第一章 窮屈な一日
大理石の床に靴音が響く。花壇に囲まれた噴水のきらめきが、朝日に照らされて宝石のように揺れていた。豪奢なヴェルサイユ風の邸宅。その一角、サロンでは美しいティーセットが並べられている。
「お嬢様、おはようございます」
柔らかいが芯のある声で諭すのは、執事ミルフィーユ。銀の髪を後ろに撫でつけ、完璧に整えられた燕尾服。長年仕える忠実なる老執事だ。
淡い金色の陽が、薄絹のカーテン越しに寝室へ差し込むころ――クロエ嬢はまだまどろみの中。
部屋の扉がきしむことなく静かに開く音。まるで風が触れただけのような気配とともに、ミルフィーユが足音ひとつ立てずに近づく。
「モーニングティーでございます」
銀のトレイには、香り高いアッサムに、温められたミルクと琥珀色の蜂蜜、そしてほんの小さなローズマリーの花が一輪。完璧な朝の儀式。
ベッドの中で薄く目を開けたクロエは、軽く眉を寄せながらも、口元にはかすかな微笑みを浮かべた。
「ありがとう、ミルフィーユ……今日は、少し変な夢を見たの」
「それはまた。どのような夢で?」
「……私が、演奏会でピアノを弾いていたの。でも、あれは夢じゃなかったらいいのにって、目覚めてがっかりしちゃった」
ミルフィーユは少しだけ表情をやわらげ、クロエにティーカップを手渡す。窓の外では、噴水がきらめく音を立てている――美しい“静けさ”が支配する朝。
けれどその静けさに、今日だけはなぜか違う響きが混じっている。
クロエもまだ気づいていない。でも、その朝――物語は、そっと目を覚まし始めていた。
「――ほんとうに、あの夜がなければ、私はただのお人形だったかもしれません」
クロエがそう口にするのは、モーニングティーを受け取る静かな朝のひととき。
ウィーン。芸術と思想の中心地。
1年前、クロエは家族に連れられて訪れたある演奏会で、忘れられない経験をした。
それはモーツァルト――王宮御用達の宮廷作曲家ではなく、独立を志す自由な音楽家の演奏会だった。演目はピアノ協奏曲第12番。奏でられる旋律は、形式美に従いながらも、どこか人間くさく、風通しのいい“光”をまとっていた。
「その日以来、お嬢さまは毎朝ピアノの前に座っておいでですな」
ミルフィーユは優しく言い、ローズヒップのティーカップを差し出す。
「だって、弾きたくなったの。あの“音の自由”を、私の指でも」
クロエはふっと微笑み、手元の五線譜に視線を落とす。今日練習するのは、モーツァルトの《トルコ行進曲》。彼がちょうどこの街で作ったと噂される、自由を奏でる小さな革命のような曲――。
ミルフィーユは穏やかに微笑んだ。
「きっと、お嬢様も…すぐに自由に奏でられるようになりますよ。この間のお茶会で演奏された曲は、とても美しかった。旦那様も奥様も、たいそう感動しておられました」
クロエは少しだけ伏し目がちに、でもその頬に喜びの色が浮かんだ。
ミルフィーユはゆっくりと、白手袋の手を差し出した。その所作はまるで、彼女の意志を無理に引き上げようとはせず、ただ静かに、そこに在るというだけのように。
「……さて、お嬢様。そろそろ朝食のお時間でございます」
その言葉はまるで、さざ波のようにクロエの心に広がった。
クロエはベッドから身を起こし、差し出された手をそっと取る。すっと触れた手袋の感触が、今日の空気の冷たさを忘れさせた。
ミルフィーユはすでにワードローブの前へと歩み寄り、慎重に1枚のドレスを選び出す。
「こちらはいかがでしょう。ピンクのジョーゼット地でございます。軽やかで、お似合いかと」
「……白が良かったわ」クロエが小さくつぶやくと、ミルフィーユは肩をすくめるように微笑む。
「昨日お召しになっておられましたので、ただいまは仕立て中でございます」
わずかに納得のいかぬ顔を浮かべながらも、クロエは黙ってうなずいた。
「旦那様も、奥様も、すでに食堂においでです。ご支度が整いましたら、どうかお早めにお越しくださいませ」
それだけ言い残すと、ミルフィーユは静かに扉を閉めた。重みのある木の扉が、ごく僅かに軋む音さえ、この邸の朝の一部のように思えた。
