終わりを見届けて
土曜日の午後。
中川幸子は、駅前のショッピングモールの中を一人で歩いていた。
天井の高い吹き抜けに、柔らかなBGMが漂っている。どこかの店から漏れてくる甘い匂いが、空気の端を彩る。買い物袋を提げた家族連れが笑い合いながら通り過ぎ、腕を絡めたカップルが足を揃えて歩く。週末特有のあのざわめき。満ちているのに、どこか自分だけが半透明みたいな気がした。
目的は、参考書を買うことだった。
来月の模試に向けて、新しい問題集を探す。それだけの、何でもない用事。何でもないはずの用事だから、一人で来た。
本屋で目当ての一冊を見つけ、レジで会計を済ませる。店員の「ありがとうございました」という声を背中で受けながら、紙袋を手に取って店の外へ出る。
エスカレーターで一階へ降りながら、ぼんやりと下の広場を眺めていた。休日の光が大きなガラス窓から斜めに差し込んで、床の石畳をオレンジ色に染めている。
そのときだった。
視界の端に、見覚えのある後ろ姿が映った。
幸子の呼吸が、止まった。
――桜井。
間違いない。
少し猫背気味の歩き方。黒いパーカーのフード。見慣れた肩の傾き。記憶の中とまったく同じ横顔が、人混みの中に、そこにあった。
そして、その隣には、髪をかき上げる女性。
白松さん、だ。
二人は、自然な距離で並んで歩いていた。ぶつかるでも離れるでもない、ちょうどいい間隔。誰かを意識しているわけじゃなくて、ただ当たり前にそこにいる、という距離感。
桜井が何かを言う。
白松さんが笑う。
それにつられるみたいに、桜井も笑う。
その笑顔が、あまりにも柔らかくて。
幸子は、エスカレーターを降りた場所で立ち尽くした。人の流れが、周りをすり抜けていく。BGMが流れ続けている。世界はなにも変わらず動いているのに、自分だけが止まってしまったみたいだった。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
でも。
以前のように、呼吸ができなくなるほどではなかった。
じわじわと広がる、鈍い痛み。静かで、重い。
あの頃だったら、あそこへ走り寄っていたかもしれない。声をかけて、隣に割り込んで、自分の存在を主張しようとしていたかもしれない。でも今の自分は、ただ立ったまま、その光景を眺めることしかできなかった。
桜井は、あんな顔で笑うんだ。
あんなふうに、心から楽しそうに。
中学の頃、私の隣で。
――あんな顔、していただろうか。
思い返してみる。
笑ってはいた。冗談も言ってくれた。でも今思えば、どこかぎこちなかった。力の入りすぎた笑顔。遠くを見ているような目。何かを我慢しているような、静かな疲れ。
私は、それに気づいていなかった。いや、気づいていたのかもしれない。ただ、認めたくなかっただけで。
二人は、そのままカフェへ入っていく。
ガラス越しに、向かい合って座る姿が見える。
白松さんが身を乗り出して何か話す。桜井が、くしゃっと顔をほころばせる。目の端にしわが寄るくらい、笑う。
その光景を、幸子はただ見ていた。
どれくらいそうしていたんだろう。
頬を伝う感触に気づいたのは、しばらくしてからだった。冷たい。手の甲で拭うと、湿った跡が残る。こんな場所で泣くなんて、みっともない。わかってる。でも、涙はもう一度にじんできた。
足を動かす。
人の波をかき分けるように歩いて、ショッピングモールの外へ出た。午後の風が冷たく頬を撫でる。秋の匂いがした。枯れ葉と、乾いた空気の匂い。
駅前の小さな公園へ向かった。
ベンチに腰を下ろして、深く息を吐く。背もたれに体を預けて、空を見上げる。秋の空は高く、どこまでも澄んでいた。薄い雲が、風に押されてゆっくりと流れていく。
さっき見た光景が、何度も頭の中で再生される。
幸せそうだった。本当に。
私の入る隙なんて、どこにもなかった。それが、はっきりとわかった。
悲しい。
でも同時に、どこか腑に落ちる感覚もある。ああ、そうなんだ、と。
私はもう、あの場所にはいない。あそこは、二人の場所だ。
桜井が選んだ未来。そして、桜井は笑っていた。
その事実が、胸を刺す。
けれど。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、安堵もあった。
――ちゃんと、幸せなんだ。
それなら。
私は。
もう、追いかけなくていいのかもしれない。
スマートフォンを取り出した。連絡先の一覧を開く。指が、自然に桜井の名前の上で止まる。開きかけて、すぐに閉じた。
何を言う気だった。何を伝えたかった。自分でも、わからなかった。
代わりに、少し下の名前が目に入る。
三浦。
いつも気にかけてくれる人。私が桜井のことを好きだと話しても、怒らず、呆れず、距離を置かなかった人。待つ、と言ってくれた人。
甘えているのは、わかっている。ずっとわかっていた。三浦には三浦の気持ちがあって、それに全部に応えられているわけじゃないのに、助けを求める自分が虫のいい存在だということも。
でも今、聞きたいのは三浦の声だった。
