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君と風の行方  作者: 月見饅頭
第五章

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56 小さな逃げ道(回想7/10)

 

 翌日、学校に行くのが憂鬱だった。昨日のことが、頭から離れない。鈴木の怒り。幸子が一瞬鈴木を見つめた顔。そして、何もできなかった自分。全てが、重く胸にのしかかっていた。


 教室に入ると、幸子が待っていた。


「おはよう、桜井」

「おはよう」


 いつもと変わらない挨拶。でも、何かが違う気がした。幸子の目が、時々鈴木の方を向く。確認するように。


 鈴木は、いつもと変わらず、友達と笑っていた。昨日のことなど、何もなかったかのように。その姿が、俺にはまぶしく見えた。


 昼休み、三浦が声をかけてきた。


「桜井、ちょっといいか?」

「ああ」


 三浦と一緒に、廊下に出る。人気のない場所まで歩いて、三浦が口を開いた。


「昨日のこと、気にしてるだろ」

「別に」


「嘘をつくなよ。鈴木のこと、すごいと思っただろ」

「……ああ。俺には、できなかったことを、鈴木はやった」


「でも、桜井。鈴木のやったことは、危険だったんだ。竹中、あいつ、繋がりがあるって言っただろ。もし鈴木が殴ってたら、大事になってた。最悪、停学か除籍だ。それに、竹中が本気で報復してきたら、鈴木だけじゃなく、幸子も巻き込まれてた。だから、俺は止めたんだ。鈴木のためでもあるし、幸子のためでもある」


「でも……幸子は苦しんでたんだ。竹中に、ずっと」

「わかってる。でも、騒ぎを大きくしたら、もっと酷いことになる」


 三浦の言うことは、正しいのかもしれない。理性的で、現実的だ。でも、俺には冷たく聞こえた。


「じゃあ、どうすればいいんだよ。このまま、ずっと我慢しろってことか?」

「そうじゃない。でも……時間が解決することもある」


「時間が、か……それまで、幸子はずっと怯えてるんだ」


 三浦が、何か言いかけて、やめた。結局、答えはない。ただ耐えるしかない。それが、三浦の結論だった。


 教室に戻ると、幸子が待っていた。


「桜井、どこ行ってたの?」

「ちょっと、三浦と話してた」


「そう……なんの話?」

「昨日のこと」


「……そっか」


 俺は、幸子の隣に座った。幸子が、俺の腕にしがみついてくる。いつもより、強く。


 放課後、鈴木が俺に声をかけてきた。


「よう、桜井。昨日は、変なことになって悪かったな」

「いや……ありがとう。幸子を、助けてくれて」


「気にすんな。当然のことしただけだから。でも、三浦に怒られたわ。『お前、もっと考えて行動しろ』って。お前も大変だな。中川さん、守るの」


 その言葉が、胸に刺さった。守る?俺が?守れてないじゃないか。昨日だって、何もできなかった。鈴木が守ったんだ。俺じゃない。


「まあ、何かあったら言えよ。力になるから」


 鈴木が、そう言って去っていった。その背中を見ながら、俺は複雑な気持ちになった。鈴木は、優しい。強い。正しい。俺にはないものを、全て持っている。それが、嬉しくもあり、悔しくもあった。


 幸子を家まで送る道、幸子がふと言った。


「ねえ、桜井。鈴木くんって、ああいう人なんだね」


 またその話か。俺の胸が、締め付けられる。


「そうだな」

「私、あんな風に怒ってくれる人、初めて見た。桜井も、怒ってくれたけど……鈴木くんは違った。すごく、迫力があった。私、ちょっとびっくりした」


 その言葉が、俺を深く傷つけた。幸子は、気づいていないかもしれない。でも、俺には痛いほどわかった。


「桜井?」

「ああ。すごいよな、鈴木は」


 俺は、笑顔を作った。でも、それは嘘の笑顔だった。


「でもね、桜井。私が一番安心するのは、桜井なの。鈴木くんは強いけど、桜井はいつも側にいてくれる。それが、一番大事」


 その言葉に、少し救われた。でも、完全には癒されなかった。


 幸子の家の前で別れる。


「また明日ね」

「明日」


 幸子が家の中に入っていくのを見送って、俺は一人で歩き出した。重い足取りで、家へ向かう。


 鈴木と比べて、自分は何ができるんだ。幸子を守ると言いながら、何もできていない。ただ側にいるだけ。それだけだ。


 家に帰ると部屋に入って、ベッドに倒れ込む。天井を見つめながら、考える。このままでいいのか。幸子との関係。竹中の脅威。三浦の事なかれ主義。鈴木の正しさ。全てが、俺を追い詰めていく。


 そして、ふと思った。もし、幸子と離れたら。もし、この狭い世界から逃げ出したら。そうしたら、この息苦しさから解放されるんじゃないか。でも、すぐにその考えを振り払った。幸子を、見捨てるわけにはいかない。俺が、幸子の唯一の支えなんだ。


