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君と風の行方  作者: 月見饅頭
第五章

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欠けた月

 三浦との通話が終わってから、3日が経っていた。


 幸子と三浦が付き合うことになった。それはもう、きちんと受け取った。良かったと思う。本当に。でも、ここ数日、何かが頭の隅にひっかかったまま離れない感覚があった。何かが、まだ終わっていないような。言葉にできない、うっすらとした引っかかり。


 金曜日の夜。白松さんを最寄り駅まで送り、改札の前で手を振って別れた帰り道だった。


 住宅街の細い道を一人で歩く。街灯の光が路面に丸く落ちていて、風が頬を撫でるたびに白い息が出た。耳にイヤホンをしていたけれど、音楽を流す気にはなれなくて、コードだけぶら下げたまま歩いた。遠くで、犬が一声吠えた。どこかの家から夕飯の匂いがする。


 交差点で信号待ちをしながら、ぼんやりと考えていた。


 幸子のことだ。


 三浦から電話が来た夜から、断片的に思い出すことがあった。中学の頃の記憶。公園のベンチ。雨の日の教室。廊下の突き当たりで竹中に詰め寄られていた幸子の顔。それから、笑っていた幸子の顔。最初に弁当を一緒に食べた昼休みの、あの明るい声。


 なぜ今になって、こんなに思い返すのだろう。答えはなんとなくわかっていた。三浦から「幸子と付き合うことになった」と聞いた瞬間、俺の中で何かが動いた。でも、それが何なのか、うまく言葉にできないままでいた。


 信号が青に変わる。歩き出す。


 公園の前を通りかかったとき、足が自然と止まった。


 小さな公園だ。ブランコと、古びたベンチが二つ。街灯の光が斜めに落ちて、誰もいない。砂場の端に、誰かが忘れていったプラスチックのバケツが転がっていた。


 なんとなく、入った。


 ベンチに腰を下ろす。冷たい。コートの上からでも、鉄の冷たさが伝わってくる。息を吐くと、白い霧になってすぐに消えた。


 中学の頃、幸子とよくこういう公園にいた。放課後、二人でベンチに座って話した。幸子がよく喋り、俺がただ聞いていた。幸子の声は大きくて、感情的で、話しながら身振り手振りで形を作った。その様子が、少し可笑しかった。でも、好きだった。


 あの頃は、幸子といることが全てだった。幸子がいれば十分だと思っていた。

 でも、息苦しかった。


 どちらが悪いという話じゃない。幸子が悪かったわけでも、俺が悪かったわけでも、たぶんない。ただ、お互いに弱かった。竹中の脅威が幸子を追い詰めて、幸子は俺に縋った。そして俺は、縋られることで自分の価値を確かめていた。必要とされることで、やっと自分がここにいていいと思えた。


 三浦の言葉を借りれば、依存だった。お互いへの、歪んだ依存。


 だから俺は、別の高校を選んだ。逃げた。否定しない。幸子に嘘をついた。「一緒の高校に行こう」と言いながら、春青高校を受けた。幸子が届かない高校を。幸子が行きたがらない高校を。


 合格発表の日、自分の番号を見つけた時、最初に感じたのは解放感だった。


 それが、ずっと引っかかっていた。解放感。幸子から離れることへの、解放感。付き合っていた相手に対して、俺は最後にそれを感じた。それが正しかったのかどうか、今でもわからない。


 ベンチの背もたれに体を預けて、空を見上げた。

 夜空に、月が出ていた。少し欠けた月。白く、静かに光っている。


 三浦が、幸子のそばにいる。


 その事実を、改めてゆっくり受け取る。三浦は本気だ。幸子のことを、俺なんかよりずっと真剣に見ていた。中学の頃から、ずっと。俺が逃げた後も、三浦は幸子の近くにいた。待った。怒らず、呆れず、ただ待った。そういう人間だ、三浦は。


 それは、俺にはできなかったことだ。

 良かった、と思う。


 幸子が前を向こうとしている。三浦がいる。それだけで、十分だ。俺が口を挟む余地は、もうどこにもない。それが、ちゃんとすっきりする。ここ数日ひっかかっていたものが、少しずつほどけていくような感じがした。幸子の章が、ちゃんと閉じた。そういう感覚。自分で幕を引いたわけじゃなくて、自然にそうなった。三浦が引き取ってくれた、という方が近いかもしれない。


 でも。

 すっきりするだけじゃない。


 胸の奥に、静かな重さも残っていた。


 幸子を傷つけた。それは事実だ。幸子が前を向いてくれたから、三浦がいてくれるから、それで帳消しになるわけじゃない。公園で崩れるように泣き出した幸子を、俺は今でも覚えている。「私、桜井がいないとダメなの」という声を、今でも覚えている。「お願い、落ちて」という言葉も。あの時の幸子の目も。


 全部、消えない。


 これからも、きっと時々思い出す。ふとした瞬間に蘇ってくる。それが俺の罪悪感の形だと思う。派手な傷じゃなくて、静かに、じわじわと滲み続けるような。


 でも、消えなくていい。


 俺がちゃんと背負っていくべきものだ。幸子が元気にやっているから、三浦が支えているからといって、俺の側の罪悪感まで消えていいわけじゃない。それを消そうとするのは、むしろ都合が良すぎる気がした。


 風が吹いて、砂場のバケツが少し動いた。枯れ葉が足元を転がって、ベンチの下に潜り込んでいく。コートの襟を立てながら、俺はスマホを取り出した。


 白松さんからメッセージが来ていた。


「もう帰り着いた?」

 思わず、口元がゆるむ。


「今、ちょっと公園にいる」

「公園? 寒いじゃん」


「なんとなく、寄り道した」

 少し間があって、返信が来た。


「考え事?」


「ちょっとだけ。でも、もう整理ついた」

「そっか。早く帰って温まりなよ」


「うん。おやすみ」

「おやすみ」


 画面を閉じる。


 あの頃の幸子は、違った。俺がどこかに目をやるだけで「誰のこと見てたの」と聞いた。どこかに行くたびに「誰と会うの」と聞いた。俺の時間を、俺の視線を、全部自分のものにしようとした。それを責める気はない。幸子なりに、怖かったんだと思う。俺を失うことが。竹中の脅威が、幸子をそこまで追い詰めていた。でも、息苦しかった。


 ベンチから立ち上がる。冷たい夜の空気が、肺に入ってくる。足元の砂が、靴の裏でかすかに鳴った。公園を出て、また歩き出す。


 街灯の光の輪を、一つずつ踏み越えながら考える。

 幸子のことは、終わった。


 その言葉が、ぴったりはまる感じがした。本の章が閉じるような感覚。あの頃の俺と幸子の物語は終わって、今は三浦と幸子の物語が始まっている。俺の知らないところで、静かに。それでいい。それが正しい。


 そして俺には、白松さんがいる。


 白松さんとの間に、まだわからないことはたくさんある。うまくいくのかどうか、俺が本当に変われているのかどうか。全部、これから確かめていくしかない。


 でも、それでいいと思う。全部わかってから始めるなんて、そんなことは誰にもできないから。


 すっきりした気持ちと、消えない罪悪感。両方、本当だ。どちらかだけが正しいわけじゃない。相反するものが、同時に胸の中にある。それでいいと思う。そういうものだと思う。

 目を閉じると、公園で見た月が浮かんだ。少し欠けた月。完璧じゃない。でも、確かに光っていた。


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