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炒飯のように  作者: 真冬
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第三章 殻を破るとき

私は――なんてことをしてしまったのだろう。

翌朝、陽が差し込む寝室の窓辺に立ち尽くしながら、クロエは頬を熱く染めていた。まるで自分の顔から火が出るような気がして、何度も冷たい水で頬を叩いた。

昨夜のこと。

料理人の青年を、人目を盗んでバルコニーに連れ出し、ダンスまで踊った自分。

そんな破廉恥な真似――かつてのクロエなら、思いつきすらしなかった。けれど今、その記憶をどう消そうとしても、心はどこかで“あの瞬間だけは、本当の自分だった”と囁いていた。

ミルフィーユが食堂への声をかけてくる。クロエは緊張を隠しながら、スカートの裾を整え、食卓へ向かった。

白亜の食堂。銀器の音だけが微かに響いている。

「おはようございます、お父様。お母様」

父は新聞をたたみ、母は紅茶を口に含んだまま、軽くうなずいた。

沈黙が少し続いて――クロエは意を決して口を開いた。

「……昨夜のパーティーで、私、給仕の方と……少しだけ、お話をしてしまいました。……その方と、あの、バルコニーで……ほんの短くですけれど、踊りましたの」

母がそっとティーカップをソーサーに置いた。音はしなかった。

父の手が止まり、目だけが鋭くクロエを射た。

「……何を言った、今」

その言葉には感情が宿っていなかった。それが恐ろしかった。

クロエは椅子の背もたれを強く握りしめていた。

声が震える。

「ダンスを……ほんの一瞬です。でも、彼はとても誠実で、何も――」

ガシャン――!

重いガラスの音が砕けた。

父の手から飛んだグラスがテーブルの端を越え、壁に当たって粉々になった。

「そんなこと、認められるわけがないだろう!」

怒声が、部屋の壁にまで跳ね返る。

「お前は誰だ?どこの娘だ?貴族の家に生まれながら、そんな身分の男に心を寄せるとは――!」

クロエの唇が凍りついた。

何かを言わなければと思っても、父の声がすべてを打ち消していく。

「その男を、連れてこい。今すぐにだ!」

父は椅子を蹴るようにして立ち上がった。

母はただ静かに座っていた。何も言わなかった。ただ、その両手は硬く組まれ、食卓に指の白さが浮かんでいた。

クロエは立ち上がり、父の後を追った。

邸内を貫くように駆け下りた先、厨房へと続く裏通路。そこには、声がしていた。

「……申し訳ありません、本当に……そのようなつもりでは……」

それは――彼の声だった。

「貴様の“つもり”など聞いていない!!」

乾いた音が響いた。鈍い衝撃。誰かを叩いた手の音だと、クロエはすぐにわかった。

駆け寄ろうとした足が止まった。恐怖だった。自分がそれを見てしまったと認めるのが。

「……お嬢様と同じ空気を吸うことすら、おこがましいと思わんのか!料理人が!ダンスだと?戯れ言を……!!」

料理人の青年は、崩れ落ちそうな膝をなんとか支えながら、静かに泣いていた。声を上げない涙。彼の手は、胸元でぐしゃりと布を握っていた。

クロエは声を出せなかった。

何かを止めたかった。守りたかった。けれど――動けなかった。

そのとき父は、背を向けた。

「お前は今日をもって、料理人じゃなくなった。今すぐ、この屋敷を出て行け。……二度と、この家の敷居をまたぐな」

そして、誰の目も見ずに、その場を立ち去っていった。

厨房に残ったのは、割れた器の破片と、青年のすすり泣き、そして――クロエの沈黙だけだった。

それからの毎日が、ぼやけた色のまま過ぎていった。

まるで世界に色がなくなってしまったかのように――クロエには、何も見えなかった。

朝が来ても、窓の外に広がる景色はただの風景にすぎなかった。あれほど好きだった噴水の水音も、庭に咲く花々も、胸に何のきらめきも起こさなかった。食堂のテーブルに並ぶ料理も、銀食器の光も、今はただ、意味を持たない物体でしかなかった。

勉強机に向かっても、文字が頭に入ってこない。

詩の美しさも、数式の構造も、意味をなさなくなった。

ダンスレッスンの時間になれば身体を動かそうとはするものの、ステップは宙に浮いたまま意味を失っていた。足が重く、音が遠い。鏡の中の自分は、まるで見知らぬ令嬢のように感じられた。