クロエが支度を終え、静かに階段を降りると、すでに食卓の準備は整っていた。
広く、天井の高いダイニングルーム。白を基調とした壁には繊細なモールディングが施され、窓から差し込む光が、床の大理石をやわらかく照らしている。その光に、一点の曇りも映っていない。
床にはほこり一つ落ちておらず、空気には花と蜜蝋の混ざった香りが淡く漂う。
この完璧な空間は、ただ一人――執事ミルフィーユの手によって維持されている。クロエは改めて、彼の手腕の恐ろしさすら感じるほどだった。
部屋の中心には、脚に彫刻が施された長いテーブル。深い葡萄色のクロスが敷かれ、磨き上げられた銀器が静かに光を返す。
椅子は3脚。
上座にはお父様が既に腰かけており、その右隣には優雅な微笑を浮かべるお母様。
そして、その真正面。クロエのためだけに用意された席が、静かに彼女を待っていた。
「おはようございます。お父様、お母さま」
クロエは椅子に腰かける前にスカートの裾をつまみ、丁寧に会釈した。木椅子がわずかに軋む音とともに、銀器の鳴る音が微かに響く。
「おはよう、クロエ」
父は新聞から視線を外さずに答えた。
「おはよう、クロエ」
母も微笑んではいたが、その微笑みはどこかガラス細工のように均一で、温度を感じさせなかった。
朝食はすでに整っていた。焼きたてのクロワッサンに、新鮮な果物とチーズ。カップに注がれたカモミールの香りが、静けさの中で一層際立っていた。
クロエは言葉を選ぶように、そっと声を出す。
「…今朝、とても不思議な夢を見たのです。ウィーンの広場で、私がピアノを弾いていた夢。通りかかった人たちが立ち止まり、耳を傾けてくださって…」
「へえ、素敵ね」
母がうなずく。ただ、それ以上を求めるのはどこか憚られるような、空気の流れ。
父は新聞を畳みながら、穏やかな調子で尋ねた。
「ところで、勉強はどうだ? ちゃんとやっているのか」
「はい。少しずつですが、身についてきていると思います」
クロエは背筋を正し、丁寧に答える。
「ダンスはどうだ。先週はまだターンが甘いと言われていただろう」
「……教本どおり、繰り返し練習をしております」
父はうなずいた。
「そうか。それならよい。夢の話やピアノも……まあ、やる分には構わん」
一拍置いて続けた。
「だが、きちんと教養と礼儀は身につけるように。お前はいつか立派な婦人になるのだからな。相応の振る舞いを求められる場も増えていくだろう」
その言葉に、クロエは小さく笑って見せることしかできなかった。
「はい……承知しておりますわ」
どこか胸の奥がきゅっと詰まるのを感じる。言葉は交わしているのに、心の距離がある。
夢を見たというだけなのに、それを分かち合うことが、まるで贅沢なことのように思える瞬間だった。
ふと、窓の外に視線を向ける。白い鳩が一羽、噴水の縁で羽を休めていた。
その翼の自由さが、ほんの一瞬だけ、クロエの胸をかすかに熱くさせた。
朝食の余韻が残るダイニングを後にし、クロエは書斎へと向かっていた。
広々とした廊下にかかる絵画の数々。鏡のように磨かれた床を、きゅっ、きゅっ、と靴音が律義に反射する。
部屋の前で立ち止まり、深く息を吸う。――深呼吸をしないと、扉の向こうにいる“あの人”と対峙できないからだ。
「ごきげんよう、マドモワゼル・クロエ」
その声は、ドアを開けた途端、冷えた空気と一緒に滑りこんできた。
家庭教師、デュラン女史。いつも黒に近い深緑のドレスを着て、金縁の眼鏡越しに相手を値踏みするような視線を送る女性だ。齢は五十を超えているが、その口調は容赦ない剣のように鋭い。
「遅刻ではありませんが――ぎりぎりですね。もう少し優雅に歩くことを覚えましょう。レディたるもの、時の流れに追われてはいけませんよ」
「……ごめんなさい、デュラン先生」
クロエは背筋を伸ばしながら、机の前に座る。
目の前には分厚い古典ラテン語の教本と、詩の暗唱テキスト、そして手書きでびっしりと書き込まれた練習問題。今日の課題は、「ホラティウスの詩を暗唱しながら、語源を説明し、訳文の芸術性について論述せよ」だった。
「では、始めましょう。先週と同じ部分を――さぁ」
