●第2章:修業時代(1670-1675 / 1700-1708)
【バッハの視点】
1700年、15歳の私はリューネブルクの聖ミカエル教会で聖歌隊員として新しい生活を始めていた。声変わりを経験し、ソプラノとしての役目を終えた私は、オルガンの演奏に活路を見出していった。
「セバスティアン、お前には特別な才能がある。だが、才能だけでは不十分だ」
聖ミカエル教会の音楽監督、アウグスト・ブラウンの言葉は、私の心に深く刻まれた。彼は厳格な教師だったが、その指導は的確で、私の音楽性を大きく育ててくれた。
教会の図書館には、豊富な楽譜が所蔵されていた。フレスコバルディ、シャイト、そしてコレッリ。特にコレッリのトリオ・ソナタは、私に大きな影響を与えた。
「なんという完璧な均衡……」
彼の音楽には、私が求めていた理想があった。旋律と和声の完璧な調和、そして深い信仰心に裏打ちされた表現力。私は夜を徹して楽譜を写し、その構造を学んだ。
【コレッリの視点】
パリでの成功から3年が経った1675年、22歳の私はローマに移住することを決意した。サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会でヴァイオリン奏者として採用されたのだ。
ローマは、まさに音楽の都だった。教会や貴族の邸宅では、常に音楽が演奏され、新しい才能が競い合っていた。しかし、それは同時に激しい競争の場でもあった。
「コレッリ殿、あなたの演奏には情熱が足りないのではないでしょうか?」
「いや、逆に技巧を誇示しすぎているように思います」
相反する批評に、私は深く悩んだ。しかし、その過程で私は自分自身の音楽語法を確立していった。
「音楽は、魂の言葉でなければならない」
これが、私の到達した結論だった。技巧は手段であって目的ではない。真に重要なのは、聴く者の心に直接語りかける力なのだ。
【バッハの視点】
18歳になった1703年、私はアルンシュタットの新教会オルガニストとして初めての職を得た。しかし、この小さな町での生活は、決して平坦なものではなかった。
「バッハ殿、あなたの演奏はあまりにも複雑すぎる。会衆は混乱するばかりです」
教会評議会からの叱責は、しばしば私を悩ませた。彼らが求めるのは、単純で分かりやすい伴奏。しかし、私の内なる声は、より深い音楽表現を求めていた。
その頃、私は一つの決意を固めていた。北ドイツの大家、ディートリヒ・ブクステフーデを訪ねることを。リューベックまでの道のりは400キロ。冬の寒さの中、私は徒歩での長い旅に出た。
「よく来たな、若きバッハよ」
ブクステフーデの温かい歓迎の言葉は、今でも鮮明に覚えている。彼の即興演奏を目の当たりにした時の衝撃は、私の音楽観を大きく変えることになった。
【コレッリの視点】
ローマでの生活も5年目を迎えた頃、私は新たな挑戦に直面していた。カプラニカ劇場でのオーケストラ指揮の依頼を受けたのだ。
「コレッリ殿、あなたのような才能ある音楽家に、是非とも指揮をお願いしたい」
劇場支配人の言葉には、期待と不安が混在していた。ヴァイオリニストとしての名声は確立していたものの、指揮者としては未知の領域。しかし、この機会は私に新たな視野を開いてくれた。
「個々の楽器の声を聴き、それらを一つの調和へと導く……」
オーケストラの指揮は、私に音楽の新たな可能性を示してくれた。それは後の作曲活動にも大きな影響を与えることになる。
【バッハの視点】
ブクステフーデとの出会いから戻った私は、新たな創作意欲に満ちていた。しかし、アルンシュタットの教会当局との関係は、ますます険悪になっていった。
「4週間の許可を得て、4ヶ月も不在とは何事か!」
評議会の怒りは当然だった。しかし、私にはもはや後戻りはできなかった。ブクステフーデから学んだ新しい音楽表現を、自分のものとして昇華させなければならない。
その頃、私は人生の転機となる出会いを経験する。いとこのマリア・バルバラとの出会いだ。
「ヨハン、あなたの音楽には魂が宿っている」
彼女は、私の音楽を心から理解してくれた最初の人だった。彼女との結婚を決意したのは、自然な成り行きだった。
【コレッリの視点】
1681年、バイエルン選帝侯の招きを受け、私は新たな挑戦の場を得た。そして、この年、私は記念すべき作品1「トリオ・ソナタ集」を出版する。
「これこそが、私の求めていた音楽の形だ」
独奏ヴァイオリンと通奏低音による透明な織地。それは、私が長年追求してきた理想の結晶だった。しかし、世間の評価は、必ずしも好意的なものばかりではなかった。
「古めかしい……」
「時代遅れだ」
新しい様式を求める声も少なくなかった。しかし、私には確信があった。真の音楽は、時代を超えて人の心に訴えかけるものでなければならない。




