52 曇り空のまま
幸子のことを、久しぶりにちゃんと思い出していた。
中学の頃、幸子に「離れたくない」と言われるたびに、俺は少しほっとしていた。誰かに必要とされているという感覚が、自分の輪郭を作っていたのだと思う。でも今になって思い返すと、あの頃の俺は幸子の顔色を読むことに慣れすぎていた。話し終わるたびに表情を確認して、怒っていなければ初めて息を吐いた。それが普通だと思っていた。
白松さんと話す時、俺はそれをしない。する必要がない。そのことに気づいた時、ようやく何かが違ったのだとわかった。
その夜はなかなか眠れなかった。暗い天井を見つめていると、幸子の泣き顔と、白松さんの不安そうな横顔が交互に浮かんできた。どちらも消えなかった。寝返りを打つたびにシーツが擦れる音が、やけに大きく響いた。
――――俺は、ちゃんと守れるのか。
その問いだけが、頭の中をぐるぐると回り続けた。
翌日、日曜日。
目を覚ましても、気持ちは晴れなかった。カーテンを開けると、昨日の雨は上がっていたが、空はまだ薄く曇っている。どこか中途半端な天気だった。
昼前に家を出た。日曜日の公園は家族連れで賑わっていて、子供たちの笑い声があちこちから風に乗って聞こえてくる。その明るさとは裏腹に、胸の奥はまだ落ち着かなかった。
ベンチに座って待っていると、白松さんが小走りでやってきた。
「お待たせ」
「ううん、今来たところ」
隣に腰を下ろした彼女の横顔は、少しだけ疲れて見えた。
「昨日、眠れた?」
白松さんは一瞬迷ってから、小さく首を振った。
「あまり……色々、考えちゃって」
「幸子のこと?」
彼女は頷いた。それから少し間を置いて、「桜井くんのことも」と言った。
その一言で、何か言おうとしていた言葉が出てこなくなった。
「ごめん。心配かけて」
「桜井くんは悪くない。ただ……本当に、大丈夫かなって」
声がわずかに震えていた。
「幸子さん、本当に諦めてくれるかな」
まっすぐ見つめられて、言葉が詰まった。正直、確信はなかった。
「俺は、はっきり断った」
「でも、それで終わる人なら、こんな風になってない気がして」
その言葉は、静かに沈んだ。確かに、幸子は簡単に引くような人じゃない。
「白松さん……」
「疑ってるわけじゃないの」
と彼女は続けた。
「桜井くんのことは信じてる。でも、幸子さんが……怖いの」
俺は彼女の手をそっと握った。指先が冷たくて、かすかに震えていた。
「大丈夫。何があっても、俺は白松さんのそばにいる」
「本当?」
「ああ。約束する」
白松さんは少しだけ微笑んだ。でもその笑顔の奥に、まだ何かが残っているのがわかった。それがわかるから、余計に言葉が見つからなかった。
しばらく、二人で黙ったまま座っていた。遠くでボールが転がる音と、子供たちのはしゃぐ声が届く。平和な日曜日の風景なのに、俺たちの間だけ空気が違った。
「私、自信がないの」
とぽつりと白松さんが言った。
「桜井くんに、ちゃんと好きでいてもらえるかって」
「俺が好きなのは、白松さんだけだ」
「今は、ね」
「今も、これからも」
彼女の目に涙が浮かんだ。俺はその肩をそっと引き寄せた。
「不安になるのは当たり前だよ。俺だって怖い」
「桜井くんも?」
「ああ。失いたくないから」
しばらくして、白松さんは小さく笑った。
「そっか。お互い様だね」
昼を過ぎて、近くのカフェで食事を取った。料理の感想や他愛ない話をしながら、それだけの時間が妙に尊く感じられた。でも頭の片隅には、幸子の存在が消えずにいた。本当に、これで終わるのだろうか。その疑問は、家に帰ってからも消えなかった。
夜、スマホが震えた。見知らぬ番号だった。
メッセージを開いた瞬間、息が止まった。
――中川幸子。
――――この前はごめんね。でも、やっぱり諦められない
全身が冷えた。続けて、もう一通。
――――桜井の彼女、見たいな。どんな子か気になる
背筋にぞくりとしたものが走った。無視するか、はっきり拒絶するか。どの選択も波紋を広げそうで、指が止まった。
結局、白松さんに電話をかけた。
「もしもし?」
といつもより少し緊張した声が返ってきた。
「幸子から、メッセージが来た」
電話越しに、息を呑む気配が伝わった。内容を伝えると、しばらく沈黙が続いた。
「どうしよう……」
「大丈夫。俺が何とかする」
そう言いながら、自分でも確信は持てていなかった。
電話を切ったあと、三浦に連絡を取った。事情を話すと、三浦は深くため息をついた。
「そこまでか……」
「ああ」
「俺が中川と話してみる。時間はかかるかもしれないけど、任せろ」
「頼む、幸子を止めてくれ」
少しだけ肩の力が抜けた。通話が終わって、天井を見上げる。静かな部屋だったが、胸の奥はざわついたままだった。
本当に、これで終わるのか。答えはまだ見えなかった。それでも、白松さんと前を向いて歩くという気持ちだけは、揺らがせたくなかった。
三浦の「任せろ」という声が、やけに重く残った。あいつは、あの頃からずっと見ていた。俺と幸子の関係が少しずつ歪んでいくのを。




