第5話 切り取られた正しさ
酉宮秋人は、ほんの少しだけ笑っていた。
大きく笑うわけじゃない。
午堂みたいに、声を出して人を集める笑い方じゃない。
口元だけを動かす。
目だけを細める。
見られても、あとから「笑ってない」と言えるくらいの笑い方。
その手には、スマホがあった。
画面はもう伏せられている。
遅い。
いや、違う。
あいつは遅れたんじゃない。
わざと、俺に見せたのかもしれない。
見られていると分かった上で、しまったのかもしれない。
こっちが焦るように。
春乃が教室を出ていったあとも、俺はしばらく動けなかった。
謝罪。
許さない。
逃げない。
見ていた真冬。
スマホを下げた酉宮。
全部が頭の中でぐちゃぐちゃになっている。
何かが始まった。
それだけは分かった。
でも、何が始まったのかまでは分からない。
視界の端に、文字が浮かぶ。
【現在、最も警戒すべき変化】
第1位 会話の切り取り
背中が冷えた。
会話の切り取り。
俺は、さっきの自分の言葉を思い出す。
『俺にだけ謝って終わりにしないで』
『あの場で笑ってた連中の前で言って』
『自分が何をしたのか、あの空気の中で言って』
文字だけにすれば。
映像だけを切れば。
俺が春乃を追い詰めているように見えるかもしれない。
謝っている女子に、さらに何かを要求している男子。
泣きそうな春乃。
硬い声の俺。
周りに残っていた生徒。
ああ。
そういうことか。
吐き気がした。
謝罪すら、材料になる。
俺が許さなかったことも。
春乃が泣きそうになったことも。
全部、別の形にされる。
酉宮は教室の入口からこちらを見ていた。
何も言わない。
ただ、スマホをポケットに入れて、肩をすくめる。
その動きだけで、腹の奥が冷えた。
俺は何か言おうとした。
けれど、言葉が出る前に、真冬が一歩だけ動いた。
俺と酉宮の間に入るわけではない。
止めるわけでもない。
ただ、少し角度を変えた。
真冬の目が、酉宮の手元へ向く。
酉宮はそれに気づいたのか、少しだけ口角を下げた。
「何?」
酉宮が言った。
声は軽い。
でも、目は真冬を見ていた。
「別に」
真冬は短く返した。
俺の台詞みたいな返事だった。
でも、俺とは違う。
真冬の「別に」は逃げじゃない。
相手に踏み込ませないための線だった。
酉宮はつまらなそうに笑って、廊下の方へ消えた。
残された俺は、ようやく息を吐いた。
真冬がこちらを見る。
「今の」
「……何」
「見られてた」
「分かってる」
「たぶん、途中から」
分かってる。
そう言おうとして、言えなかった。
俺は本当に分かっていたのか。
酉宮がスマホを下げるまで、気づかなかった。
春乃に言葉を返すことで精一杯だった。
自分が許したふりをしないことで精一杯だった。
周りを見る余裕なんてなかった。
真冬は何も責めなかった。
それが、少しだけきつかった。
「全部は撮れてないと思う」
真冬が言った。
「何で分かる」
「角度」
それだけ言って、真冬は教室の入口を見た。
さっき酉宮が立っていた場所。
たしかに、そこからなら俺は見える。
春乃は半分くらい隠れる。
「声は?」
「近ければ拾える」
冷静だった。
まるで図形問題でも解くみたいに、真冬は言った。
その冷静さが少し怖い。
でも、今は助かった。
「どうすればいい」
聞いてから、しまったと思った。
頼っている。
真冬に。
まだ味方かどうかも分からない相手に。
真冬はすぐには答えなかった。
少しだけ考えてから、言った。
「先に騒がない」
「それは分かってる」
「分かってない人は、分かってるって言う」
嫌な言い方だった。
でも、たぶん正しい。
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
声が少し荒くなった。
自分でも分かった。
真冬は表情を変えない。
「卯月さん次第」
「春乃さん?」
「さっき、逃げないって言ったんでしょ」
俺は黙った。
その会話まで聞こえていたのか。
いや、見ていたのか。
どこまで見ているんだ、この人は。
「卯月さん本人が、あなたに追い詰められたと言えば、酉宮くんの形になる」
真冬は続けた。
「卯月さん本人が、自分で謝ったと言えば、形が変わる」
形。
その言葉が、妙に引っかかった。
事実はひとつじゃない。
いや、起きたことはひとつでも。
見せ方で、形が変わる。
酉宮は、そこを使う。
ランキングが浮かぶ。
【今、最も奪われやすいもの】
第1位 会話の意味
会話の意味。
俺と春乃の会話は、まだ固まっていない。
春乃の謝罪なのか。
俺の拒絶なのか。
俺が春乃を責めた場面なのか。
春乃が逃げないと決めた場面なのか。
