第2話 明日、生きて最初に取るべき行動
朝は、普通に来た。
来なくていいと思っていたのに、ちゃんと来た。
カーテンの隙間から光が差している。
スマホのアラームは、まだ鳴っていなかった。
眠れたのかは分からない。
目を閉じていた時間はある。
でも、頭の中ではずっと昨日の教室が続いていた。
笑い声。
机を叩く音。
午堂の声。
春乃の青ざめた顔。
酉宮がスマホを伏せる動き。
それから、あの文字。
【四季零司が明日、生きて最初に取るべき行動ランキング】
第1位 録音データを確認する
起き上がる。
体が重い。
昨日までの重さとは違う。
底が抜けた感じじゃない。
何かを背負わされたみたいな重さだった。
机の上には、夜中に書いたノートが開きっぱなしになっていた。
『俺は、まだ終わらない』
その一行を見て、少しだけ顔が熱くなる。
何を書いてるんだ、俺は。
でも、破らなかった。
スマホを手に取る。
指紋認証が一回で通らなかった。
指先が汗ばんでいた。
「……録音」
小さく呟いて、アプリを開く。
五限の授業で録った音声。
その下に、見覚えのない長さのデータが残っていた。
録音時間。
三時間二十七分。
息が止まった。
止め忘れていた。
昨日の放課後も。
あの教室も。
全部ではないにしても、何かは残っている。
再生ボタンに指を置いたまま、しばらく動けなかった。
聞きたくない。
聞けば、昨日のことがもう一回起きる。
春乃の声も。
午堂の笑いも。
自分の情けない沈黙も。
全部、もう一回聞くことになる。
でも、聞かなければ。
昨日のことは、また空気の中へ逃げていく。
ノリ。
悪ふざけ。
気にしすぎ。
勘違い。
そういう言葉で、薄められていく。
俺は息を吸って、再生した。
最初は授業の音だった。
先生の声。
椅子の音。
誰かがペンを落とす音。
自分が紙をめくる音。
その後、ざわざわした放課後の音に変わる。
しばらくして、午堂の声が入った。
『マジでやるの?』
心臓が跳ねた。
続いて、誰かの笑い声。
『春乃ならいけるって』
『四季、絶対信じるだろ』
『やめなよ、ほんとに』
最後の声は、誰だ。
女子の声だった。
春乃ではない。
たぶん、未原沙耶。
そこへ、酉宮の声が混ざる。
『一応、音は拾える位置にしとくわ』
吐き気がした。
音は拾える位置。
あいつは、最初から撮るつもりだった。
手が震えて、スマホを落としそうになる。
それでも止めなかった。
早送りしたい。
聞きたくない。
でも、飛ばしたら何かを見落とす気がした。
数分後。
『四季くん』
春乃の声が入った。
昨日の教室が、耳の奥で再生される。
『ちょっと、いい?』
自分の声が聞こえた。
『……なに?』
情けない声だった。
思っていたより、ずっと情けない。
裏返って、かすれて、期待を隠しきれていない。
聞いていられなかった。
止めようとした指が、画面の上で止まる。
止めるな。
俺は歯を食いしばった。
『私、四季くんのこと、前から気になってて』
周りの気配が録音にも入っていた。
小さな笑い。
息を殺す音。
机の脚がほんの少しずれる音。
そして。
『私と、付き合ってください』
その直後。
爆発みたいな笑い声。
『ぶはっ!』
『無理無理無理!』
『四季、顔!』
『え、信じた? 今の信じた?』
俺はスマホを握りしめた。
知っている。
もう知っている。
なのに、音で聞くと違った。
記憶の中の笑い声より、ずっと近い。
耳の奥に直接、手を突っ込まれるみたいだった。
『やべえ、ガチで固まってる! 春乃、演技うますぎだろ!』
午堂の声。
よく通る声だった。
人を傷つける時にも、ちゃんと楽しそうな声を出せるやつ。
続いて、小さな声が入った。
『撮れてる』
酉宮だ。
たぶん、間違いない。
その瞬間、腹の奥が冷えた。
昨日の記憶だけなら、俺の被害妄想だと言われるかもしれない。
でも、これは違う。
音が残っている。
あの声が、残っている。
完璧な証拠かどうかは分からない。
誰が聞いても決定的と言えるのかも分からない。
でも、少なくとも。
俺が昨日、勝手に傷ついたわけではない。
それだけは、もう消せない。
再生を止めた。
部屋が静かになる。
静かになった途端、耳の奥で笑い声だけが残った。
俺は録音データをコピーした。
クラウドにも保存した。
別名でも保存した。
何度も保存している自分が、少し気持ち悪かった。
