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君と風の行方  作者: 月見饅頭
第七章

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79 やがて風になるもの


 三日が経った。


 体の痛みはゆっくりと引いていた。頬の腫れはほぼ消えて、肋骨のあたりだけが、動くたびにまだ鈍く訴えてくる感じがあった。それ以外は普通に過ごしていた。普通に、というのが少し不思議な感じがした。あれだけのことがあったのに、朝は来るし、飯は食えるし、日は暮れる。世界はそういうふうにできているのだと、改めて思った。


 白松さんにメッセージを送ったのは、昼過ぎだった。


『少し話せる? 近所の公園で』

 すぐに既読がついて、『行く』と返ってきた。


 公園には人がまばらだった。ベンチに並んで座った。風が来るたびに、地面の花びらがまた少し動いた。散っているのに、まだ動いている。なんとなく、それを見ていた。


「竹中のこと、正式に動いたって」


 話し始めると、白松さんが静かに聞いていた。


「傷害と監禁で、逮捕されたって警察から連絡があった」


「そう」


 短く言って、膝の上で手をきつく組んだ。


「よかった、って思っていい?」

「思っていいと思う」


 白松さんが小さく息を吐いた。よかった、ともう一度、今度は声に出さずに口だけ動かした。


 しばらく黙っていた。風が来るたびに、白松さんの黒髪が横に流れた。いつもより少し乱れていたが、白松さんはそれを直さなかった。


「ねえ、桜井くん」


 少しして、白松さんが言った。


「廃工場で、私が入っていったとき」

「うん」

「自分でも、なんで動けたのか分からなかった」


 視線が、遠くの桜の木に向いていた。


「怖かった。本当に怖かった。竹中くんの顔を見た瞬間、足が止まりそうになった。でも、止まらなかった」


「ああ」


「小学校のとき、日記を読まれて、クラスに見せられて……あのころの私は、ただ泣くことしかできなかった。誰かに助けてって言うこともできなかった。ずっとそのままだと思ってた」


 声は揺れなかった。揺れないぶん、言葉の重さがそのまま伝わってきた。


「でも、あの場所で竹中くんを見て、逃げなかった。それが……自分で、驚いた」


 白松さんが俺を見た。


「桜井くんがいたから、かな。それとも、私が変わったのかな」


 どちらでもあると思った。でも、どちらかだけじゃないとも思った。うまく言葉にできないまま、少し考えた。


「両方じゃないか」と言った。「どっちかだけじゃなくて」


 白松さんが、ゆっくりと頷いた。



 風が止んだ。一瞬、公園全体が静かになった。


 竹中の言葉が、頭の中に浮かんだ。依存先を見つけただけだろ。あの言葉は、まだそこにあった。消えたわけじゃない。廃工場の床の冷たさや、あの声の質感と一緒に、まだどこかに残っていた。


「白松さんに、聞いていいか」


「うん」


「廃工場で竹中に言われた。白松との関係は、新しい依存先を見つけただけだって」


 白松さんの表情が、ほんの少し変わった。でも、黙って続きを待っていた。


「すぐに否定できなかった。白松さんのそばにいると楽だから、ただそれだけなんじゃないかって。幸子のときと何が違うのかって、分からなくなった」


 言ってしまってから、少し怖かった。でも、言わないままにしておく方が、もっと怖かった。言葉を選んでいる余裕が、もうなかった。


 白松さんが前を向いた。桜の木を見たまま、しばらく黙っていた。風が来て、花びらが一枚、ゆっくりと落ちた。


「私も、最初はそうだったかもしれない」


 静かな声だった。


「桜井くんといると楽だった。それだけで十分だと思ってた。でも……廃工場で、一人で来てた桜井くんのことを考えたとき、楽とか辛いとか、そういうことじゃなかった」


「どういうことだった」


「ただ、そこにいたかった。桜井くんの隣に」


 また風が来た。桜の花びらが一枚、足元の近くに落ちた。


「それが依存なのかどうか、私には分からない。でも、自分で選んで動いた。それだけは分かる」


 俺も、しばらく考えた。


 幸子のときは、必要とされることが嬉しかった。誰かの役に立てることで、自分がここにいていい気がした。白松さんとは、違う。白松さんのそばにいると、何かを証明しなくていい。ただ、いればいい。その感覚が依存と同じものなのかどうか、俺にも分からない。でも、廃工場で床に倒れながら立ち上がったとき、頭にあったのは理屈じゃなかった。理屈はどこかに吹き飛んでいて、あとには何か別のものだけが残っていた。


「俺も、選んだと思う」と言った。「うまく説明できないけど」


「うまく説明できなくていいと思う」


 白松さんが、小さく笑った。それを見て、ようやく少し力が抜けた。


 二人でしばらく、黙って並んでいた。遠くで子どもの声がした。自転車が通り過ぎた。風が来るたびに、花びらが舞った。桜の枝の先に、葉がもう出始めていた。それを見ていたら、なんとなく、悪くないと思った。


「来年も、また来ようね」


 白松さんが言った。


「ああ。一緒に」


 それだけで十分だった。答えが出たわけじゃない。竹中の言葉も、幸子のことも、自分がどんな人間なのかということも、まだぼんやりとしたままだった。でも、二人で同じ問いを抱えながら、同じ場所に座っている。それが今は、何より確かなことだった。


 花びらが、また一枚、風に乗って流れていった。


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