73 迫る影
花見の翌日。朝、スマホを見ると、白松さんからメッセージが来ていた。
「今日、時間ある? 話したいことがある」
短い文面。でも、その裏に何か重いものを感じた。すぐに返信する。
「ある。どこで会う?」
「いつもの公園で。2時に」
「わかった」
メッセージを閉じて、俺は深呼吸した。白松さんが話したいこと。昨日、言っていた。小学校の時の話。それが、何なのか。今日、わかる。
午後2時。約束の公園に着いた。桜の木の下のベンチに、白松さんが座っていた。俺に気づいて、小さく手を上げる。隣に座ると、白松さんは俯いたまま、何も言わなかった。
「白松さん」
「うん……」
白松さんが、ゆっくりと顔を上げる。その目は、少し赤い。泣いていたのかもしれない。でも、今は涙は流れていない。ただ、じっと俺を見つめている。
「昨日、彩乃に会って……色々、思い出しちゃって」
「思い出した?」
「うん。小学校の時のこと」
白松さんが、膝の上で手を組む。その手が、小さく震えている。俺は、何も言わずに待った。白松さんが話し始めるのを。
「私ね、小学校5年生の時、いじめを受けてたの……」
「いじめ……」
「うん。ある男の子から」
白松さんが続ける。
「その子の名前は、竹中洋二」
その名前を聞いた瞬間、俺の全身が固まった。竹中。その名前は、俺の中に深く刻まれている。忘れたくても、忘れられない名前。
「竹中……」
俺の声が、震える。白松さんが、驚いた顔で俺を見る。
「桜井くん、知ってるの?」
「ああ……知ってる」
俺は、頬の火傷跡に触れた。
「この傷、竹中につけられたんだ」
「え……」
白松さんが、息を呑む。
「本当に?」
「ああ。高1の夏。バイトの帰り、竹中に絡まれて……」
俺は、その日のことを思い出す。夜道。突然現れた竹中。取り巻きたち。逃げ場のない路地裏。「調子に乗りやがって、前からムカついてた」という言葉。そして、煙草の火。頬に押し付けられた、あの痛み。
「煙草を、押し付けられた」
「そんな……」
白松さんの目に、涙が浮かぶ。じっと俺を見つめている。
「桜井くんも……」
「ああ。俺も、竹中の被害者だ」
俺は続けた。
「中学の時も、竹中にいじめられてた」
「中学の時も……?」
「ああ。あの頃付き合ってた子……幸子も、竹中に狙われてた」
俺は、白松さんに全てを話した。中学2年の秋。竹中が幸子を狙い始めたこと。教科書を隠したり、机に落書きしたり。そして、俺がプレゼントしたお守りを、ボロボロにしたこと。鈴木が、胸ぐらを掴んだこと。三浦が、止めに入ったこと。全てを、話した。
白松さんは、黙って聞いていた。時々、小さく頷きながら。俺が話し終えると、白松さんは深くため息をついた。
「そうだったんだ……」
「ああ」
「桜井くんも、ずっと苦しんでたんだね」
「言えなかった」
俺は、苦笑した。
「でも、白松さんも、そうだったんだろ?」
「うん……」
白松さんが、また俯く。
「私ね、ピアノ習ってたの。小学校の時」
「前に少し聞いたな」
「うん、好きだった。弾くのが、楽しくて」
白松さんの声が、懐かしそうになる。
「でも、竹中くんに……楽譜、破られちゃって」
「楽譜を……」
「うん。大切にしてた楽譜。お母さんが買ってくれた、発表会の楽譜」
白松さんが続ける。
「それを、竹中くんが破いて、ゴミ箱に捨てた」
「ひどい……」
「うん。私が泣いたら、笑ってた」
白松さんの声が、震える。
「『泣き虫』って、言われた」
少し間があった。
「それから……楽譜を見ると、あの日のことを思い出して、怖くて。同じ音楽教室にピアノが上手な子もいたし、もう続けられないって思って」
