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炒飯のように  作者: 真冬
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第二章 ― 新たな友人 ―

それは、とても晴れた午後だった。朝方に降った雨が石畳を濡らし、宮殿の庭園では牡丹と薔薇の花びらがきらきらと陽を反射していた。

今日は、父上が長く親交のあるガヴァナー公爵の主催する舞踏会。ウィーンの北部、川沿いに構えるガヴァナー邸のサロンには、社交界の名だたる紳士淑女が集い、開かれた窓からはクラリネットとヴァイオリンの音が涼やかに流れ込んでいた。

「まるで音楽そのものが舞っているようね……」

クロエは緊張した面持ちで、レースの扇子を指先でくるくると回していた。緋色のドレスには真珠の髪飾り。普段とは異なる彩りに包まれていても、心の中にはどこか落ち着かぬ鼓動が続いていた。

そのときだった。

背の高い男が、会場の反対側からゆっくりと歩いてくるのが見えた。

一瞬、誰もがその姿に目を奪われたのではないかと思うほど、彼は“美しかった”。

――美しい鼻梁に、滑らかな唇。

まつ毛の縁にかすかに影を落とす瞳は深い湖のようで、なにより彼が微笑んだとき、その笑顔はまるで太陽が差し込んだかのように、眩しかった。

ただそこに立っているだけなのに、舞踏会の光が彼に集まっているようだった。

いや、光ではない――彼の笑顔そのものが、光を放っていた。

クロエは目を細めて見つめた。

美しい鼻梁、繊細なまつ毛、しなやかに笑う唇。けれどどこか、“貴族の子息”にしては目線が低く、誰とも目を合わせないようにしているようにも見えた。

「……あの方は?」クロエはそっと父に尋ねた。

「ん?ああ。あれか。あの青年は貴族の子息などではないよ。ガヴァナー家の厨房で働いている、料理人の下働きさ。なかなか腕がいいそうで、最近はよく呼ばれているらしい」

そう言って笑う父の声が、クロエの耳には少し遠く聞こえた。

料理人。

そんなはずはない。

けれど、そう言われてみれば――彼の服装は貴族のものではなかった。

よく見ると、黒を基調とした上着は上質な仕立てながらも紋章や金糸の装飾はなく、袖口にわずかに小麦粉の粉じんが残っていた。真っ白ではないリネンの前掛け。そしてその手には、布で丁寧に包まれた銀のトレイがある。上には、整然と並べられた前菜のプレート。ローストした野菜に艶やかなソースがかけられ、まるで宝石のように彩られていた。

クロエの胸に、奇妙な感覚が湧いた。

その身なりも、手元のトレイも、彼が「この舞踏会の一員ではない」ことを物語っている。けれど――それでも、彼の佇まいは確かに“貴族”の誰よりも美しく、堂々として見えた。

彼はこちらに気づくと、驚いたようにわずかに眉を上げ、すぐに深く頭を下げた。

その動作は、礼儀というよりもむしろ“息を整えるような静けさ”を纏っていて、不思議と彼の動作だけが舞踏会のざわめきから切り離されているようだった。

「……大変失礼いたしました、マドモワゼル」

低く、落ち着いた声だった。過度な丁寧さはなく、しかし言葉の選び方に上品さが滲んでいた。

クロエは応えられなかった。というより、反応を忘れていた。

彼は一礼し、そのまま静かに踵を返して去っていった。足取りは重くない。それでいて、どこか地に足のついた歩き方――料理人という言葉から連想される忙しさとも違う、確かなリズム。

そして、彼が通り過ぎた瞬間だった。

ふいに風が抜けた。舞踏会の開かれた大窓の方角から、やわらかな気流がサロンの中央に入り込んだのだ。

その風に乗って、かすかに――けれど確かに香った。ローズマリー、バター、焼きたてのブール・ブラン。火と油と時間が練り上げる香りの層が、クロエの記憶を一瞬だけ掻き立てた。