誰が先に語るかで、意味が変わる。
そんなの、ずるいと思った。
でも、ずるいからこそ、あいつは使う。
「卯月さんを探す」
俺が言うと、真冬はすぐには頷かなかった。
「今すぐ?」
「今すぐ」
「追い詰めないように」
「分かってる」
「だから、分かってる人は――」
「分かってないって言うんだろ」
俺が言うと、真冬は初めて少しだけ黙った。
怒ったのかと思った。
でも違った。
「なら、少しは分かってる」
それだけ言って、真冬は教室の方へ視線を戻した。
俺は廊下へ出た。
春乃の姿はすぐには見つからなかった。
放課後の廊下は、部活へ向かう生徒や帰る生徒でざわついている。
昨日と同じ制服。
昨日と同じ校舎。
でも、もう全部がただの背景には見えない。
誰かの視線。
誰かのスマホ。
誰かの笑い。
全部、何かを残す可能性がある。
階段の近くで、春乃を見つけた。
窓際に立っていた。
一人だった。
肩が小さく上下している。
泣いているのかと思った。
近づいて、少し離れたところで止まる。
「春乃さん」
春乃が振り返った。
目元は赤い。
でも、涙は拭いていた。
俺を見ると、一瞬だけ身構えた。
その反応に、胸が痛んだ。
俺は加害者じゃない。
そう思った。
でも、さっきの俺の言葉は、春乃を傷つけた。
それも事実だった。
「さっきのこと」
俺は言った。
「酉宮に見られてた」
春乃の顔が強張った。
「え」
「たぶん、撮られてる。全部じゃないと思う。でも、使われるかもしれない」
春乃の唇が震えた。
「そんな……」
「責めに来たんじゃない」
言ってから、自分で少し驚いた。
昨日までの俺なら、こんな言葉は出なかった。
自分を守るだけで精一杯だった。
今も精一杯だ。
でも、春乃を責めすぎれば、それもまた酉宮の材料になる。
それが分かるくらいには、見えていた。
「じゃあ……」
春乃が小さく言う。
「私は、どうすればいいの」
その声は、弱かった。
でも、前みたいに誰かに答えを預ける声ではなかった。
自分がやるべきことを探している声。
そう見えた。
視界に文字が浮かぶ。
【卯月春乃が今、最も避けたいこと】
第1位 また逃げること
俺は、その表示を見て少しだけ目を伏せた。
また逃げること。
それを一番避けたいと思っている。
でも、思っているだけでは足りない。
俺はそれを知っている。
「俺に聞かないで」
春乃の目が揺れた。
突き放したように聞こえたかもしれない。
でも、違う。
いや、少しは突き放したのかもしれない。
自分でも分からない。
「俺が決めたら、たぶんまた変になる」
「変に?」
「俺に言われたからやりました、になる」
春乃は黙った。
「それだと、春乃さんはまた、自分で選ばなかったことになる」
春乃の指が制服の袖を握った。
「じゃあ、私が……自分で」
「うん」
喉が渇く。
こんな話をする資格が自分にあるのか、分からない。
でも、言うしかない。
「自分で考えて、自分で言って」
春乃は窓の外を見た。
校庭では、運動部が準備を始めている。
何も知らない声が響いていた。
「怖い」
春乃が言った。
「うん」
「また変な空気になるかもしれない」
「うん」
「午堂くんたちに何か言われるかもしれない」
「うん」
「でも……」
春乃は、そこで一度言葉を切った。
そして、俺を見た。
「このままの方が、もっと怖い」
その言葉は、震えていた。
でも、昨日の告白の声とは違った。
誰かに言わされている声じゃない。
自分で立とうとしている声だった。
俺は何も言わなかった。
肯定もしない。
慰めもしない。
許しもしない。
でも、否定もしなかった。
春乃はスマホを取り出した。
指が震えている。
「クラスのグループに、書く」
心臓が跳ねた。
「今?」
「うん」
春乃は、画面を開いた。
けれど、指はすぐには動かなかった。
送信欄の白い空白を見つめたまま、固まっている。
呼吸が浅い。
唇が震えている。
スマホを握る指が、白くなっている。
やっぱり怖いのだと思った。
逃げないと決めても。
怖くなくなるわけじゃない。
俺は、少しだけ息を吐いた。
そこで、視界に文字が浮かぶ。
【今すぐ全体送信した場合の危険】
第1位 酉宮秋人に切り返す時間を与える
第2位 午堂夏樹が先に空気を作る
第3位 卯月春乃が感情的だと扱われる
第4位 四季零司が裏で言わせたと見られる
第5位 証拠との順番が崩れる
まただ。
正しいように見える行動にも、危険がある。
ランキングは、いちいち面倒くさい。
いや、違う。
現実が面倒くさいのか。
「待って」
俺は言った。
春乃が顔を上げる。
「今、全体に書くのは危ないと思う」
「どうして?」
