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君と風の行方  作者: 月見饅頭
第五章

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終わりを見届けて


 土曜日の午後。


 中川幸子は、駅前のショッピングモールの中を一人で歩いていた。


 天井の高い吹き抜けに、柔らかなBGMが漂っている。どこかの店から漏れてくる甘い匂いが、空気の端を彩る。買い物袋を提げた家族連れが笑い合いながら通り過ぎ、腕を絡めたカップルが足を揃えて歩く。週末特有のあのざわめき。満ちているのに、どこか自分だけが半透明みたいな気がした。


 目的は、参考書を買うことだった。


 来月の模試に向けて、新しい問題集を探す。それだけの、何でもない用事。何でもないはずの用事だから、一人で来た。


 本屋で目当ての一冊を見つけ、レジで会計を済ませる。店員の「ありがとうございました」という声を背中で受けながら、紙袋を手に取って店の外へ出る。


 エスカレーターで一階へ降りながら、ぼんやりと下の広場を眺めていた。休日の光が大きなガラス窓から斜めに差し込んで、床の石畳をオレンジ色に染めている。


 そのときだった。


 視界の端に、見覚えのある後ろ姿が映った。


 幸子の呼吸が、止まった。


 ――桜井。


 間違いない。


 少し猫背気味の歩き方。黒いパーカーのフード。見慣れた肩の傾き。記憶の中とまったく同じ横顔が、人混みの中に、そこにあった。


 そして、その隣には、髪をかき上げる女性。


 白松さん、だ。


 二人は、自然な距離で並んで歩いていた。ぶつかるでも離れるでもない、ちょうどいい間隔。誰かを意識しているわけじゃなくて、ただ当たり前にそこにいる、という距離感。


 桜井が何かを言う。


 白松さんが笑う。


 それにつられるみたいに、桜井も笑う。


 その笑顔が、あまりにも柔らかくて。


 幸子は、エスカレーターを降りた場所で立ち尽くした。人の流れが、周りをすり抜けていく。BGMが流れ続けている。世界はなにも変わらず動いているのに、自分だけが止まってしまったみたいだった。


 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。


 でも。


 以前のように、呼吸ができなくなるほどではなかった。


 じわじわと広がる、鈍い痛み。静かで、重い。


 あの頃だったら、あそこへ走り寄っていたかもしれない。声をかけて、隣に割り込んで、自分の存在を主張しようとしていたかもしれない。でも今の自分は、ただ立ったまま、その光景を眺めることしかできなかった。


 桜井は、あんな顔で笑うんだ。


 あんなふうに、心から楽しそうに。


 中学の頃、私の隣で。


 ――あんな顔、していただろうか。


 思い返してみる。


 笑ってはいた。冗談も言ってくれた。でも今思えば、どこかぎこちなかった。力の入りすぎた笑顔。遠くを見ているような目。何かを我慢しているような、静かな疲れ。


 私は、それに気づいていなかった。いや、気づいていたのかもしれない。ただ、認めたくなかっただけで。


 二人は、そのままカフェへ入っていく。


 ガラス越しに、向かい合って座る姿が見える。


 白松さんが身を乗り出して何か話す。桜井が、くしゃっと顔をほころばせる。目の端にしわが寄るくらい、笑う。


 その光景を、幸子はただ見ていた。


 どれくらいそうしていたんだろう。


 頬を伝う感触に気づいたのは、しばらくしてからだった。冷たい。手の甲で拭うと、湿った跡が残る。こんな場所で泣くなんて、みっともない。わかってる。でも、涙はもう一度にじんできた。


 足を動かす。


 人の波をかき分けるように歩いて、ショッピングモールの外へ出た。午後の風が冷たく頬を撫でる。秋の匂いがした。枯れ葉と、乾いた空気の匂い。


 駅前の小さな公園へ向かった。


 ベンチに腰を下ろして、深く息を吐く。背もたれに体を預けて、空を見上げる。秋の空は高く、どこまでも澄んでいた。薄い雲が、風に押されてゆっくりと流れていく。


 さっき見た光景が、何度も頭の中で再生される。


 幸せそうだった。本当に。


 私の入る隙なんて、どこにもなかった。それが、はっきりとわかった。


 悲しい。


 でも同時に、どこか腑に落ちる感覚もある。ああ、そうなんだ、と。


 私はもう、あの場所にはいない。あそこは、二人の場所だ。


 桜井が選んだ未来。そして、桜井は笑っていた。


 その事実が、胸を刺す。


 けれど。


 ほんの少しだけ。


 ほんの少しだけ、安堵もあった。


 ――ちゃんと、幸せなんだ。


 それなら。


 私は。


 もう、追いかけなくていいのかもしれない。


 スマートフォンを取り出した。連絡先の一覧を開く。指が、自然に桜井の名前の上で止まる。開きかけて、すぐに閉じた。


 何を言う気だった。何を伝えたかった。自分でも、わからなかった。


 代わりに、少し下の名前が目に入る。


 三浦。


 いつも気にかけてくれる人。私が桜井のことを好きだと話しても、怒らず、呆れず、距離を置かなかった人。待つ、と言ってくれた人。


 甘えているのは、わかっている。ずっとわかっていた。三浦には三浦の気持ちがあって、それに全部に応えられているわけじゃないのに、助けを求める自分が虫のいい存在だということも。