貴族が纏う香水のような“人工的な華やかさ”ではない。もっと温かく、柔らかく、人の手の記憶がこもった香り。

思わずクロエは、その場に立ち尽くしてしまった。

彼の名前は知らない。

けれど、その香りだけが、しばらくクロエの胸の奥に静かに残りつづけていた。

料理人。

たしかに、手に持っていたトレイには前菜が並んでいた。

けれど、あの振る舞い、あの所作、あの静かな光――

「むしろ、どこか……誇り高くさえ見えた」

クロエはほんの少しだけ、振り返って彼の背を見送った。

けれど名を呼ぶことはなかった。声にすれば、この一瞬が“夢じゃなくなってしまう”ような気がして。

舞踏会の音楽が再び耳に満ちる。

だけどその中心に、今はピアノでもヴァイオリンでもない、

あの人の微笑みが――まるで余韻のように、静かに残っていた。

あの舞踏会の夜から、もう十日が過ぎていた。

朝は早く、夜は遅い。

家庭教師のデュラン女史の講義はさらに厳しくなり、ラテン語の詩文には四つの語源が求められた。返された答案用紙の端には、かすれた赤インクで「情緒に逃げるな」と書かれていた。

午後には舞踏会のエチケット、礼儀、着こなしの再確認。言葉の選び方、呼吸の間合い、会話の切り上げ方。

「あなたの声の高さは少し目立ちます。マドモワゼルらしさというのは、“背景に溶ける美しさ”を指すのですよ」

エリーゼ夫人は相変わらず冷静で、優しい皮肉を笑顔の奥に隠していた。

ダンスのレッスンでは、やはり同じところでつまずいた。ターンが浅く、つま先の角度が開きすぎている。

「……申し訳ありません」

クロエは謝る。けれど本当は、何に対して謝っているのかさえ、もう分からなかった。

身体が覚えたとおりに動こうとすると、心がどこかで“音”を探していた。あの舞踏会の音楽ではない、もっと別の――

あの人の、声の響き。

そして、通りすがりに運ばれてきた、ローズマリーと焦がしバターの、あたたかい香り。

ひとつだけ、確かに覚えている。

彼が「すみません」と言った時、決して“見上げる目”ではなかった。

あれは、誰の許しも求めていない目だった。誰かの正解に従うのではなく、自分の足で立とうとしている人の目。

それを思い出すたびに――クロエは、自分がどれほど“誰かのための形”になろうとしていたのかに気づかされる。

夜。鏡の前でナイトドレスのリボンを外す時、

昼。窓辺に飾られた果物の香りに手を伸ばす時、

朝。銀のカトラリーが音を立てて並ぶ食卓で、小さくため息をつく時。

そのすべての間に、“彼の面影”がそっと忍び込む。

名も知らない。声もひと言だけ。

でも、あの一度だけのすれ違いが、クロエの記憶の奥に深く沈んで、静かに呼吸をしている。

人はたった数秒の出会いで、こんなにも心がほどけることがあるのだろうか。

その日も変わらず、デュラン女史に「気の抜けた字」と叱られた。

けれどクロエは思わず、ペン先で“炒飯”と書いていた。

消し忘れた文字を見つめながら、苦笑いを浮かべる。

――きっと、もう一度会いたいと思ってしまった時点で、これは“ただのすれ違い”ではなかったのかもしれない。

それは、意外なほどにあっさり訪れた。

クロエの家で催された夜会は、父の政治的交友の延長として準備されたもので、普段よりも格式張らず、しかし洗練された客人が集っていた。華やかさのなかに控えめな気品が漂う夜。

「これで四皿目ですね……」

クロエは小さく息を吐きながら、グラスを傾けた。客の応対に笑顔を浮かべてはいても、内心は疲労気味だった。どの挨拶も、似たような言葉。どの会話も、誰かの“正解”をなぞるもののようで。