クロエは教本を開き、震える声で朗読を始めた。
けれど発音のアクセントがほんの少しずれただけで、その刃が振り下ろされる。
「はぁ……先週も、申し上げましたよね? “virtus” の “u” は下から響かせるように、と。どうして同じところで間違えるのかしら。まったく――」
口をつぐんだクロエの前で、女史の唇がゆっくりと吊り上がった。
「あなた、本当に恵まれているのに。暖かい家、高い天井、美しい庭園、優秀な執事、完璧なご両親、そして……この私という指導者までいるのに、なぜこうも学びが浅いのかしら?」
「……努力は、しているのですが……」
「努力? ああ、それは尊い響きですね。でも結果が伴わなければ、それはただの自己満足。いい家に生まれたからといって、知性が勝手に身につくわけではありません。あなたは“その程度”のお嬢様で終わるつもりですの?」
喉の奥に言葉が詰まる。口惜しい。けれど、反論する勇気もない。
目の端に、光がちらついた。窓の外、庭の噴水がきらめいていた。自分が本当に学びたいことは、ここじゃない、とその静かな波紋が言っているようだった。
「続けなさい。止まっていいとは、一言も言っておりません」
鉛のような重さの沈黙のなか、クロエは再び教本を持ち直した。
詩のことばが、心に届かない。けれど口だけは、淡々とその音を真似て、読み続けた。
「はぁ……まだまだですね。明日までに、ここからここまでの発音練習と課題を行ってください。名門家なら、これくらいできますよね?」
その言葉は、冷えた石のように机の上に落ちた。
クロエは視線を下げたまま、小さくうなずいた。
「……はい」
デュラン女史の眼鏡がきらりと光った。
「“はい”、だけじゃ足りません。身につけるのは発音だけじゃなくて、気品と責任です。あなたの振る舞いは、家そのものを映す鏡なんですからね」
書斎の空気は、まるで冷たい水の中にいるようだった。
クロエの喉の奥で言葉が揺れたが、声にはならなかった。
女史は教本を閉じると、音ひとつ立てずに立ち上がった。
「昼食の時間ですね。少し休憩なさってください。午後には詩の写本と、作文の添削をいたしますので」
「……ありがとうございます」
「ええ。感謝の気持ちがあれば、態度に表れるはずですが」
最後の皮肉な微笑を背に残し、女史は書斎を出て行った。
クロエの肩から、緊張の糸がわずかにほどけた。
けれど、それはほんの束の間の安らぎにすぎなかった。
昼のベルが鳴り、クロエはダイニングへと向かう。
父は今朝方、公爵との昼食へ招かれていた。だから今日の昼食は、母と二人きり。
広々としたダイニングルームには、すでに昼の光がやわらかく差し込んでいた。
白を基調とした部屋の隅々まで、まるで息を潜めたような静けさが漂っている。
テーブルの上には、香ばしくローストされたビーフのサラダ、よく煮込まれたビーフシチュー、そして温かなバゲットが用意されていた。
――どれも、美味しかった。けれど。
クロエは思った。この料理の温かさが、母の言葉の温度まで溶かしてくれたら、と。
「いただきます」
小さくそう言うと、母はひとつ頷いただけだった。
二人で取る昼食は、いつもより音がよく響いた。
ナイフが皿に触れる音、バゲットをちぎる音、それらがかえって沈黙の重さを強調する。
食事が半ばを過ぎたころ、母がようやく口を開いた。
「……今日、家庭教師のデュラン先生からお話がありましたのよ」
クロエの手が、ほんのわずかに止まった。
パンをちぎる指先がぎこちなくなる。
「あなた、ぜんぜん勉強ができてないらしいじゃないの」
その声に怒鳴り声のような強さはなかった。
けれど、それが逆に冷たい氷の針のように刺さった。
「この名門家の看板に泥を塗るつもりなのかしら?」
言葉が、出なかった。何か言いたかった。でも、息の通り道が狭くなるばかりだった。
「ピアノが、とか。夢が、とか。それ以前の問題です」
母のフォークが皿に静かに置かれた。
「そんな浮ついた話をする前に――もっと真剣に取り組みなさい。勉強、礼儀、振る舞い……あなたは、いずれ立派な婦人になるのだから」