白松さんが、膝の上の手をぎゅっと握りしめた。
「だから、ピアノ、辞めちゃった」
「そうだったのか……」
俺は、白松さんの手を握った。冷たい。思っていたより、ずっと冷たい。
「辛かったな」
「うん……」
白松さんが、小さく頷く。
「でも、もっと辛かったのは……」
「ん?」
「誰も、助けてくれなかったこと」
白松さんが、俺を見る。
「先生も、クラスメイトも、みんな見て見ぬふりで」
「彩乃も、葵も、心配してくれたけど……でも、止められなくて」
「竹中くんが怖かったから」
白松さんが、視線を落とした。睫毛の先に、光が滲んでいる。しばらくそのままでいて、それから指で静かに拭った。
「ごめん。こんな話、聞かせちゃって」
「謝らないで」
俺は、白松さんの手を少し強く握った。
「でも……私、重たいから」
白松さんが、小さく笑った。自分を笑うような笑い方だった。
「こういう話、引かない?」
「引かない」
俺は、間を置かずに言った。
「話してくれて、ありがとう」
「桜井くん……」
「俺も、同じだった」
自分でも気づかないうちに、口が動いていた。
「三浦は、騒ぎを大きくしたくないって。鈴木が助けようとしてくれたけど、それで余計に酷くなって」
「結局、俺は逃げた。幸子を置いて、別の高校に」
「そうだったんだ……」
白松さんが、俺の手を握り返した。
「でも、今は違うよ」
「え?」
「桜井くん、今は、逃げてない」
白松さんが、顔を上げる。
「私のこと、ちゃんと見てくれてる」
俺は何も言えなかった。ただ、白松さんの手を握ったまま、黙っていた。
気がつくと、白松さんの肩を抱いていた。小さい。思っていたより、ずっと小さい。俺の胸に額を押し当てて、白松さんが小さく息を吸った。
「怖いの……」
俺は、何も言わなかった。
「竹中くんが、また……」
白松さんの声が、途中で切れる。
「彩乃が言ってたの。最近、竹中くんを見かけたって。この辺りで」
心臓が、一拍遅れた気がした。
「もしかしたら、私のこと……また、狙ってるのかもしれない」
白松さんの背中に、俺の手を当てた。ゆっくり、ただそれだけ。何か言おうとして、やめた。軽い言葉を言いたくなかった。
「俺がいる」
それだけ言った。
「でも……」
「いる」
白松さんが、少し身体を強張らせた。それから、ゆっくり力が抜けていった。
しばらく、そのままでいた。風が吹くと、花びらが肩に落ちてきた。白松さんは動かなかった。俺も動かなかった。
「ねえ、桜井くん」
白松さんが、俺の胸に顔を当てたまま言う。
「竹中くんが、本当にこの辺りにいるなら……また、何かされるかもしれない」
「鈴木に話す」
俺は言った。
「斉藤さんにも、もう少し詳しく聞けるか」
「……うん」
「一人で抱えなくていい」
白松さんが、小さく頷いた。髪が、俺の顎に触れた。
「うん……そうだね」
立ち上がるタイミングがわからなくて、しばらくそのままでいた。ベンチの木が、じんわり温かかった。
「行こう」
「うん」
公園を出て、駅へ向かう道を歩く。白松さんが、俺の腕にしがみついてくる。いつもより、少し力が強い。俺は周りを見ながら歩いた。特に意識してそうしているわけじゃなかったが、自然とそうなっていた。
白松さんの家に着いた。
「じゃあ、また明日」
「うん。気をつけて帰ってね」
「ああ。白松さんも、鍵、ちゃんとかけて」
白松さんが、少し笑った。
「うん」
扉が閉まるのを見届けて、俺は歩き出した。一人になると、さっきまで気にしていなかった物音が、やけに耳に入ってきた。自転車の音。どこかの家の犬。遠くを走る車。
そのどれもが、少しだけ違って聞こえた。