「……もう、どうでもいいのに」

クロエは何度も小さくつぶやいた。

けれどその声さえ、自分のものに聞こえなかった。心に残っていたのは――あの夜、彼が頬を濡らしていた姿。

自分がそれを、止められなかったという痛み。

目を背けてしまったという後悔。

“好き”とはまだ言えなかった。けれど、あの人のまなざしだけは確かに、自分をまっすぐ見てくれていた。貴族としてではなく、“クロエ”というひとりの人間として。

それを失ってしまったことが、何よりも悔しかった。

いや、失ったのは――彼だけではなかった。

“自分”という存在も、あのときから少しずつ、壊れてしまったように感じていた。

ミルフィーユは変わらずそばにいた。朝にはモーニングティーを運び、夜には毛布を整えてくれる。けれど、彼のやさしいまなざしにさえクロエは目を合わせることができなかった。

「きっと……失望させたわね」

誰にも聞かれることのない声でつぶやく。

ドレッサーの鏡は今日も冷たく、無表情に彼女を映している。

ある朝、家庭教師のデュラン女史が吐き捨てるように言った。

「あなた、今日の課題を半分もこなしておいででない。それとも、何か理由でも?」

クロエは首を横に振っただけだった。

「……本当に、甘やかされて育ったのね。いい家に生まれたのが、あなたにとっては災いだったようですわ」

その言葉にも、なぜか怒る気になれなかった。

“もう何も届かない”――そんな感覚があった。

自分の人生が「決められているもの」であったこと。

何もかも、誰かの期待通りに形作られ、「令嬢」としての価値だけで存在していたこと。

それがどれほど息苦しいものであったかを、今さらながら骨の髄まで思い知らされていた。

「あの夜だけが……私だった」

クロエは目を閉じた。

バルコニーの風、彼の手、遠くのピアノの音。それはまるで夢のようだった。でも、確かに存在していた記憶。

それが“消された”のだ。父の怒声と、グラスが割れる音とともに。

それでも、心の底にあるほんのひとかけら――

彼の最後の笑顔。泣いていたはずなのに、去り際の彼の背中には、どこかあたたかいものがあった。それだけが、クロエの命綱だった。

クロエはその朝、ゆっくりとクローゼットの扉を閉めた。

ドレスのレース、使い古されたピアノの楽譜、庭の噴水――この家に満ちているすべてが、今日だけは、なぜだか“遠く”に感じられた。

この家は、もう私の心の居場所じゃない――そう思った。

「こんな家は、嫌……」

心の底からそう呟いたとき、自分の声に驚いた。あまりに静かで、でも確かだった。

お父様の怒声、割れたグラス、泣くあの人の姿。そして、それを何もできずに見ているしかなかった自分。

もう、誰かの「理想の娘」でいるのはやめようと思った。

誰にも言わずに部屋を出た。

窓から差し込む朝の光が、まるで新しい一日の幕開けを告げているようだった。

「もっと自由に、生きてみたい」

胸の奥に小さく灯ったその願いが、風にあおられて燃え始める。

「もっとたくさんの人に会いたい。たくさんの町を見て、たくさんの音にふれて――そして、自由に……人を好きになりたい」

それは、わがままなんかじゃなかった。

ようやく、自分の声に耳を澄ませた、たったひとつの“本音”だった。

クロエは深く息を吸い込んだ。部屋の空気は変わらないのに、胸の内だけが風を孕んでいた。

「このままじゃ終われない」

そうして、彼女はドアノブに手をかける。

もう誰の許しも待たない。あとは――一歩、踏み出すだけ。

クロエは夜明け前に目を覚ました。

部屋はまだ蒼く、静かだった。隣室の時計の音が遠くでかすかに鳴っている。

クローゼットの奥から、歩きやすい靴と上着を取り出した。貴族らしいものではなかった。けれど、それを選ぶこと自体が、彼女にとってはひとつの革命だった。

扉をそっと開ける。廊下は静まり返っていた。執事も使用人も眠っている――そう信じた。

けれど、階段を下りた先、玄関ホールに入ったそのときだった。

「――お嬢様」

その声にクロエの足が止まる。そこには、ミルフィーユがいた。

蝋燭の灯りも持たず、ただ黒の燕尾服のままで、いつもと同じ姿勢で立っていた。

「……どうしてここに?」