「酉宮が先に何か持ってるなら、春乃さんの投稿を利用するかもしれない」
春乃はスマホを握ったまま固まった。
「じゃあ、どうすれば……」
俺は答えられなかった。
分からない。
ランキングは危険を並べる。
でも、正解までは出さない。
いや、出しているのかもしれない。
でも、俺にはまだ読めていない。
真冬なら何か言えるかもしれない。
そう思った瞬間、自分が少し嫌になった。
また頼ろうとしている。
見えているのは俺なのに。
決めるのは俺たちでなければならないのに。
階段の方から足音がした。
振り向くと、真冬が立っていた。
いつからいたのかは分からない。
聞いていたのか。
見ていただけなのか。
真冬は俺たちを見て、短く言った。
「先に残して」
「残す?」
春乃が聞き返す。
「あとで、なかったことにされない形で」
それだけだった。
でも、春乃は少しだけ理解したように、スマホを見下ろした。
真冬は俺の方を見た。
「あなたは少し離れて」
「……分かってる」
「分かってるなら、早く」
嫌な言い方だった。
でも、正しい。
俺が春乃の横で見ていたら、俺が書かせているように見える。
酉宮なら、そこを使う。
俺は一歩下がった。
春乃はスマホに文字を打ち始めた。
指が震えて、何度か打ち間違える。
消して、また打つ。
俺は見なかった。
見たら、口を出したくなる。
こう書いた方がいい。
これは危ない。
その言葉は使わない方がいい。
そんなことを言えば、また俺が春乃の言葉を奪う。
だから、見ない。
窓の外を見る。
校庭では、誰かが笑っていた。
平和な声だった。
俺の横で、春乃が小さく息を吸った。
「できた」
真冬が言う。
「先に自分に送って」
「自分に?」
「時刻が残る」
春乃は頷いた。
そして、スマホを操作する。
送信音が小さく鳴った。
たったそれだけの音なのに、俺の胸も少しだけ跳ねた。
春乃が言った。
「グループにも送る」
俺は何も言わなかった。
真冬も何も言わない。
春乃は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
送信ボタンの青だけが、妙に強く見えた。
春乃の親指が、近づく。
止まる。
少し戻る。
それから、押した。
すぐに通知音が鳴った。
一つ。
二つ。
三つ。
春乃の顔がこわばる。
俺のスマホも震えた。
見たくない。
でも、見た。
クラスのグループに、春乃の投稿が流れていた。
『昨日の放課後、私は四季くんに、罰ゲームで告白みたいなことをしました。断ればよかったのに、断れませんでした。止めればよかったのに、止めませんでした。四季くんを傷つけました。ごめんなさい。あれは冗談で済ませていいことじゃないです』
短い文章だった。
綺麗ではない。
何度も同じようなことを言っている。
でも、春乃の言葉だった。
グループの通知が止まる。
数秒。
誰も返さない。
嫌な沈黙だった。
画面の向こうで、クラス全員が息を止めている気がした。
そして、最初の返信が来た。
未原沙耶。
『……昨日のは、やっぱりよくなかったと思う』
春乃が小さく息を呑んだ。
続けて、辰巳蓮。
『いや、グループでやる話?』
申橋亮。
『四季が言わせたん?』
胃が縮んだ。
来た。
やっぱり来た。
次に、知らない誰かのスタンプ。
困った顔。
笑っているのか、引いているのか分からない顔。
そのあと、酉宮秋人の投稿が流れた。
『昨日の件、ノリだったのに重くなりすぎじゃね? てかさっき春乃、四季に詰められてたけど大丈夫?』
添付ファイル。
動画。
まだ再生していない。
なのに、サムネイルだけで胃が縮んだ。
頭を下げる春乃。
硬い顔で立つ俺。
その一枚だけなら、俺が春乃を責めているように見える。
やっぱり。
切り取られている。
春乃の謝罪も。
俺の拒絶も。
逃げないという選択も。
全部、別の形にされようとしている。
視界に文字が浮かぶ。
【現在、最も危険な拡散物】
第1位 酉宮秋人の投稿動画
春乃がスマホを落としそうになった。
真冬は、画面を見ていた。
表情は変わらない。
でも、その目だけが少し細くなった。
俺のスマホが、また震える。
クラスのグループに、午堂夏樹の投稿が流れた。
『いや、これは四季もやりすぎじゃね?』
空気が、動いた。
画面の中で。
教室の外で。
俺の知らない場所で。
俺は動画の再生ボタンを見つめた。
まだ押していない。
押せば、酉宮が作った形を見ることになる。
でも、見なければ反撃できない。
春乃が逃げないと決めた瞬間。
酉宮は、それを別の物語に変えようとしている。
俺は奥歯を噛んだ。
やっぱり、始まった。
今度は、黙って見ているだけじゃ済まない。




