57 心だけ先へ(回想8/10)
中学3年になった。春が来て、新しいクラスが発表された。俺と幸子は、また同じクラスだった。三浦と鈴木も同じクラスになった。
幸子は、ほっとしたような顔をした。
「良かった。また桜井と同じクラスで」
「そうだな」
でも、俺の心は複雑だった。また一年、幸子と同じクラス。それは、嬉しいことのはずだ。でも、同時に、また一年、この息苦しい関係が続くということでもあった。
そして、竹中。竹中は、3年生になってから、学校に来なくなった。最初の一週間は来ていた。でも、その後、ぱったりと姿を見せなくなった。理由は、誰も知らなかった。転校したわけでもない。退学したわけでもない。ただ、来なくなっただけだ。後で聞いた話では、竹中は高校進学を諦めていたらしい。周りが受験勉強を始めて、学校がつまらなくなったんだろう。そういう噂だった。
竹中がいなくなって、幸子は少し安心したようだった。でも、完全には安心していない。
「また、誰かに……また誰かにいじめられるかもしれない。桜井しか、守ってくれる人いない」
幸子の束縛は、治らなかった。むしろ、悪化していた。竹中という明確な脅威がなくなったことで、幸子の不安は漠然としたものになった。そして、その不安が、幸子を俺にさらに縛り付けていた。
毎朝、学校で待っている幸子。
「おはよう、桜井」
「おはよう」
「今日も、一緒だよね」
「ああ」
休み時間も、昼休みも、放課後も。常に一緒。幸子は、俺から離れない。他の女子と話すことも、許されない。友達と遊ぶ時間も、ない。全てが、幸子中心だった。
三浦が、時々心配そうに声をかけてくる。
「桜井、お前、大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
でも、本当は大丈夫じゃなかった。限界が近づいていた。
ある日の夜、俺は一人で部屋にいた。机の上には、進路希望調査の紙が置いてある。志望校を書く欄。まだ、何も書いていない。
幸子は、何度も言っている。
「一緒の高校に行こうね」
「絶対だよ」
その度に、俺は頷いていた。「ああ」でも、本当にそれでいいのか。この息苦しい関係を、高校でも続けるのか。そう考えると、胸が苦しくなった。
俺は、スマホを取り出して、高校の情報を調べ始めた。この地域の高校。偏差値、場所、部活動。色々な情報が出てくる。
そして、ふと思った。幸子が絶対に選ばない高校。幸子の学力では、届かない高校。そういう高校に行けば、離れられるんじゃないか。その考えが、頭の中で膨らんでいく。でも、すぐに罪悪感が襲ってきた。それは、幸子を裏切ることだ。幸子は、俺と一緒の高校に行くことを、夢見ている。それを裏切るのか。
でも、このままじゃ、俺が壊れてしまう。そう思って、俺は高校の情報を調べ続けた。そして、ある高校を見つけた。この市で一番偏差値の高い高校。進学校として有名で、大学進学率も高い。幸子の成績では、絶対に届かない。そして、幸子は勉強が嫌いだ。こういう高校には、絶対に行きたがらない。
ここだ。ここに行けば、幸子から離れられる。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
次の日から、俺は密かに勉強を始めた。その高校に受かるために。幸子には、何も言わない。「成績を上げたい」とだけ言って、勉強時間を増やした。
幸子は、不満そうだった。
「桜井、最近勉強ばかりだね」
「ああ。ちょっと、頑張らないと」
「でも、私と一緒の時間、減っちゃった」
「ごめん。でも、受験生だから」
そう言って、誤魔化した。幸子は、納得していない様子だったけれど、それ以上は言わなかった。
家では、深夜まで勉強した。参考書を買い込んで、問題を解き続ける。今までの俺なら、こんなに勉強することはなかった。でも、今は違う。目標がある。幸子から離れる。この息苦しい関係から、解放される。そのためなら、どんなに勉強しても苦にならなかった。
母さんが、心配そうに声をかけてきた。
「悠人、最近、頑張ってるわね」
「ああ。志望校、決めたから」
「どこにするの?」
「まだ、秘密」
そう言って、笑った。母さんは、嬉しそうに微笑んだ。「頑張ってね」「ありがとう」
学校では、三浦が不思議そうな顔をしていた。
「桜井、お前、最近様子おかしいぞ。なんか、目がギラギラしてる。勉強、頑張ってるのか?」
「まあ、な」
「志望校、決めたのか?」
「一応な」
「どこだ?」
「まだ、秘密」
「秘密? 幸子にも言ってないのか?」
「ああ」
「なんでだよ」
「まあ、色々あるんだ」
俺は、それ以上答えなかった。三浦は、何か言いたげだったけれど、それ以上は聞いてこなかった。
