71 春の手前で
二月の終わり。窓の外の光が、以前より角度を持ち始めた。朝、登校するたびに影の伸び方が変わっている。冬はまだ居座っているつもりらしいが、足元からじわじわと何かが変わっていた。
黒板の端に、担任が几帳面な字で書いた。「学年末考査まであと2週間」。それを見るたびに、2年生が終わるという実感が、少しずつ腹の底に降りてきた。入院。幸子との再会。白松さんとの、距離の測り方。冬休みの会わない時間。そのどれもが、まだ昨日のことのように思えるのに、時間は過ぎていく。
昼休み、屋上に並んで座って弁当を食べた。白松さんが作ってきたのは、卵焼きとウインナーの入った、シンプルな弁当。俺が持ってきたのは昨日の肉じゃがの残り。他愛もない組み合わせだけど、それがちょうどよかった。
風が吹いた。隣で、箸が止まる気配がして、視線が空へ向いた。
「もうすぐ、春だね」
白松さんの声は、独り言に近い。俺もつられて空を見上げた。
「ああ」
「桜、咲くかな」
「もうすぐだと思う」
また風が来て、黒髪が横に流れた。その横顔には、何かを数えているような静けさがあった。
しばらく食べてから、白松さんが言った。
「ねえ。もうすぐ、三年生だね」
「ああ、あっという間だ」
「受験生」
言葉を確かめるように、もう一度繰り返した。少し真剣な色が、顔に乗った。
「進路、考えないとね」
「そうだな」
進路。まだ言葉にしたことはなかったけど、方向は見えていた。心理学を学びたい。入院していたあの頃、カウンセラーの先生に話を聞いてもらうたびに、何かがほぐれていった。看護師さんの立ち回り。カオルとの時間。母さんの顔。今なら白松さんも、その輪の中にいる。人の心を理解して、誰かの傍にいられる人間になりたい、という気持ちが、いつのまにか根を張っていた。
「桜井くんは、どうするの?」
「まだはっきりとは決めてないけど……心理学、勉強したいと思ってる」
「心理学?」
「うん。自分が入院してた時、色々な人に支えてもらって。今度は俺が、誰かをそっちの側から支えられたらって」
少し間があって、「素敵だね」と言った。責めるでも褒めるでもなく、ただそう思った、という声だった。
「白松さんは?」
「私は……文学部、かな。本が好きだから」
弁当箱の蓋を閉めながら、続ける。
「物語の中には、色々な人生がある。それを読むのが好きで……いつか、自分でも何か書けたらいいなって」
「いいじゃん」
「白松さんが書く物語、読んでみたい」
顔を上げた。一瞬、信じていいか探るような目をして、それから小さく「本当?」と聞いた。
雲がゆっくりと流れていく。冷たい風の中に、土の匂いのようなものが混じっている。草とも言い切れない、もっと曖昧な匂い。新しい季節が、まだ形を持たないまま漂っている感じがした。
「ホワイトデー、楽しみにしてるね」
唐突に言われて、俺は「ああ、任せて」と返した。
「何くれるの?」
「……ええと、前にプレゼントしたネックレス持ってきてくれる?」
少し照れながら言った。
「え……何それ」
「秘密」
一瞬引きつった顔を見て、笑いをこらえながら誤魔化した。
3月14日。朝から、バッグの中のことが頭にあった。昨日、街をだいぶ歩き回って選んだ。白松さんが本を好きなこと、シンプルなものが似合うこと、それだけを念頭に置いて店を何軒も回った。
昼休み、屋上に呼び出した。バレンタインの時と同じ場所。ドアが開く音がして、白松さんが少し不思議そうな顔で外に出てきた。
「呼び出して、ごめん」
「ううん。どうしたの?」
バッグから小さな箱を出した。白い包装紙に、青いリボン。
「お返しのプレゼント」
箱を受け取って、丁寧にリボンをほどく。包装紙を開けると、小さなペンダントチャームが出てきた。本の形をしている。
「本……」
声が、止まった。
「白松さん、本が好きだから」
と言いながら、少し照れくさくなった。
「持ってきてもらったネックレスに……こう繋げて……気に入ってくれるといいんだけど」
しばらく、チャームをじっと見ていた。それから顔を上げて、
「ありがとう、桜井くん」と言った。さっきより低い、落ち着いた声だった。
「つけてもいい?」
「もちろん」
ペンダントを首にかけて、後ろを向いた。留め具を合わせるために、髪をよけた首筋に触れる。白くて、細くて、体温がある。留め具がはまって、手を離した。
「どう?」
振り返った顔に、日が当たっていた。小さなチャームが光を受けて、かすかに輝いた。
「似合ってる」
「本当?」
チャームを指先で触りながら、ゆっくりと微笑んだ。その表情を見て、選んで正解だったと思った。
「大切にするね」
「うん」
しばらく、二人で黙って立っていた。風が来るたびに、髪が揺れる。ペンダントをぎゅっと握りしめてから、「ねえ、桜井くん」と呼んだ。
「ん?」
「私、幸せな気分」
俺を見る目が、真っ直ぐだった。
「桜井くんと一緒にいると、幸せ」
「俺も」と言って、手を握った。「白松さんと一緒にいると、幸せだ」
小さくて、温かい手だった。この一年、色々なことがあって、全部この手に繋がっている、と思った。これからも、この手と一緒に歩く。それだけで、十分だった。
放課後、家まで送る道を並んで歩いた。道端の植え込みから、小さな緑の芽が顔を出している。梅がちらほらと咲いて、枝に白い点が散っていた。
「もうすぐ、春休みだね」
白松さんと出会った春。
「桜、見に行こうね」
「ああ。一緒に行こう」
家の前で別れた。「今日は、ありがとう」とペンダントを触りながら言って、家の中に消えた。その背中を見送ってから、駅へ向かった。
電車の窓の外、街に明かりが灯り始めていた。もうすぐ春が来る。三年生になる。受験が待っている。色々なことが来るのはわかっている。でも、不思議と怖くなかった。
終業式の日、校長の話が長かった。最後の一文だけ耳に残った。「受験は、成長のチャンスでもあります」。そういうものかもしれない、と思った。
担任が、ホームルームの締めくくりに言った。「春休み、しっかり休んで。また元気な姿で会いましょう」。それで二年生が終わった。
校門を出て、並んで帰る道。道沿いの桜の木を見上げると、蕾がずいぶん膨らんでいた。
「来週あたり、満開になるかな」
「そうだな」
「楽しみ」
白松さんの家の前で別れて、一人で駅へ向かいながら深呼吸をした。春の空気は、柔らかくて、温度より先に何かが来る感じがした。形にならない季節が、ようやく形を持ち始めている。




