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君と風の行方  作者: 月見饅頭
第七章

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君と風の行方


 どこかから、ピアノの音が聞こえた。


 最初は気のせいかと思った。街の中にいると、いろんな音が混ざり合って、どれがどこから来ているのか分からなくなる。でも、その音だけははっきりしていた。単音ではなく、旋律だった。聴いたことのある旋律だった。


 どこで聴いたのかは思い出せない。

 それでも――あの曲だ、と分かった。





 昼過ぎに鈴木から連絡が来ていた。


『宮田と映画見てきた。お前らも誘えばよかった』


 続けて、


『でも二人の方が楽しかったから、やっぱりいいわ』


 あいつらしい文面だった。俺は画面を見て、小さく笑う。


 少し前の鈴木なら、こういう言い方はしなかったと思う。誰かを気にして、言葉を選んで、角を立てないようにしていたはずだ。


 でも今は違う。隠さないし、取り繕わない。その代わり、隣にいる相手にはまっすぐ向き合う。


 前に一度、三人で帰ったときのことを思い出す。宮田が何気なく選んだ店に、鈴木は文句も言わずついていって、出てきた料理を一口食べてから、「いいじゃん、ここ」とだけ言った。


 ああいう言い方をするやつだったか、とそのとき思った。


 たぶん、変わったのかもしれない。


 返信は打たない。このままでいい気がした。


 鈴木は今、宮田の隣で、ちゃんとそっちを見ているはずだ。


 それでいい気がした。





 三浦から連絡が来たのは、夕方だった。


『幸子が怒ってる。お前に伝えろってさ』


 何に対してなのかは書かれていない。少しして、また通知がきた。


『お前が先に退院祝いに行ったからだと。自分たちを差し置いて、白松さんと鈴木で済ませたのが許せないらしい』


 鈴木の退院祝いを、俺と白松さんと鈴木の三人で先に済ませた件のことだ。三浦たちには後から伝えるつもりだったが、あえてタイミングを合わせる気はなかった。


『次はちゃんと自分たちも誘え、だそうだ。わかってるな?』


 最後に、もう一件。


『俺も同意見だ』


 三浦らしい文面だった。幸子のことを、自分のことのように言う。


 だが、俺はスマートフォンの画面を閉じ、机の上に置いた。


 かつての俺なら、震える指で、すぐに謝罪の返信を送っていただろう。けれど、今は違う。そうする必要がないことを、もう知っている。


 俺は返信を打つ代わりに、白松さんから届いていた「今日は楽しかったね」という短いメッセージを読み返した。


 それだけで、十分だと思った。





 白松さんと会ったのは、夕方近くだった。


 駅の近くの、小さな本屋だった。白松さんが前から行きたいと言っていた店で、棚が天井まであって、通路が狭くて、でも不思議と息苦しくない空間だった。二人で並んで棚を見ていると、白松さんが時々、本の背表紙に指を当てて止まった。手に取るわけでもなく、ただ触れるだけ。どんな基準でそうしているのか、俺には分からなかった。聞く気にもならなかった。


「これ、好きだよ」


 白松さんが一冊を取り出して、俺に見せた。薄い文庫本で、カバーに青い色が使われていた。


「読んだことない」


「貸そうか」


「ああ」


 白松さんが本を抱えて、俺の少し前を歩き始めた。狭い通路の中を、背表紙を眺めながら進む。その後ろ姿を見ていると、ここにこうしているのが、何でもない当たり前のことのように感じられた。特別な何かじゃなく、ただの午後だった。それでいい、と思った。


 会計を終えて、店を出た。





 外に出ると、またあの音が聞こえた。


 さっきより近かった。通りの向こう、少し奥まった場所に、古い建物があった。音楽教室の看板が出ていた。窓が少し開いていて、そこからピアノの音が流れ出ていた。風が来て、音がわずかに揺れた気がした。


 白松さんが足を止めた。


「聞こえる?」と俺が言う前に、白松さんはもう音の方を向いていた。


 しばらく聴いていて、「風の行方だ」と言った。確かめるまでもない、という声だった。


「ああ」


「弾いてるのも、カオルさん?」


「たぶんな」


 白松さんはそれ以上何も言わなかった。ただ、音に耳を傾けていた。以前一緒に聴いたときと同じ曲なのに、何かが違う。白松さんもそれを感じているのか、表情がいつもより少し静かだった。


「上手くなってる」と白松さんが言った。「あのときより」


「ああ」と答えた。「続けてるんだと思う」


 俺は白松さんに、少し待っていてくれと言った。白松さんは頷いた。


 建物に近づいた。入り口のドアは閉まっていた。窓から音が漏れていた。中は見えなかったが、音だけははっきり聞こえた。カオルが弾いているのだと分かった。以前聴いたときとは、また少し違う弾き方だった。同じ曲なのに、弾くたびに育っている気がした。


 ドアには触れなかった。声もかけなかった。ただ、外に立って聴いた。


 音楽学校に再挑戦していると、以前聞いた。うまくいっているかどうかは知らない。でも、こうして弾き続けているなら、それだけのことはあると思った。上手いとか下手とかじゃなく、続けていること、それだけでいい気がした。


 一曲分、聴いた。最後の音が消えて、少しの間、静寂があった。それからまた、最初から始まった。


 俺は建物から離れた。





 白松さんのところに戻ると、白松さんはまだ同じ場所に立っていた。音の方を向いたまま、少し目を細めていた。


「会ったの?」


「いや。聴いてただけ」


「会わなくていいの?」


「今は、いい」


 白松さんが俺を見た。何か言いたそうで、でも言わずに、ただ頷いた。


 並んで歩き始めた。音はしばらく後ろから聞こえていた。通りを曲がると、少しずつ遠くなった。それでも、旋律だけはまだ耳の中に残っていた。


 白松さんが「また聴けるといいね」と言った。


「ああ」と答えた。「また聴けると思う」


 カオルはまだ弾いている。鈴木は宮田さんの隣にいる。三浦は幸子の隣で、たぶん余計なことを言っている。白松さんは俺の隣を歩いている。


 それぞれが、それぞれの場所にいる。

 それだけで、今は十分だった。


 風が来た。白松さんの黒髪が、少し揺れた。胸の中で何かが動いた気がしたが、まだ名前をつけなくていいと思った。


 どこか遠くで、ピアノの音がまだ続いていた。


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