そのとき――

廊下の奥、サービス用のドアがわずかに開き、給仕が料理を運び込んでくる。その最後尾で、見慣れた横顔が、ふいに視界をかすめた。

一歩、また一歩。

通りすぎたその人を、クロエは反射的に振り返った。

――あの人だ。

黒い上着。落ち着いた所作。

肩に下げた布包みに添えた手。

そして、ふいにこちらを振り返ったその眼差しは、確かにあの夜のままだった。

一瞬だけ、目が合う。

クロエは何も言えなかった。けれど、息をするのを忘れたことに、あとから気づいた。

彼は、そっと微笑んだ――ほんの僅かに。

そして再び、厨房へと戻っていった。

その香りだけを、静かに残して。

客人たちの談笑がサロンの奥で賑やかに続いていた。

クロエは一人、テラスの奥の回廊に立っていた。ふと通りがかった給仕の列のなかに、目に焼きついて離れなかった横顔を見つけてしまったからだ。

今夜も彼はトレイを手にしていた。見慣れた黒の上着。丁寧に袖をまくり、軽やかな足取りで料理を運んでいく。

迷いと衝動が、同時に胸の奥をつかんだ。

そして気づけば、彼のすぐそばに立っていた。

「……あの」

声に出した瞬間、心臓が大きく跳ねた。

彼は一瞬驚いたように足を止め、トレイをゆっくりと脇のテーブルに置いた。

「なんでしょうか? お嬢様」

彼はしゃがみ込むように膝をつき、目線を合わせるようにして、やわらかく微笑んだ。

それは、あの舞踏会の夜に見た“光”そのものだった。

クロエは一言も返せなかった。

言葉は確かに準備していたはずなのに、彼の声に包まれた瞬間、胸が熱くなって、指先まで血が巡る音が聞こえてくる気がした。

喉がかすかに鳴った。何かを言わなければと思って唇を開きかけたが、うまく声にならない。

彼は困った様子も見せず、むしろただ静かに、待ってくれていた。

そのまなざしが優しすぎて、余計に胸がきゅっと締めつけられた。

――多分、耳も、顔も、真っ赤だった。

クロエはそう確信していた。

「……いえ、ただ……お料理、とても香りがよかったので……」

やっとのことで、それだけを絞り出す。

「そう仰っていただけると、嬉しいです。ローズマリーは、すこし控えめに仕上げました。今夜の白身魚に合うように」

そう言って微笑む彼の声には、ほんの少しだけ誇りが混ざっていた。

クロエは、少しだけうつむいたまま頷いた。

これ以上なにかを言えば、音の震えがすぐにばれてしまいそうで。

「失礼いたします。またすぐに、新しい皿をお運びしますね」

そう言うと彼は立ち上がり、トレイを手に取りながら再び会場へと姿を消していった。

けれど、クロエの心臓の高鳴りは、しばらくその場に留まりつづけていた。

まだ、胸がどきどきしていた。

音楽は遠くで鳴っている。けれど、クロエの頭の中にはもう、それ以外の音は届いていなかった。

彼――あの料理人の青年が、再び給仕のトレイを片づけようとした瞬間だった。

「……ちょっと、来てください」

クロエは自分の声に驚いた。けれど、もう止められなかった。

彼の袖をほんの少しだけつまみ、そのまま人目の少ない廊下をすり抜け、バルコニーの奥へ。

冷たい夜風が頬をなでた。星は瞬き、空は静かだった。

「お嬢様……ここで何を……?」

「……私と、友達になってください」

一拍の静寂。

彼は驚き、そして戸惑い、やがて困ったように眉を下げた。

「それは……いけません。あなたと私は、立場が違いすぎます。私は、厨房の者です」

「知っています。でも、立場じゃない。私は……あなたと、お話がしてみたかった。ただ、それだけなんです」

小さな勇気が、言葉になって風の中を泳いでいく。

「……あの夜から、あなたのことが頭から離れませんでした」

彼は目を伏せ、ゆっくりと肩をすくめた。

「……お嬢様がそう仰るなら。……しばらくのあいだだけ、友人として」

その言葉に、クロエの胸はふわりとほどけた。

ちょうどそのとき、舞踏会の終わりを告げるように、遠くからピアノの音が響いてくる。優しいワルツ。

クロエはそっと、彼の手を取った。

「ねえ、踊りましょう。誰も見ていない。今夜は……特別なんです」

彼はほんの少しだけためらい――そして、静かに手を握り返した。

ふたりは、夜風のバルコニーで、小さなワルツを踊り始めた。

星が瞬く天蓋の下で、誰にも知られず、けれど確かに始まった――音楽と気配だけの、秘密の一歩だった。

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