夏休みが来た。幸子は、毎日のように会いたがった。
「桜井、今日も会える?」
「ごめん。今日は、勉強しないと」
「明日は?」
「明日も、ちょっと……」
「桜井、最近、冷たい」
「そんなことない。ただ、受験生だから」
「でも、私だって受験生だよ」
「わかってる」
俺は、ため息をついた。
「じゃあ、週に何回なら会える?」
「週に……3回くらいかな」
「3回だけ? 少なすぎる。なんで3回なの?」
「でも、勉強しないと」
「私より、勉強の方が大事なの?」
その質問に、俺は何も答えられなかった。本当のことを言えば、今の俺にとって、勉強の方が大事だった。勉強して、あの高校に受かること。それが、唯一の目標だった。でも、それを言えば、幸子は傷つく。
「そんなことない。でも、受験は大事だろ」
「わかった……じゃあ、週に5回」
「5回?」
「それでも、我慢してるんだよ。本当は、毎日会いたい。お願い。5回だけ」
結局、俺は折れた。「わかった。5回」
夏休みの間、俺は幸子と週5回会った。でも、心はここにあらずだった。幸子と一緒にいる時間も、頭の中では勉強のことを考えていた。次にやるべき問題集。苦手な分野。志望校の過去問。全てが、頭の中を駆け巡っていた。
幸子は、それに気づいていたかもしれない。
「桜井、私と一緒にいて、楽しい?」
「ああ」
「本当? なんか上の空だよね」
「そんなことないよ」
嘘をついた。本当は、楽しくなかった。早く家に帰って、勉強したかった。そればかり考えていた。
夏休みが終わって、二学期が始まった。受験が、近づいてくる。志望校を決める時期だった。先生が、進路希望調査の紙を配った。
「志望校を書いて、来週までに提出してください」
幸子が、嬉しそうに俺に言う。
「ねえ、桜井。どこにする?」
「まだ、決めてない」
嘘をついた。もう決めている。あの高校だ。
「私、夏緑高校にしようと思うんだ。桜井も、そこにしようよ」
「考えとく」
「絶対だよ。一緒の高校に行くって、約束したでしょ」
その言葉が、胸に刺さった。約束。そんな約束、したっけ。いや、した気がする。でも、それは本当に俺の意志だったのか。幸子に言わされただけじゃないのか。わからなくなっていた。
でも、一つだけわかっていることがあった。俺は、幸子とは違う高校に行く。そう決めていた。
家に帰って、俺は志望校を書いた。第一志望、春青高校。市で一番偏差値の高い、進学校。幸子が絶対に選ばない高校。
この紙を、来週、先生に提出する。そうすれば、もう後戻りはできない。でも、幸子には言えない。幸子に言えば、怒る。詰問してくる。「どうして? 私と一緒じゃ嫌なの?」そう言われるのが、目に見えている。だから、言わない。嘘をつき続ける。
「一緒の高校に行こうね」
そう言って、微笑む幸子に、俺は頷く。「ああ」嘘だ。全部、嘘だ。でも、今はまだ、言えない。受かってから、言おう。そう決めていた。
勉強は、さらに激しくなった。毎日、深夜まで机に向かう。休日も、図書館にこもって勉強する。幸子との約束の日だけは、渋々会う。でも、心はここにあらずだった。
三浦が、また心配そうに声をかけてきた。
「桜井、お前、やりすぎじゃないか? 顔色、悪いぞ」
「大丈夫だよ」
「本当に? お前、何か、隠してないか?」
「隠してない」
「嘘つくな。お前の顔、見ればわかる」
でも、俺は何も言わなかった。言えなかった。
秋が深まっていく。受験まで、あと数ヶ月。焦りと、期待が入り混じっていた。あの高校に受かれば、幸子から離れられる。この息苦しい関係から、解放される。そればかり考えていた。
でも、同時に、罪悪感もあった。幸子を、裏切っている。嘘をついている。それは、わかっていた。でも、止められなかった。もう、後戻りはできなかった。ただ一つの目標のために、俺は走り続けていた。幸子とは違う世界へ行くために。
ある日の放課後、幸子が言った。
「ねえ、桜井。志望校、どこにしたの?」
「まだ、決めてない」
また、嘘をついた。
「早く決めないと」
「わかってる」
「私と一緒のところにしてね」
「ああ」
嘘だ。嘘ばかりだ。でも、言えない。幸子の期待に満ちた目を見ると、真実を言えなかった。
「絶対だよ。約束。ずっと、一緒だよ」
「わかってる」
その言葉に、俺は頷いた。でも、心の中では、別のことを考えていた。もう少しだ。もう少しで、この呪縛から解放される。そう思いながら、俺は幸子への嘘を重ねていった。
冬が近づいていく。受験が、目の前に迫っていた。模試の結果は、順調だった。あの高校に、届きそうだ。その事実が、俺を励ました。もう少し。もう少しで、自由になれる。そう信じて、俺は勉強を続けた。




