78 夜の名残
廃工場の外は、思ったより人が多かった。
パトカーが二台、フェンスのすぐ外に止まっていた。赤いランプが回るたびに、周囲の草むらや砂利がじわりと赤く染まって、また暗くなる。その光が妙に規則的で、頭の奥に刻まれていくようだった。
三浦と幸子が、フェンスのそばに立っていた。三浦は警察官と何か話していた。幸子は鈴木の隣に立ち、足先で地面を何度も擦っていた。砂利が乾いた音を立てた。
「別に、たいしたことじゃねえよ」
鈴木がそう言っても、幸子は顔を上げず、
「……そういう問題じゃないでしょ」
と小さく返した。
制服の警察官が一人、こちらに向かってきた。背が高くて、目が細くて、それ以外は特に印象に残らなかった。
「お名前と、今夜の経緯を聞かせてもらえますか」
声は淡々としていた。感情がない、というより、最初から感情を置いてきたような口調で、その事務的な温度がかえって落ち着きを呼んだ。言われたとおりに話した。鈴木に連絡したら竹中が電話に出たこと、廃工場に呼び出されたこと、中で何が起きたか。細かいところは記憶がところどころ飛んでいたが、警察官はそのたび「それはいつごろですか」「その前後はどうでしたか」と確認して、手帳に書き留めていった。書く音だけが、しばらくのあいだ、二人の間で続いた。
白松さんは少し離れた場所に立って、こちらを見ていた。近づいてこないのは、邪魔をしないためだと分かった。それでも視線がここにあることは、なぜか分かった。
事情聴取が終わると、警察官が言った。
「後日、改めて署の方にも来ていただく必要があります。連絡先を教えてください」
番号を伝えて、ようやく解放された。
鈴木が話し終えて、こちらに来た。
「怪我、大丈夫か」
「たぶん」
「たぶん、じゃないだろ」
顔をしかめた。唇の傷はもう乾いていたが、頬が腫れているのは自分でも分かった。触れていないのに、じんじんした。
「病院、行けよ」
「お前もだろ」
「俺のは大したことない」
「俺のも大したことない」
言い合いになりかけたところで、幸子が口を挟んだ。
「今それいいから」
それで鈴木は口を閉じた。幸子が俺を見た。
「桜井も、顔ひどいよ。ちゃんと診てもらって」
怒っているような、泣きそうなような、境目が分からない声だった。
白松さんが近づいてきた。
「病院、行こう」
「でも、もう夜だし」
「救急外来がある」
断れなかった。断る言葉が浮かばなかった、というほうが正確かもしれない。
鈴木が俺の方を向いた。
「借りを作っちまったな」
「は?」
「今度は俺が返す」
「馬鹿だろ、お前」
「うるせえ」
それだけのやりとりで済んだ。三浦はすでに先に出ていた。警察官と話しながら歩いていく背中が見えた。何を話しているのかは聞こえなかった。鈴木は幸子と並んで暗がりの中に消えていった。二人の背中が見えなくなるまで見送ってから、白松さんと並んで歩き始めた。
◇
救急外来の待合室は、蛍光灯が明るすぎた。プラスチックの椅子が壁に沿って並んでいて、隅に自動販売機があって、そのモーター音だけがずっと低く鳴っていた。ほかに待っている人が二人いたが、誰も話していなかった。それぞれの事情を膝の上に乗せて、動かなかった。
白松さんが隣に座った。膝の上でスマホを両手で握って、でも画面は見ていなかった。
名前を呼ばれて、処置室に入った。白松さんは外で待っていた。
医師が顔を診て、肋骨を確認した。折れてはいないが強く打っている、しばらく安静に、と短く言った。湿布と痛み止めを渡されて、廊下に出ると、白松さんが立ち上がった。
「どうだった?」
「折れてはないって」
「よかった」
その二文字に、それまでずっと張っていたものが一気に抜けるのが分かった。声でそれが分かった。
◇
病院を出ると、夜風が冷たかった。並んで歩いた。駅までの道は人が少なくて、靴音だけがアスファルトに響いた。自分のと、白松さんのと、二つの音が微妙にずれながら続いた。
白松さんがふと立ち止まって、空を見上げた。つられて見ると、星がいくつか出ていた。多くはなかったが、澄んでいた。
「今日は、ありがとう」
白松さんが言った。空を見たまま。
「何が」
「来てくれたこと。折れなかったこと」
骨のことを言っているのか、それとも別のことを言っているのか、どちらとも取れる言い方だった。笑う気にはなれなかったが、悪くなかった。
「こっちこそ」と言った。「来てくれなかったら、どうなってたか分からない」
「私は……来ないといられなかっただけだよ」
「それでも」
白松さんが歩き出した。俺も並んだ。
家の前まで送った。門の前で、白松さんが振り返った。
「ゆっくり休んで」
「ああ」
「痛み止め、ちゃんと飲んで」
「飲む」
白松さんはすぐには何も言わなかった。街灯が白松さんの横顔を照らしていた。
「また、連絡する」
「うん」
家の中に消えた。ドアが閉まる音がして、すこし遅れて窓の向こうに明かりが灯った。
一人で駅へ向かいながら、深呼吸をした。冷たい空気が喉を通って、肺の奥まで入ってくる。体のあちこちが痛い。でも、足は動く。息ができる。
終わった、という実感は、まだなかった。ただ、何かが変わった夜だったのは分かった。その何かを言葉にするのは、もう少し後でいい。今夜はただ、歩いて帰る。それだけでよかった。