 でも今、聞きたいのは三浦の声だった。


 発信ボタンを押す。コール音が、やけに長く感じる。一回、二回、三回。


「もしもし? 幸子?」


 いつもの声。


 それだけで、喉が詰まった。


「三浦……」


「どうした? 泣いてるのか?」


「……うん」


 隠せなかった。声に出した瞬間、また涙がにじんだ。


「何があった」


「偶然、桜井に会った」


 電話の向こうで、短い沈黙。


「……そうか」


「白松さんと、一緒だった」


「うん」


「すごく、幸せそうだった」


 言葉にすると、また涙が溢れる。声が震えないように、唇をきつく結ぶ。それでも、うまくいかなかった。


「会える? 今から」


「どこにいる」


「駅前の公園」


「10分で行く」


 迷いのない返事だった。


 本当に10分で、三浦は現れた。少し息を切らしている。


「待たせた」

「ううん……」


 隣に座る。何も言わず、ただ肩の距離が近づく。


 秋の風が木の葉を揺らした。サラサラという乾いた音が、しばらくの間を埋める。


「見ちゃったんだな」

「うん」


「幸せそうだった」

「ああ」


 幸子は、ぽつりぽつりと話した。言葉を選びながら、でも選びきれないまま、浮かんでくるものをそのままこぼしていく。


「桜井、あんな顔で笑うんだって思った」


「私といる時、あんな顔してなかった」


 三浦は、何も遮らない。


「私といるときの桜井、いつも疲れてた」

 涙が零れる。拭っても、また来る。


「私が、縛ってたんだよね」


「そんなこと――」

「あるよ」


 幸子は首を振った。言い訳をしてほしいわけじゃなかった。慰めてほしいわけでも。


「わかってた。でも、見ないふりしてた」


 今日、はっきりと見てしまった。自分がいない桜井の幸せを。自分が消えた場所に、自然に広がっていった笑顔を。


「私の居場所は、もうあそこにはない」

 三浦が、静かに肩を抱いた。


「辛かったな」

「うん」


 その腕に、少しだけ体を預ける。温かい。安心する。泣いてもいい気がした。みっともなくてもいい気がした。


「でもね」

「ん?」


「少し、楽になった」

 三浦が、黙って頷く。


「諦めがついたのかもしれない」


 はっきりと言葉にする。自分の口から出てきたその言葉を、もう一度心の中で繰り返す。


「桜井は、戻ってこない」

 自分で言って、自分で受け止める。


 涙は出なかった。


 三浦が、そっと頭を撫でた。大きな手のひら。


「よく言えたな」

「ううん。ただ、遅かっただけ」


 しばらく沈黙が続いた。風が木の葉を揺らす。低いビルの隙間から、夕方が近づいてくるような空の色が見える。うっすらとオレンジがかった青。


 その静かな時間の中で、幸子は決めた。


「ねえ、三浦」

「ん?」


「私と、付き合ってくれる?」

 三浦の体が、わずかに固まった。


「……それ、本気で言ってるのか」

「うん」


「俺を、利用するわけじゃないな?」


 真っ直ぐな目。逃げ場を与えない視線。責めているんじゃなくて、ただ確かめたいんだ、とわかった。


「違う」

「俺のこと、好きになったのか?」


 問いは、重かった。軽く答えていい問いじゃないことも、わかっていた。


 幸子は正直に答えた。


「……まだ、わからない」

 三浦の目が、わずかに揺れる。


「でも」

「三浦といると、安心する」


「桜井のこと、考える時間が減る」

「それだけじゃ、ダメ?」


 三浦は、深く息を吐いた。視線を空に向けて、少し考えるように黙る。幸子は、その横顔を見ていた。


「ダメじゃない」

 ゆっくりと、言葉が出てきた。


「でも、代わりにはなりたくない」

「ならない」


 幸子は言い切った。


「三浦は、三浦。桜井の代わりじゃない」

 しばらくの沈黙のあと。


 三浦は、ゆっくり頷いた。


「わかった」

「付き合おう」


 胸の奥が、静かに震えた。


「ただし」

 三浦が続ける。


「俺のこと、好きになれなかったら、その時はちゃんと終わらせよう。ずるずるは嫌だ」

「うん。約束する」


 三浦が手を差し出した。


 その手を、幸子は握った。温かい。さっきから温かいと思ってばかりいる。でも、それ以外の言葉が見つからなかった。


「今日から、恋人だな」


「うん……よろしく」


 二人は、笑い合った。


 まだどこか不安を残した笑顔。でも、前を向こうとしている。それだけは確かだった。


 駅へ向かう途中、三浦が言う。


「桜井には、俺から言う」

「え?」


「俺たちが付き合うこと」

 幸子は一瞬迷い、頷いた。


「お願い」

 三浦の横顔は、どこか決意を帯びていた。


 改札を抜けて、ホームへ降りる。


 電車を待ちながら、幸子はぼんやりとレールの先を見ていた。駅のホームは風が通って、制服の袖が揺れる。三浦が隣に立っている。さっきまでと同じように、ちょうどいい距離で。


 今日、桜井の幸せを見た。


 泣いた。でも、受け入れた。


 そして、新しい関係を選んだ。


 三浦のことが好きかどうかは、まだわからない。でも、隣にいると安心する。その安心に、今は身を預けたい。


 ゆっくりでいい。


 焦らなくていい。


 電車が来る音がした。レールが小さく震え、ホームに光が差し込んでくる。


 幸子は目を閉じた。

 風がホームを吹き抜けていく。髪が揺れる。


 静かに、何かが終わり。そして、何かが始まっていた。


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