その言葉は、何度目だろう。
繰り返される同じ旋律。旋律というには、あまりに鋭利な和音。
クロエは小さく、かすかにうなずいた。
「……はい」
目の前のローストビーフは、もう冷めていた。
フォークを動かす気力さえ、今は残っていなかった。
母は静かにティーカップを持ち上げて言った。
「あなたがこの家の名に恥じぬ娘になることを――それだけが、私の願いです」
その言葉が、本当の愛情だったとしても。
それを“命令”としてしか受け取れないほどに、クロエの心は疲れていた。
ふと、窓の外に目をやると、庭の端にミルフィーユが見えた。
いつものように手袋を整え、庭師に小さく指示を送っている。
クロエはその姿を、少しのあいだ見つめていた。
誰よりも近くにいながら、誰よりも「私」を見ようとしてくれる人。
けれど彼ですら、この部屋の空気には、立ち入れないのだ。
心の中に、ピアノの音がひとつだけ響いた。
誰にも聴かれていない、音にならない、でも確かに鳴っている音。
そしてクロエは思った。
――こんな日々が続くのなら、私は私の音を、ここではないどこかで、探しに行かなくてはならない。
昼の鐘が、小さく遠くで鳴った。
午後の陽が、サロンのガラス窓から斜めに差し込んでいた。
大理石の床がほのかに温まり、白いカーテンが静かに揺れている。まるでレースのドレスが舞うように。
クロエは緊張気味に立っていた。
午後はダンスのレッスン――エリーゼ夫人との約束の時刻だ。
淡いブルーグレーのレッスン用ドレスに着替え、クロエは姿見の前でひとつ深呼吸をした。
鏡に映る自分は、歳相応には見えなかった。顔つきも、姿勢も、誰かが期待する“貴族の令嬢”の形に収まっていた。けれどその実、胸の奥では「跳ねたい」「回りたい」「音に溶けたい」という衝動が、無言のまま揺れ続けていた。
やがて、扉が二度ノックされ、エリーゼ夫人が静かに入ってきた。
ダークグリーンのドレスにまとめ髪、優雅な装い。だが彼女の視線は鋭く、言葉は容赦がないことで有名だった。
「ごきげんよう、マドモワゼル・クロエ」
「ごきげんよう、エリーゼ夫人」
レッスンは、すぐ始まった。
ピアノ伴奏の代わりに、エリーゼ夫人がリズムをとりながら手を鳴らす。
ワルツの三拍子が部屋に響く。優雅に、しかし寸分の狂いもなく。
「ステップはこう。踵の角度を30度、首を引いて――視線は高く。そう、“誇り高く美しく”。それがすべての基本です」
クロエは言われたとおりに動こうとする。けれど踊りの途中、僅かにバランスを崩してしまった。
ピタリと手拍子が止まり、静けさが落ちた。
夫人は一歩、クロエに近づく。
「――そこ。昨日も同じ箇所で動きが鈍かった。どうしておわかりにならないの?」
クロエは黙ったまま俯いた。
「あなたの足元を見ていたら、こちらの背筋まで折れそうになります」
声は冷たいが、叱責の奥に、何か揺らぎがあった。
エリーゼ夫人はふっとため息をつき、小さく声を落とす。
「……あなた、踊りが“苦手”なのではなく、“意識しすぎている”だけです。音にあわせて遊ぶ心を――少しは持ちなさい」
その言葉に、クロエは思わず顔を上げた。
「“遊ぶ心”……ですか?」
夫人は目を細め、口元にわずかな笑みをにじませる。
「ええ。昔の私なら、もっと厳しく叱っていたかもしれません。でもね――今のあなたを見ていると、ただの“できない子”には見えないのよ」
クロエの心に、その言葉が小さく染みていく。
誰かが本当に自分を「見てくれている」と思えたのは、どれほどぶりだろう。
「あなた、たぶん……誰かに習うより先に、ただ自由に音楽に身を任せたことがあるのね。ステップより先に、“感じてしまった”のよ」
夫人はそう言って、少しだけ踊って見せた。
ゆるやかに、でも確かに音のない音楽に乗せてターンする姿は、美しかった。何より“自由”だった。
「今日はここまでにしましょう」
突然の終了にクロエは驚いたが、夫人はやわらかに手を上げる。
「過ぎたしごきは花をしおらせるもの。マドモワゼルは、まだ咲きかけの蕾ですものね」
レッスン帳を閉じながら、夫人は言った。
