77 夜の終わり
竹中は答えない。口の端で笑おうとしてやめた。笑い方を忘れたみたいに。
そのとき、遠くからサイレンの音が響いてきた。最初は風に混じって判然としなかったが、次第に近づいてくる。竹中の体が、わずかに固まった。
入り口の方で草をざわりと踏む音がした。白松さんが入ってきた。息を切らし、コートのまま立っている。手にはスマホが握られていた。目が合った瞬間、その表情が一度崩れ、すぐに元に戻る。
白松さんが竹中を見る。体がわずかにぴりと強張るのが分かったが、それでも逃げなかった。視線を外さず、真正面から見据えている。
竹中はその顔を長く見ていた。かつて泣かせたはずの顔は、もうそこにはなかった。同じ顔のはずなのに、まるで別のものに変わっている。
何かを言いかけて、やめる。口がわずかに動いたが、言葉にはならなかった。
サイレンが止まった。建物の外で、複数の足音と無線の声が重なる。
「こっちです」
入り口の外から声がした。三浦の声だった。警察官を建物の中へ誘導している。その声に迷いはなかった。
懐中電灯の光がさっと入り口から差し込み、「警察です」という声が空間にびんと響いた。
竹中は動かなかった。抵抗する素振りも、逃げようとする素振りも、なかった。ただ、ランタンの光の中に立ったまま、どこか遠くを見ていた。両脇にいた男たちも、それぞれ警察官に挟まれている。誰も何も言わなかった。
竹中が出口へ向かいながら、一度だけ振り返った。その目が何を見ていたのか、俺には分からなかった。足音が遠ざかり、やがて消えた。
残ったのは静寂だった。風が建物の中をすうと抜け、錆と埃の匂いを運んでくる。
鈴木がロープをほどきながら立ち上がり、手首をさすりつつ「ありがとな」と言う。
「馬鹿だろ、お前」
「そっちこそ」
「俺は呼ばれたから来た」
「俺は……まあ、馬鹿だったかもしれない」
「『かも』じゃなくて、馬鹿だった」
「うるせえ」
短いやり取りだったが、それだけで少し力が抜けた。笑う場面じゃないのに、なぜか笑えた。
「俺、外行ってくる。警察の人に話しないといけないし」
鈴木がそう言って出口へ向かった。入り口のところで足が止まった。
三浦と幸子が立っていた。
三浦は壁際で腕を組んだまま、こちらに目を向けた。何かを確かめるような間があって、それからかすかに頷いた。
幸子は鈴木の顔を見た瞬間、口をきつく結んだ。唇の端の傷と、手首の赤みに視線が吸い込まれて、そこで止まる。
「……馬鹿じゃないの」
声が震えていた。怒っているのか、泣きそうなのか、自分でも分かっていないような声だった。
「悪い」と鈴木が言った。
幸子は顔を上げて、「病院、行きなよ」と短く言った。声はまだ少し震えていた。
「大丈夫だって」
「大丈夫じゃないでしょ」
それだけ言って、幸子は先に歩き出した。鈴木が苦笑しながらその後を追って、廃工場の外に出て行った。
三浦が俺の方へ歩いてきた。少し声を落として言う。
「竹中の動きは前から把握してた。今夜お前から連絡が来て、警察に情報を入れた」
「……前からって、どのくらい前から」
「中学の頃から」
それだけ言って、視線を外した。
「ありがとう」
三浦は答えなかった。ただ、「行くぞ」と小さく言って、幸子と鈴木の方へ歩いていった。
◇
二人きりになる。ランタンの光がゆらゆらと揺れ、床に伸びた影が少し歪む。
白松さんが近づいてくる。一歩ずつ、確かめるように。
「痛い?」
頬を見ながら、静かに言う。
「大丈夫」
「嘘だ」
「大丈夫だよ」
「嘘つかないで」
手を伸ばしかけて、触れる寸前でぴたりと止める。その手が、わずかに震えていた。
「来てくれたんだな」
「位置情報、ずっと見てた。三浦さん、動いてくれたんだね」
声が少しだけ揺れている。
「怖かっただろ」
「怖かった。でも……来ないといられなかった。桜井くんが一人で来てるのに、私だけ家にいるのは嫌だった」
まっすぐな言葉だった。何も返せない。
「ありがとう」
「こっちこそ。来てくれてよかった。顔を見たら、終わった気がした」
白松さんがこちらを見る。何かを言いたそうで、それでも言葉が見つからないような顔だった。
「終わった、かな」
「まだ分からない。でも、今夜は終わりだ」
「うん」
「もう一人で抱えなくていい」
「……うん」
小さく、それでも確かに頷いた。
風が吹き、どこかで鉄板がぎいと軋む音がした。
手も頬もずきずきと痛い。それでも、立っている。
白松さんがそっと手を重ねてきた。何も言わない。俺も何も言わない。
それで十分だった。
ランタンの光の中で、二人の影が静かに並んでいた。
外から声が聞こえる。鈴木の声と、幸子の低い声と、三浦の落ち着いた声が、重なったり離れたりしながら続いていた。
みんな、ここにいる。今夜はそれだけでよかった。




