが怖い。
俺はノートに書いた。
『見えているものが正しいとは限らない』
『でも、無視できない』
『無視すると、たぶん負ける』
『信じすぎると、たぶん間違える』
そこで手が止まった。
信じすぎると、間違える。
もう、少し間違えているのかもしれない。
正しい沈黙。
春乃への負担。
未原の立場。
担任への対応。
ランキングは、その場で一番いい選択を示す。
でも、その後に残る痛みまでは、全部引き受けてくれない。
それは俺が背負うしかない。
俺はページの端に、小さく線を引いた。
そして、項目を作る。
『表向きの整理方法』
一、観察事項。
二、発言内容。
三、時系列。
四、SNS投稿。
五、推測。
六、リスク。
ランキングそのものは書かない。
見えた順位は、現実の言葉に置き換える。
たとえば。
【今、最も警戒すべき相手】
第1位 担任
これは、
『担任は問題を小さく処理しようとしている』
『削除前保存を嫌がる可能性』
『悪ふざけ・行き違いという言葉に注意』
そう書けばいい。
【酉宮秋人が今、利用しようとしているもの】
第1位 四季零司と卯月春乃の個別連絡
これは、
『酉宮は個別連絡を口裏合わせとして扱う可能性』
『二人きりの接触は避ける』
『連絡内容は短く、誤解されにくい文面にする』
そう書けばいい。
見えている順位を、そのまま書かない。
現実の推測に変換する。
嘘だ。
でも、必要な嘘だ。
俺はペンを止めた。
必要な嘘。
また、その言葉か。
真冬に言われたばかりなのに。
嘘を重ねるなら、いつか自分でも戻れなくなる。
俺はノートを閉じかけた。
でも、閉じなかった。
まだ書かなければいけないことがある。
『誰にも話さない理由』
そう書く。
その下に、名前を並べる。
春乃。
真冬。
母さん。
担任。
未原。
酉宮と午堂の名前は書かなかった。
あいつらに話す選択肢なんて、最初からない。
まず、春乃。
もし春乃に話したら。
春乃は信じるかもしれない。
いや、信じないかもしれない。
でも、今の春乃なら、信じようとしてしまうかもしれない。
それが危ない。
俺が見たと言えば、春乃は自分の判断より俺の表示を待つようになるかもしれない。
逃げないと決めたのに、また誰かの答えに寄りかかるかもしれない。
それは違う。
春乃を助けるためだとしても、春乃から自分で選ぶ力を奪うなら、それは助けではない。
俺は書いた。
『春乃に言わない理由:春乃が自分で選ばなくなる可能性』
次に、真冬。
真冬は、たぶん一番危ない。
信じないかもしれない。
でも、信じた場合がもっと怖い。
真冬は分析する。
俺の力を。
条件を。
使える範囲を。
限界を。
矛盾を。
そして、きっと正しい質問をする。
その質問に俺は答えられない。
俺はこの力を理解していない。
理解していないものを、真冬に差し出すのは危険だ。
真冬が悪いからではない。
真冬は、悪用するタイプではないと思う。
たぶん。
でも、真冬は見てしまう。
見えたものを、見なかったことにはしない。
それが怖い。
俺は書いた。
『真冬に言わない理由:解析される。自分でも説明できないものを説明しなければならなくなる』
母さん。
母さんには、言えない。
心配される。
病院に連れていかれる。
学校に話が広がる。
でも、それだけじゃない。
母さんの中で、俺が「普通に学校で傷ついた息子」ではなく、「何か変なものが見えている息子」になる。
それが嫌だった。
俺は書いた。
『母さんに言わない理由:心配させる。話の中心が、学校で起きたことから俺の異常に移る』
担任。
論外だ。
担任は、これを生徒間トラブルより先に、俺の問題として処理する。
そうされる。
俺は書いた。
『担任に言わない理由:指導対象が俺になる』
未原。
未原は悪くない。
でも、抱えられない。
彼女は止めようとして、止めきれなかった。
今でもたぶん、自分のことで精一杯だ。
そんな相手に、俺の見えているものまで渡す必要はない。
俺は書いた。
『未原に言わない理由:巻き込むだけになる』
そこまで書いて、ペンを置いた。
最後に、もう一行。
『将来、誰かを好きになっても、言わない』
書いてから、変な気分になった。
急に遠い話になったからだ。
でも、書かなければいけない気がした。
いつか。
本当にいつか。
誰かを好きになったとして。
その人にまで、この力を話していい理由にはならない。
好きだから全部話す。
信じてほしいから見せる。
それは、たぶん違う。
この力は、信頼の証にしてはいけない。
差し出した瞬間、相手を巻き込む。
あるいは、相手に答えを求められる。
それが一番怖い。
俺はノートを見つめる。
誰にも言わない理由が、少しずつ並んだ。
でも、どれもきれいじゃない。
守るため。
隠すため。
逃げるため。
勝つため。
全部混ざっている。
真冬の言葉を思い出す。
理由は、ひとつじゃなくてもいい。
でも、どれを一番上に置くかで変わる。
俺はページの一番下に、ゆっくり書いた。
『第1位 他人の人生を、俺の見えている順位で決めないため』
書いた瞬間、手が止まった。
これが、一番上でいいのか。
分からない。
でも、今はそう思いたかった。
俺が見えているものを話した瞬間、誰かはそれを答えにしてしまう。
春乃は、どうすればいいかを俺に聞くかもしれない。
真冬は、最適な使い方を考えるかもしれない。