「私が子どもの頃、ほんの一度だけ、庭でドレスの裾を汚すまで踊ったことがありました。その日のことは今でも、よく覚えています」
クロエは思わず尋ねた。
「それは……お叱りを受けたのですか?」
夫人は笑った。
「もちろん。でも、私は泣きながら“楽しかった”って言ったのよ。そうしたら、父がこう言った。“ならば二度とその日を忘れるな”って」
エリーゼ夫人は、ドアへ向かう直前にふと振り返る。
「音楽は、誰にも奪えないものよ。貴族であろうと庶民であろうと。それを忘れないで」
その声はあくまで冷静だったが、クロエには確かに“優しさ”が残響のように伝わった。
一人になったサロンの中で、クロエは足をすっと動かしてみる。
ピアノの旋律がなくても、ステップの型が決まっていなくても――音は心の中に流れていた。
夕暮れが広間の窓をオレンジ色に染めはじめたころ、クロエはため息混じりにドアの前に立っていた。
朝のティータイム、デュラン女史の皮肉、母の厳しい言葉、エリーゼ夫人の手拍子。
一つひとつがまだ頭に残っていて、まるで一日じゅう楽譜の譜読みを繰り返していたような疲れがあった。
「失礼いたします」
軽く扉を押すと、すでに夕食のテーブルが整っていた。蝋燭のゆらぎが銀の燭台に揺れ、テーブルクロスがやわらかく光を受けている。
「お嬢様、おかけくださいませ。本日は――いつもと少し趣向を変えてみました」
ミルフィーユが、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべながら言った。
その声に合わせるように、白手袋の手が目の前に銀の蓋をすっと持ち上げる。
立ちのぼる湯気と、ふわりと広がる香ばしい香り。
クロエは思わず身を乗り出した。
「……あら?」
皿の上には、見慣れない茶色いご飯――ところどころ焦げ目がついていて、小さく刻まれた葱がきらりと光っている。
「こちら、“炒飯”というお料理でございます。中華の街で習ってまいりました」
「チャーハン……?」
初めて聞く響きに、クロエは小首を傾げる。
「ええ。こげたねぎの香りが特徴です。見た目は地味かもしれませんが、ひと口召し上がればきっと……」
ミルフィーユが言いかけたところで、父が咳払いをした。
「ミルフィーユ。これは……西洋風のライスグラタン、いや……リゾットとも違うのか?」
「はい。米粒の一粒ずつを生かす料理でして、こう見えて鍋振りの技術が大事なのです。私はとても苦労いたしました」
「ふむ。珍しいが、香りは悪くないな」
そう言った父が、ひと口試した。
その瞬間、眉が動く。
「……おいしい」
母も静かにスプーンを取る。美しい所作のまま、口元に運び――目を見開いた。
「これは……とても香ばしいですわね。ご飯が、香りを持っているのね」
クロエも、興味津々でスプーンを口に運んだ。
カリッとした焼き目、じんわりと広がるごま油の香り、噛みしめるとほのかに甘味のある醤油の余韻。
「……!」
驚いた顔のまま、もうひと口。そして、もうひと口。
止まらない。それはまるで、音楽で言えば三拍子のような心地よさ。重すぎず、軽すぎず、どこか懐かしい風味が広がっていた。
「お嬢様、今朝からずいぶんお疲れのように見受けられましたので、今日はほんの少し、お皿の中にも“息抜き”をお届けしてみました」
ミルフィーユのその言葉は、いつもよりわずかに柔らかかった。
「……ありがとう、ミルフィーユ。すごく……嬉しい」
「これは?」父が横の皿を指した。「このスープのようなものは?」
「中華風スープでございます。鶏のスープに卵を流し、胡椒で香りを立てております。“たまごスープ”とも呼ばれているようです」
「不思議な料理名ばかりね。でも、どれもあたたかくて、少し楽しい気分になるわ」
母の頬には、ほんのり笑みが浮かんでいた。いつもの冷たい仮面が、少しだけ緩んでいた。
クロエはその様子を見て、心の底でそっとほほ笑んだ。
格式や規律に包まれた家族が、たった一皿の異国の料理でこうも和やかになるなんて――音楽のように、不思議でやさしい奇跡。
窓の外に、風がそっと吹いた。