でも、必要だった。
あいつらは消すかもしれない。
なかったことにするかもしれない。
なら、残す。
消される前に、残す。
制服に着替える時、手が少し震えた。
ネクタイがうまく締められない。
鏡に映る自分は、昨日よりひどい顔をしていた。
目の下が暗い。
髪も跳ねている。
顔色も悪い。
これで学校に行くのか。
行きたくない。
本当に、行きたくない。
でも、昨夜の表示が頭の中に残っている。
【現在、この状況を覆す可能性ランキング】
第1位 記録
第2位 沈黙
第3位 観察
第4位 証拠
第5位 登校
登校。
第5位。
低いのか高いのか分からない。
でも、入っている。
俺は鞄を持った。
階段を下りると、母さんが台所にいた。
「おはよう」
「……おはよう」
声が変だった。
母さんは一瞬だけ俺を見て、何か言いかけた。
けれど、言わなかった。
「無理しないでね」
それだけだった。
俺は返事に困った。
無理はしている。
でも、無理しない方法が分からない。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玄関を出る。
朝の空気は冷たかった。
通学路には同じ制服の生徒がいる。
誰かが笑っている。
誰かがイヤホンをしている。
誰かが自転車で追い抜いていく。
普通の朝だった。
腹が立つくらい、普通だった。
俺一人だけが、昨日の教室にまだ置き去りにされている気がした。
学校の門が見えた時、足が止まりかけた。
ここから先へ入れば、またあの空気の中に戻る。
昨日と同じ教室。
同じ机。
同じ連中。
でも、ひとつだけ違う。
俺はもう、何も持っていないわけじゃない。
スマホの中に、音がある。
ノートの中に、記録がある。
それがどれだけ弱くても。
ゼロではない。
下駄箱で靴を履き替える。
廊下を歩く。
二年三組の教室に近づくにつれて、胃が縮んだ。
ドアの前で、一度だけ息を止める。
開ける。
教室の空気が、少し動いた。
大きな変化じゃない。
でも、分かる。
誰かがスマホから顔を上げた。
誰かが口元を押さえた。
誰かが目を逸らした。
誰かが、何もなかったみたいに友達と話し続けた。
昨日までは、ただの空気だった。
今日は違う。
ひとつひとつが、妙にくっきり見えた。
視界の端に、文字が浮かぶ。
【この教室で、現在あなたを見下している人物ランキング】
第1位 午堂夏樹
第2位 酉宮秋人
第3位 辰巳蓮
第4位 未原沙耶
第5位 申橋亮
息が詰まった。
出た。
昨日の夜だけじゃない。
今も見えている。
幻覚なら、ずいぶん都合がいい。
いや、都合がいいのかどうかも分からない。
だって、見えたところで気分が良くなるわけじゃない。
俺を見下している人間の名前が、丁寧に並んだだけだ。
午堂は窓際にいた。
いつも通りの顔で、周りと話している。
俺と目が合うと、少しだけ口角を上げた。
「おはよ、四季」
声が軽い。
昨日のことなんて、もう冗談の続きみたいな顔だった。
「昨日、大丈夫だった?」
周りが少し笑う。
大丈夫だった?
どの口で言ってるんだ。
そう言いたかった。
でも、言わなかった。
言えば、向こうの土俵だ。
俺は小さく頷いた。
「別に」
昨日と同じ言葉。
でも、意味は違う。
俺は自分の席へ向かう。
途中で、酉宮秋人が見えた。
机に肘をついて、スマホを見ている。
俺が近づくと、画面を一瞬で伏せた。
昨日と同じ動き。
遅い。
たぶん、あいつは自分で思っているほど上手く隠せていない。
いや、違う。
隠せていないんじゃない。
見られても大丈夫だと思っているのかもしれない。
どうせ四季には何もできない。
そういう顔だった。
席に着く。
机の上には何も置かれていなかった。
落書きもない。
嫌がらせもない。
それだけで少しだけ息ができた自分が嫌だった。
この程度で安心するな。
まだ何も終わっていない。
鞄を下ろした時、前の方から小さな気配がした。
卯月春乃だった。
俺と目が合いかける。
春乃は、すぐに逸らした。
昨日と違う。
笑っていない。
友達と話しているふりをしているけれど、指先が落ち着いていない。
シャープペンを持つ手が、何度も同じところをなぞっている。
視界に文字が浮かぶ。
【四季零司に対して本気で後悔している人物ランキング】
第1位 卯月春乃
胸の奥が変なふうに痛んだ。
後悔。
そうか。
後悔しているのか。
だから?