発信ボタンを押す。コール音が、やけに長く感じる。一回、二回、三回。
「もしもし? 幸子?」
いつもの声。
それだけで、喉が詰まった。
「三浦……」
「どうした? 泣いてるのか?」
「……うん」
隠せなかった。声に出した瞬間、また涙がにじんだ。
「何があった」
「偶然、桜井に会った」
電話の向こうで、短い沈黙。
「……そうか」
「白松さんと、一緒だった」
「うん」
「すごく、幸せそうだった」
言葉にすると、また涙が溢れる。声が震えないように、唇をきつく結ぶ。それでも、うまくいかなかった。
「会える? 今から」
「どこにいる」
「駅前の公園」
「10分で行く」
迷いのない返事だった。
本当に10分で、三浦は現れた。少し息を切らしている。
「待たせた」
「ううん……」
隣に座る。何も言わず、ただ肩の距離が近づく。
秋の風が木の葉を揺らした。サラサラという乾いた音が、しばらくの間を埋める。
「見ちゃったんだな」
「うん」
「幸せそうだった」
「ああ」
幸子は、ぽつりぽつりと話した。言葉を選びながら、でも選びきれないまま、浮かんでくるものをそのままこぼしていく。
「桜井、あんな顔で笑うんだって思った」
「私といる時、あんな顔してなかった」
三浦は、何も遮らない。
「私といるときの桜井、いつも疲れてた」
涙が零れる。拭っても、また来る。
「私が、縛ってたんだよね」
「そんなこと――」
「あるよ」
幸子は首を振った。言い訳をしてほしいわけじゃなかった。慰めてほしいわけでも。
「わかってた。でも、見ないふりしてた」
今日、はっきりと見てしまった。自分がいない桜井の幸せを。自分が消えた場所に、自然に広がっていった笑顔を。
「私の居場所は、もうあそこにはない」
三浦が、静かに肩を抱いた。
「辛かったな」
「うん」
その腕に、少しだけ体を預ける。温かい。安心する。泣いてもいい気がした。みっともなくてもいい気がした。
「でもね」
「ん?」
「少し、楽になった」
三浦が、黙って頷く。
「諦めがついたのかもしれない」
はっきりと言葉にする。自分の口から出てきたその言葉を、もう一度心の中で繰り返す。
「桜井は、戻ってこない」
自分で言って、自分で受け止める。
涙は出なかった。
三浦が、そっと頭を撫でた。大きな手のひら。
「よく言えたな」
「ううん。ただ、遅かっただけ」
しばらく沈黙が続いた。風が木の葉を揺らす。低いビルの隙間から、夕方が近づいてくるような空の色が見える。うっすらとオレンジがかった青。
その静かな時間の中で、幸子は決めた。
「ねえ、三浦」
「ん?」
「私と、付き合ってくれる?」
三浦の体が、わずかに固まった。
「……それ、本気で言ってるのか」
「うん」
「俺を、利用するわけじゃないな?」
真っ直ぐな目。逃げ場を与えない視線。責めているんじゃなくて、ただ確かめたいんだ、とわかった。
「違う」
「俺のこと、好きになったのか?」
問いは、重かった。軽く答えていい問いじゃないことも、わかっていた。
幸子は正直に答えた。
「……まだ、わからない」
三浦の目が、わずかに揺れる。
「でも」
「三浦といると、安心する」
「桜井のこと、考える時間が減る」
「それだけじゃ、ダメ?」
三浦は、深く息を吐いた。視線を空に向けて、少し考えるように黙る。幸子は、その横顔を見ていた。
「ダメじゃない」
ゆっくりと、言葉が出てきた。
「でも、代わりにはなりたくない」
「ならない」
幸子は言い切った。
「三浦は、三浦。桜井の代わりじゃない」
しばらくの沈黙のあと。
三浦は、ゆっくり頷いた。
「わかった」
「付き合おう」
胸の奥が、静かに震えた。
「ただし」
三浦が続ける。
「俺のこと、好きになれなかったら、その時はちゃんと終わらせよう。ずるずるは嫌だ」
「うん。約束する」
三浦が手を差し出した。
その手を、幸子は握った。温かい。さっきから温かいと思ってばかりいる。でも、それ以外の言葉が見つからなかった。
「今日から、恋人だな」
「うん……よろしく」
二人は、笑い合った。
まだどこか不安を残した笑顔。でも、前を向こうとしている。それだけは確かだった。
駅へ向かう途中、三浦が言う。
「桜井には、俺から言う」
「え?」
「俺たちが付き合うこと」
幸子は一瞬迷い、頷いた。
「お願い」
三浦の横顔は、どこか決意を帯びていた。
改札を抜けて、ホームへ降りる。
電車を待ちながら、幸子はぼんやりとレールの先を見ていた。駅のホームは風が通って、制服の袖が揺れる。三浦が隣に立っている。さっきまでと同じように、ちょうどいい距離で。
今日、桜井の幸せを見た。
泣いた。でも、受け入れた。
そして、新しい関係を選んだ。
三浦のことが好きかどうかは、まだわからない。でも、隣にいると安心する。その安心に、今は身を預けたい。
ゆっくりでいい。
焦らなくていい。
電車が来る音がした。レールが小さく震え、ホームに光が差し込んでくる。
幸子は目を閉じた。
風がホームを吹き抜けていく。髪が揺れる。
静かに、何かが終わり。そして、何かが始まっていた。