噴水の水音と、遠くで誰かが馬車を走らせる音が混じり合う。
クロエは、炒飯をもうひと口頬張りながら、思う。
「自由」って、こんなふうにほんの少し、味や香りや言葉の端に紛れて、心に届くのかもしれない――と。
夜の空気はしんと静まり返り、昼間の喧騒がまるで幻だったかのようだった。
クロエの部屋の窓辺には、白いカーテンがふわりと揺れている。開け放たれた窓の向こうに、遠くの木々のざわめきと、小さな星たちの瞬きが見えた。月は半分ほどの姿を見せていて、まるで誰かの横顔のようだった。
クロエは寝台の縁に腰掛け、ナイティの袖口をそっと引き寄せる。レースのついた薄いガウンの裾が床を滑るように落ち、蝋燭の火がその布にやわらかな金色を添えていた。
「……ねぇ、ミルフィーユ」
その声は、ひとつ息を吐いたあとの囁きのようだった。
「私って、ダメな子なのかな」
鏡の前で彼女の髪をゆっくりと梳いていたミルフィーユの手が、わずかに止まる。
部屋の奥からのぼる静けさに、少しだけ風の音が混じる。
その静けさは、まるで言葉の重さを確かめているようでもあった。
やがて、彼は静かに髪を梳く手を再び動かしながら、語り始めた。
「――とんでもない。お嬢様は、とても素晴らしいお方です」
「……そう思ってくれてるのは、ミルフィーユだけだよ」
クロエは少しだけ首を横に振った。
「みんな私に、“ちゃんとしなさい”“もっとできるようになりなさい”って言うの。できてないから……ダメなんでしょ?」
ミルフィーユは梳く手を止め、そっと手鏡を置いた。
「いいえ、違います。お嬢様は、“正しさ”ではなく、“優しさ”の中に立っている方です」
「……優しさ?」
「そうです」
ミルフィーユはクロエの前に立ち、いつもよりほんの少しだけ近く、ひざを折って彼女と目の高さを合わせた。
「お嬢様は、美しいものを美しいと感じる心をお持ちです。そして、他の人のことを想い、傷ついたときにその痛みを言葉にせずに、そっと飲み込むこともできる方です。それがどれほど特別なことか、わかりますか?」
クロエの目が、わずかに潤んで揺れた。
「……それって、すごいこと?」
「ええ。この世で一番、すごいことです」
その言葉は、彼女の心にゆっくりと染みていった。心のどこかで折れそうだった場所に、優しく布を当てるように。
「……今は、大変かもしれません。誰かの声に応えなければならないことばかりで、“自分の声”を聞く暇さえないことでしょう」
ミルフィーユの目が、じっとクロエを見つめている。
まるで、それだけで彼女を支えようとするように。
「ですが、私は信じております。お嬢様はきっと、これから素晴らしい人におなりあそばすことでしょう。外見ではなく、頭の良し悪しでもなく、そのお心のままに、気高く、やさしい方へと」
そして、ミルフィーユはゆっくり立ち上がり、真っすぐ背筋を伸ばして言った。
「――このミルフィーユが、保証いたします」
蝋燭の炎が、クロエの横顔に影を落とした。
その瞳の奥に、何か透明なものがかすかに震えている。
彼女は唇を噛んだまま、小さくうなずいた。
そして、少しだけ照れたように、呟く。
「……ありがとう、ミルフィーユ。私、明日もう少し頑張ってみる」
「はい。お嬢様の“明日”は、今日より、きっと美しいものでございます」
いつものように一礼したミルフィーユが扉へと向かおうとしたその背に、クロエはそっと声を投げかけた。
「……ねぇ、ミルフィーユ」
「はい」
「たまには、またあの“炒飯”みたいな夜があっても……いいかしら?」
ミルフィーユは振り返り、目元をゆるめて静かに頷いた。
「お嬢様が望まれるのなら、どんな夜でも、必ず用意させていただきます」
扉がゆっくり閉まり、部屋にひとりになったクロエは、ベッドに滑り込んだ。
窓の外には、月が彼女をそっと見守るように浮かんでいる。
そして、クロエの心の中にも、ミルフィーユの言葉がゆっくりと灯をともした。
それは誰かに手を引かれるのではなく、自分で光を見つけようとする最初の夜。
柔らかな夜の音に包まれて――彼女は、そっと目を閉じた。