「まさかお嬢様が、この時間に靴を履いて扉に手をかけているなどと……信じたくなかったのです」

クロエは息を呑んだ。

「お願い、通して……私、出て行くの。どうしても今じゃなきゃいけないの」

「お嬢様、それは……」

ミルフィーユが一歩近づく。クロエは本能的に身をひるがえして、扉の取っ手に手をかけた。

しかし――鍵が、閉まっていた。

重く、古い金属音だけが、廊下に虚しく響いた。

そのすきに、ミルフィーユの手がクロエの腕をやさしく、だが確かに掴んだ。

「――離して!」

「……」

「もう嫌なのよ……!この家も、窮屈な日々も、全部……!」

クロエの声が割れた。

「もっと自由に生きてみたいの。いろんな人と会いたい。好きな人を、好きになれる世界が見たいの……!」

ミルフィーユは何も言わなかった。ただ、静かに、クロエの手をそっと包み込むようにして引き寄せた。

「……やめてよ……お願い……!」

抵抗もむなしく、クロエはそのまま屋敷の奥――客間へと引き戻されていく。

階段の影から、召使が気まずそうに視線を逸らしていた。

そして扉が開かれた先には、父と母が揃って待っていた。

深い椅子に腰掛けた父は、顔に怒りも微笑みも浮かべていなかった。

「……いいだろう、話を聞こうじゃないか」

クロエの震えは止まらなかった。

けれどこのとき、確かに彼女の中に「声を出した自分」が残った。

「……もう、出て行こうと思ってるの」

クロエがそう言ったのは、朝食が終わったあとの食堂だった。窓から差し込む陽の光が、テーブルクロスの白をやわらかく照らしている。

父は銀のカップを持ったまま、ふと手を止めた。

母は椅子に腰かけたまま、じっと彼女の言葉を受け止めている。

「この家で過ごした年月は……たしかに、守られていた時間だったわ。でも、今の私には、窮屈すぎるの」

言葉を選びながら、けれどクロエの声は揺らがなかった。

「もっと外の世界を見てみたいの。たくさんの人に会って、たくさんの場所を歩いて、いろんな音や色を知りたい。そして……自分の心で、誰かを好きになって、生きていきたいの」

数秒の沈黙が落ちた。蝋燭の炎が、揺れていないのに揺れたように見えた。

父がふうと短く息を吐いた。

眉間の皺を、指先でそっとなぞってから、ふと微笑む。

「……そうか」

思いがけないほど、静かな声だった。

「分かったよ、クロエ。ただ、黙って出ていくのだけはやめてほしい。君がどこで何をしているか分からなければ……生きているのかどうかも、分からなくなってしまう」

その言葉は、娘を“閉じ込めたい”からではなかった。ただ、愛する我が子の「その後を想う」からこその願い。

「父の知り合いに、放浪の団体を支援している男がいてね。若者に仕事を教えたり、各地を巡ったりする旅の商隊だ。……そこに顔を出してみるといい。彼は信頼できる」

「……あなた、本当にそれで良いの?」と、母が初めて口を開いた。

けれどその声は、怒りでも困惑でもなかった。

「クロエ、あなたが何かを“求めている”と気づいてから……いつかこんな日が来るのではと、ずっと思っていたわ。あの夜――料理人の青年と踊ったときから、あなたの目が変わったもの。……強くなった」

クロエは、一瞬、胸が詰まった。

怒られると思っていた。

止められると思っていた。

でも今、自分は“選んでいい”と言われている。

「ありがとう……ございます」

言葉が震える。けれど、その震えは悲しみではなく、これまで言葉にできなかった感情の重なりだった。

その日から、支度は静かに進められた。

ミルフィーユは何も言わなかった。ただ、旅路に適した鞄を用意し、クロエの好みに合うようなスカーフをひとつ、そっと忍ばせていた。

父は最後に懐中時計を差し出した。

「持っていけ。時間を知るためじゃない。君が道に迷ったとき、“帰る場所がある”と知っていてほしいからだ」

クロエはその言葉を胸に刻んだ。

今思えば、あの朝、両親はもう分かっていたのかもしれない。

彼女がこの家を出ていくこと。

そして、自分の足で立つ日が、すぐそこに来ていたことを。

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