母さんは、俺を守ろうとして余計に動くかもしれない。
担任は、俺を問題として扱うかもしれない。
そして俺自身も、ランキングを言い訳にするかもしれない。
順位がそう出たから。
そう言えば、俺は選ばなくて済む。
それが一番怖い。
俺はノートを閉じた。
その時、スマホが震えた。
春乃からだった。
『未原さんと話した。明日、一緒に職員室へ行く』
短い文。
俺はしばらく見ていた。
春乃が、俺ではなく未原と動いている。
よかった。
そう思った。
本当に。
でも、少しだけ胸が変な形に沈んだ。
その感情には名前をつけなかった。
つけたら、また面倒になる。
俺は返信を打った。
『記録は残して』
少し考えて、消す。
それだけだと、また手順だけになる。
でも、他に何を書けばいい。
指が止まる。
結局、打ち直した。
『記録は残して。無理なら途中でやめていい』
送信する。
すぐに既読がついた。
返事は少し遅れた。
『分かった』
それだけ。
その短さが、少し安心だった。
◇
翌日。
朝の教室に入ると、春乃と未原が並んで担任の方へ歩いていくところだった。
春乃は緊張している。
未原も同じくらい硬い顔をしている。
でも、二人でいた。
一人ではなかった。
俺は声をかけなかった。
今は、それでいい。
自分の席に座り、ノートを開く。
昨日のページをもう一度見る。
『誰にも話さない理由』
その下に並んだ言葉。
自分で書いたのに、まだ少し不安だった。
この理由も、いつか変わるのかもしれない。
都合のいい言い訳になるのかもしれない。
でも、今は必要だ。
見えていることを言わない。
言わない代わりに、現実で説明できる形にする。
観察。
発言。
時系列。
SNS投稿。
推測。
リスク。
それが、俺の嘘の器だ。
昼休み。
教室の後ろで、ノートを開いていると、影が落ちた。
顔を上げる。
子日真冬だった。
息が止まりかけた。
真冬は俺の手元を見ていた。
見られた。
全部ではない。
たぶん。
俺は反射的にノートを閉じた。
遅かったか。
間に合ったか。
分からない。
真冬は、俺の顔を見た。
「今の」
「何」
「また隠した」
「ノートくらい隠すだろ」
「普通は、そんな顔で隠さない」
嫌な女だ。
そう思った。
正確すぎる。
真冬は俺の机の横に立ったまま、少しだけ首を傾げた。
「あなた、記憶力がいいというより」
心臓が鳴る。
嫌な予感がした。
「見てる順番がおかしい」
息が止まった。
その言葉は、昨日より少し遠い。
でも、やっぱり近い。
「何それ」
「先に結論があって、あとから証拠を探している時がある」
違う。
違わない。
俺は視線を逸らしかけて、戻した。
逃げるな。
でも、言うな。
「あの学校のくだらない序列に慣れすぎただけだ」
自分でも驚くくらい、雑な返事だった。
真冬は黙った。
納得していない。
まったくしていない顔だった。
「序列に慣れると、そんな順番で物を見るの?」
「知らない。下の方にいるやつにも個人差がある」
「便利な分類ね」
「便利じゃないから困ってる」
真冬の目が少しだけ細くなった。
鋭い。
でも、さっきよりはましだ。
直接、危ない言葉は出していない。
真冬は俺を見ていた。
数秒。
長い。
やがて、短く言った。
「そう」
信じたようには聞こえなかった。
でも、それ以上は踏み込まなかった。
助かった。
いや、助かっていない。
疑惑が残っただけだ。
真冬は俺の机の上に視線を落とす。
「見せたくないなら、見ない」
「……意外だな」
「無理に見ると、あなたはもっと隠す」
また、それか。
また正しい。
真冬は少しだけ窓の方を見た。
「ただ、隠すなら、隠す理由は決めておいた方がいい」
喉の奥が詰まった。
昨日、俺がノートに書いたこと。
もちろん、真冬は知らない。
知らないはずだ。
なのに、また近い。
「何で」
「理由がない秘密は、守るうちに形が変わるから」
真冬はそう言って、俺の机から少し離れた。
「あなたが何を隠しているのかは知らない」
そこで一度切る。
「でも、何かを隠しているのは分かる」
心臓が、また嫌な鳴り方をした。
能力はバレていない。
ランキングは知られていない。
でも、隠していることは見抜かれている。
それは、かなり危ない。
かなり、近い。
真冬は最後に言った。
「それが人を傷つけないなら、今は聞かない」
今は。
その二文字が、重かった。
今は聞かない。
つまり、いつか聞くかもしれない。
俺は何も返さなかった。
真冬は教室の前の方へ戻っていった。
俺はしばらくノートを開けなかった。
手のひらに汗が残っている。
深く息を吸う。
ゆっくり吐く。
それから、ノートを少しだけ開いた。
最後のページ。
そこに、一行だけ書き足す。
『見えていることは、誰にも言わない』
それだけ。
その下に、もう一行を書こうとして、手が止まった。
迷った末に、書いた。
『ただし、見えていることを理由に、人を勝手に決めない』
文字は少し歪んでいた。
でも、消さなかった。
チャイムが鳴る。
教室が動き出す。
午堂の声。
酉宮の横顔。
春乃と未原が戻ってくる足音。
真冬の静かな視線。
全部が、同じ教室の中にある。
俺はノートを閉じた。
言えない力がある。
でも、言えないからといって、何をしてもいいわけじゃない。
そのことだけは、忘れないようにしたかった。