すぐに、別の声が出た。
後悔していれば、昨日のことは消えるのか。
謝れば、笑い声はなかったことになるのか。
俺が一瞬だけ喜んだことも、消えるのか。
消えない。
春乃がどれだけ本気で後悔していても、俺はまだ許せない。
たぶん、それでいい。
俺は目を逸らした。
春乃の表情を見誤らない。
昨夜のランキングにあった言葉。
その意味が、少しだけ分かった気がした。
春乃を敵だと決めつけるのも違う。
でも、味方だと思うのも違う。
少なくとも今は。
ただ、見ておく。
チャイムが鳴った。
担任が入ってくる。
いつも通りの朝礼。
出欠確認。
連絡事項。
提出物の締切。
教室は何もなかったみたいに動き出した。
それが一番気持ち悪かった。
昨日、あれだけ笑ったのに。
俺だけがまだ昨日にいる。
他の全員は、もう今日に進んでいる。
一時間目が始まった。
黒板の文字をノートに写す。
いつも通りの動作のはずなのに、手が何度も止まる。
俺はノートの端に、小さく書いた。
『録音あり』
そこまで書いて、手が止まった。
続きが書けない。
午堂。
酉宮。
春乃。
名前を書くのが、まだ怖かった。
誰かに見られたら。
そう思っただけで、背中が冷える。
だから、俺は名前ではなく記号にした。
『声が大きい方』
『スマホ』
『笑ってなかった』
何だこれ。
自分で書いたくせに、少しだけ嫌になった。
でも、今はこれでいい。
俺にしか見えていないものを、そのまま書くわけにはいかない。
見えていることは、全部、考えたことにする。
気づいたことにする。
観察したことにする。
そうしないと、たぶん使えない。
休み時間になった。
午堂の周りには人が集まる。
昨日と同じだ。
違うのは、たまに俺の方へ視線が飛んでくること。
そのたび、笑いが少し薄くなる。
俺が登校してきたことを、面白がっているのか。
それとも、少し面倒だと思っているのか。
分からない。
酉宮は窓際でスマホを触っていた。
昨日より、画面を見る時間が短い。
誰かが近づくと伏せる。
俺が視線を向けると、何もしていないふりをする。
下手だ。
いや、下手に見えるだけかもしれない。
あいつは、俺が見ていることに気づいているのか。
それとも、俺が見たところで何もできないと分かっているのか。
どっちにしても、気持ち悪かった。
昼休み前。
移動教室のために廊下へ出る時、酉宮の横を通った。
その瞬間、酉宮のスマホ画面がほんの少し見えた。
黒っぽい背景。
短い投稿文。
通知の数字。
文字の全部は読めなかった。
けれど、一部だけ見えた。
『……信じてて草』
足が止まりかけた。
酉宮が顔を上げる。
「何?」
声は普通だった。
何もしていない顔。
俺は、すぐに目を逸らした。
「別に」
またその言葉だった。
でも、今度は逃げるためだけじゃない。
まだ、ここで言う場面じゃない。
酉宮は少しだけ笑った。
「昨日のこと、まだ気にしてんの?」
近くにいた数人が、こちらを見る。
午堂も振り返った。
春乃が、席で固まっているのが視界の端に入った。
答えるな。
そう思った。
でも、口が勝手に動きそうになる。
気にしているに決まってるだろ。
お前が撮ったんだろ。
その画面、見せろよ。
全部、言いたかった。
でも、言わなかった。
ここで言えば、俺が感情的に騒いだことになる。
酉宮は、たぶん消す。
午堂は、たぶん笑いに変える。
俺は息を吐いた。
「何でもない」
言って、歩き出した。
背中に小さな笑い声が落ちる。
でも、昨日とは違った。
何かを取られた感じはしなかった。
言わなかった。
逃げたんじゃない。
まだ、言わないことを選んだ。
それだけだ。
移動教室へ向かう途中、ポケットの中でスマホが重く感じた。
録音データ。
酉宮の画面。
春乃の後悔。
午堂の笑い。
線が、少しずつ繋がっていく。
まだ弱い。
触れば切れそうな細い線だ。
でも、昨日の俺には一本もなかった。
教室の扉の前で、もう一度だけ振り返った。
酉宮は、またスマホを見ていた。
午堂は笑っていた。
春乃は俯いていた。
視界に、短い表示が浮かぶ。
【昨日の件を最も拡散する危険がある人物ランキング】
第1位 酉宮秋人
やっぱり。
午堂じゃない。
午堂の声ばかり見ていた。
春乃の顔ばかり覚えていた。
でも、昨日の笑いを教室の外へ運んだのは、たぶん別のやつだ。
酉宮秋人。
俺はまだ、あいつのことを何も見ていない。
見るべき相手を、俺は間違えていた。