 でも、本当にそうなのか。昨日、幸子を守ったのは鈴木だ。俺じゃない。俺は、本当に必要なのか。


 スマホを見ると、幸子からメッセージが来ていた。


「今日も、ありがとう。桜井がいてくれて、安心する。大好きだよ」


 その言葉を読んで、少し安心する。でも、同時に、重荷も感じた。幸子は、俺に依存している。そして、俺も、幸子に縛られている。この関係は、健全じゃない。それは、わかっていた。でも、どうすることもできなかった。


 その夜、三浦から電話がかかってきた。


「桜井、今、大丈夫?」

「うん、大丈夫」


「さっきの話、続きなんだけど。お前、無理してないか?幸子のこと。ずっと一緒にいて、疲れてるんじゃないか」


 その言葉に、俺は何も答えられなかった。


「疲れてる、よな。お前の顔、見ればわかる」

「まあ、な」


「でも、幸子を見捨てることもできないんだろ」

「ああ」


「わかる。お前、優しいからな。でも、お前も大事にしろよ。自分のこと。お前、最近、自分のこと全然考えてないだろ」


 その言葉は、図星だった。俺は、最近、自分のことなど考えていなかった。全てが、幸子中心だった。


「三浦、お前はどう思う?俺と幸子の関係」


「……わかった。正直に言う。お前たち、ちょっと、一緒に居過ぎだと思う」


 その言葉が、胸に突き刺さった。でも、反論できなかった。三浦の言う通りだから。


「でも、どうすればいいんだよ。幸子を、見捨てることなんてできない」

「見捨てろとは言ってない。でも、少し距離を置くことも必要じゃないか。お前も、幸子も、少し一人の時間が必要だと思う」


 三浦の言葉は、正しいのかもしれない。でも、それができるのか。幸子は、俺がいないと不安になる。俺も、幸子を一人にするのが怖い。竹中が、また何かするかもしれない。


「考えとく」

「そうしろ。お前、このままじゃ壊れるぞ」


「ああ」


 電話を切って、俺はまた天井を見つめた。三浦の言葉が、頭の中で繰り返される。依存。距離を置く。一人の時間。でも、どうすればいいのか、わからなかった。


 そして、その時、ふと思った。もし、幸子とは違う高校に行ったら。離れることができるんじゃないか。この息苦しい関係から、解放されるんじゃないか。でも、すぐにその考えを否定した。幸子を、裏切ることはできない。


 しかし、その考えは、心の奥に残った。小さな種のように。いつか、芽を出すかもしれない種として。


 翌日から、俺と三浦の関係は、少しぎこちなくなった。三浦は、相変わらず優しい。でも、何か距離を感じた。俺の方が、勝手に距離を作っているのかもしれない。三浦の「事なかれ主義」が、許せなかった。鈴木が怒ってくれた時、三浦は止めた。それは、正しいことかもしれない。でも、俺には冷たく見えた。幸子が苦しんでいるのに、「騒ぎを大きくするな」と。


 そして、鈴木。鈴木とは、昨日の事件以来、まともに話していない。話せなかった。鈴木は、俺が一番情けなかった瞬間を見ている。何もできずに、ただ見ているだけだった俺を。その事実が、俺を鈴木から遠ざけていた。


 でも、同時に、鈴木に憧れてもいた。あんな風に、真っ直ぐに怒れる強さ。正しいことのために、リスクを顧みない勇気。俺にはないものを、鈴木は持っていた。


 そして、幸子。幸子との関係も、少しずつ変わっていった。幸子は、相変わらず俺に依存している。でも、時々、鈴木のことを話す。「鈴木くん、ああいう人なんだね」「鈴木くん、すごかったね」。その度に、俺の胸は痛んだ。嫉妬、かもしれない。でも、それ以上に、劣等感だった。俺は、幸子を守れなかった。守ったのは、鈴木だ。その事実が、俺を苦しめ続けた。


 ある日の放課後、俺は一人で校庭のベンチにいた。幸子は、その日、部活で早く帰っていた。久しぶりの、一人の時間。静かな校庭で、空を見上げる。でも、何も考えがまとまらなかった。


 考えていたのは、これからのことだった。このまま、幸子と一緒にいていいのか。この息苦しい関係を、続けていいのか。でも、答えは出なかった。


 空を見ると、冬の空が広がっていた。灰色の、重い空。この空のように、俺の心も重かった。


 そして、その時、心の奥で、ある決意が芽生え始めていた。この世界から、逃げ出したい。幸子から、竹中から、三浦から、鈴木から。全てから、逃げ出したい。そのためには、どうすればいいのか。答えは、一つしかなかった。別の高校に行くこと。幸子とは、違う高校に。


 でも、それは幸子を裏切ることになる。だから、まだ決められなかった。しかし、その考えは、日に日に強くなっていった。そして、いつか、それが現実になることを、その時の俺は、まだ知らなかった。



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