55 奪われた役目(回想6/10)
中学2年の冬。あの日のことは、今でも忘れられない。放課後、俺は教室に残っていた。掃除当番だったからだ。幸子も一緒に残っている。いつものように、俺から離れない。
「桜井、私、モップ洗ってくるね」
「わかった」
「すぐ戻るから」
「ああ」
幸子が、モップを持って教室を出ていった。俺は、机を動かしながら掃除を続ける。しばらくして、幸子が戻ってこない。少し心配になって、廊下に出た。その時、水道の方から声が聞こえた。
幸子の声だ。
「やめて……」
俺は、急いで水道の方へ走った。そこには、幸子が立っていた。そして、その前には――竹中がいた。
「何してんだ」
俺の声に、竹中が振り返る。
「おう、桜井。ちょうどいいところに」
竹中が、ニヤニヤと笑う。幸子は、怒りと恐怖が混じった顔をしていた。手に持っていたモップが、床に倒れている。拳を握りしめている。
「お前、何した」
「別に。ちょっと話してただけだよ。中川さん、俺と付き合わない? って」
その言葉に、俺の中で何かが弾けた。
「ふざけるな!」
俺が、竹中に掴みかかろうとした瞬間――取り巻きの一人が、俺の肩を掴んだ。
「落ち着けよ、桜井」
「離せ!」
俺が、振り払おうとする。でも、取り巻きは離さない。
「幸子は、俺の彼女だ!」
「へえ、そうなんだ。でも、中川、返事してないよね」
「断ってるでしょ! 何回も言ってるのに! お願い、もうやめて……」
「何をやめるの? 俺、何もしてないけど?」
竹中が、幸子に近づく。幸子が、後ずさる。壁に背中がつく。もう、逃げ場がない。
「お前……」
俺が、取り巻きを振り払おうとする。でも、力が足りない。何もできない。また、何もできない。
その時――――
「お前、女泣かせて何が楽しいんだよ!」
別の声が、響いた。
俺たちが振り返ると、そこには鈴木進一郎が立っていた。同じクラスの男。その鈴木が、怒りに満ちた顔で立っていた。
「鈴木……?」
竹中が、少し驚いた顔をする。
「お前、関係ないだろ」
「関係ある。女困らせてる奴、見過ごせねえ」
「は? 正義の味方気取りか?」
「違う」
鈴木が、竹中の胸ぐらを掴んだ。
「ただ、お前みたいな卑怯者が嫌いなだけだ」
「おい、鈴木」
取り巻きが、鈴木に掴みかかろうとする。でも、鈴木は動じない。
「竹中、お前、いい加減にしろ。中川さんに、これ以上近づくな」
「何様のつもりだよ」
竹中が、鈴木の手を払いのけようとする。でも、鈴木は離さない。
「俺は、ただの同級生だ。でも、お前みたいな奴、許せない」
「てめえ……」
竹中が、拳を振り上げる。その瞬間――
「やめろ!」
三浦が、走ってきた。
「やめろ、鈴木! 竹中、お前ももう行け!」
三浦が、二人の間に割って入る。
「いいから、鈴木、離せ。このままじゃ、お前、停学になるぞ」
「知るか」
鈴木が、まだ竹中を睨んでいる。
「でも、それじゃ中川が困る」
三浦が、幸子の方を指す。
「これ以上、騒ぎを大きくしたら、中川が一番傷つく」
その言葉に、鈴木が少し躊躇う。
「……チッ」
鈴木が、竹中を突き放した。竹中が、よろめく。
「覚えてろよ、鈴木」
「上等だ」
竹中が、取り巻きと一緒に去っていった。その場には、俺、幸子、鈴木、三浦が残された。重い沈黙が流れる。
幸子が、鈴木の方へ歩いていった。
「ありがとう……助けてくれて……」
「気にすんな。当然のことしただけだから」
幸子は一瞬鈴木を見つめる。そして、すぐに俺の方へ来た。
「桜井……」
幸子が、俺の腕にしがみつく。その様子を見て、俺の胸に、複雑な感情が渦巻いた。幸子を守ったのは、俺じゃない。鈴木だ。俺は、何もできなかった。取り巻きに押さえられて、ただ見ているだけだった。情けない。本当に、情けない。
三浦が、俺の方を見た。その目には、同情が混じっていた。それが、さらに俺を傷つけた。
「桜井、お前……」
「いいよ。何も言わないでくれ」
俺たちは、教室に戻った。鈴木と三浦も、一緒だった。誰も、何も話さない。重い空気が、流れている。
掃除を終えて、帰り支度をする。幸子が、俺の腕にしがみついてくる。でも、いつもと違う。何かが、変わってしまった気がした。
学校を出て、いつもの道を歩く。幸子が、小さく言った。
「桜井……鈴木くん、すごかったね」
その言葉が、胸に刺さった。
「……ああ」
「私……あんな風に怒ってくれる人、初めて見た。でも、桜井も止めようとしてくれたよね」
「でも、何もできなかった」
「ううん」
幸子が首を振る。
「桜井は、いつも側にいてくれる。それだけで、十分。私が守ってほしいのは、桜井だから」
でも、俺には十分じゃなかった。自分が、情けなかった。幸子を守ると言ったのに。何もできなかった。鈴木が、幸子を守った。俺じゃなく、鈴木が。その事実が、俺の心に深い傷を刻んだ。
幸子を家まで送って、別れた。
「また明日ね」
「明日」
一人で帰る道、俺は考えていた。鈴木の怒り。あれは、純粋だった。損得勘定なしに、ただ「卑劣な行為」に怒っていた。俺には、それができなかった。怖かった。竹中が怖かった。取り巻きが怖かった。だから、何もできなかった。情けない。本当に、情けない。
そして、三浦。三浦は、止めに入った。「騒ぎを大きくしたくない」と。それは、正しいことかもしれない。でも、俺には冷たく感じた。幸子が苦しんでいるのに。「事なかれ主義」に見えた。
今日のことが、頭の中で繰り返される。鈴木の怒り。幸子が一瞬鈴木を見つめた顔。「鈴木くん、すごかったね」というその言葉。全てが、俺を追い詰めていく。
俺は、何のために幸子と一緒にいるんだ。守るため?でも、守れなかった。愛しているから?でも、この息苦しさは何だ。
わからなくなっていた。ただ一つ、わかったことがあった。この狭い世界から、逃げ出したい。幸子から。竹中から。三浦から。鈴木から。全てから、逃げ出したい。その思いが、心の奥で、確かに芽生えていた。




