51 私だけを見て(回想3/10)
俺と幸子の関係は順調だった。
毎日一緒に弁当を食べて、一緒に帰る。休日は公園で会って、一緒に散歩したり、話したりする。幸子は運動するのが好きで、よく俺を誘って走ったりもした。幸せだった。
でも、少しずつ、何かが変わり始めていた。
最初に気づいたのは、ある日の昼休みだった。俺が教室で弁当を広げていると、クラスメイトの男子が話しかけてきた。
「桜井、数学のプリント、見せてくれない?」
「ああ、いいよ」
鞄からプリントを取り出して渡す。
「ありがとう。助かる」
その時、幸子が教室に入ってきた。俺と男子が話しているのを見て、少し表情が曇った。男子が去った後、幸子が隣に座った。
「今の人、何?」
「プリント貸してって」
「そうなんだ……」
幸子の声が、少し小さい。
「どうした?」
「ううん、何でもない」
幸子が笑った。でも、その笑顔はいつもと少し違った。
その日の放課後、一緒に帰る時、幸子が聞いてきた。
「ねえ、桜井。今日、誰かと帰る予定とかない?」
「ないよ。いつも通り、幸子と」
「そっか」
幸子がほっとしたように微笑んだ。
「良かった」
「どうしたの?」
「ううん。ちょっと心配しちゃって。桜井、最近他の人とも話すようになったから」
幸子が俯く。
「それは……いいことだと思うんだけど。でも、ちょっと寂しい」
「寂しい?」
「うん。前は、私だけだったのに」
幸子が笑う。でも、その笑顔は少し寂しそうだった。
「ごめん、変なこと言った」
「いや……」
俺は、どう答えていいかわからなかった。
それから、同じようなことが何度か起きた。俺が他の生徒と話していると、幸子が少し不機嫌になる。女子と話している時は、特にそうだった。
ある日、クラスの女子に話しかけられた。
「桜井くん、学級委員の資料、どこにあるか知ってる?」
「ああ、教卓の引き出しの中」
「ありがとう」
女子が去った後、幸子が言った。
「今の、誰? 何の用?」
「資料の場所聞かれただけ」
「そうなんだ」
幸子が沈黙する。
「幸子?」
「ねえ、桜井。なんであの子と話してたの?」
「だから、資料の場所を……」
「それだけ?」
「それだけだよ」
幸子が少し考えてから、微笑んだ。「そっか。ごめんね、変なこと聞いて」
でも、その笑顔は無理をしているように見えた。
だんだん、誰かと話すたびに説明が必要になってきた。「今の人、誰?」「なんの話してたの?」「また会うの?」幸子の質問が増えていく。
俺は、最初は気にしなかった。「心配性なんだな」くらいに思っていた。でも、それが続くうちに、少し息苦しさを感じ始めた。
ある日の放課後、俺はサッカー部の男子と話していた。
「桜井、今度の日曜、サッカーやらない?」
「え、俺?」
「ああ。人数足りなくてさ。別に上手くなくていいから」
「でも、俺サッカーとか……」
「大丈夫大丈夫。楽しければいいんだよ」
サッカー部部員が笑う。
「考えとく」
「おう、よろしく」
彼が去った後、幸子が近づいてきた。
「今の人、サッカー部の?」
「ああ」
「何の話?」
「サッカーやらないかって」
幸子の表情が変わった。
「日曜日に?行くの?」
「まだわからない」
幸子が黙った。しばらく沈黙が続いた。
「ねえ、桜井。日曜日、私と約束してたよね」
「え?」
「遊び行こうって」
言われて思い出した。確かに、そんな話をしていた。
「ああ、そうだった」
「じゃあ、サッカーは行けないよね」
「うん」
「良かった」
幸子がほっとしたように微笑んだ。次の日、断りを入れた。
「ごめん、日曜は予定があって」
「そっか、残念。また今度な」
「ああ」
それを見ていた幸子が、嬉しそうに笑った。でも、俺の中には小さなもやもやが残った。それから、幸子の言動がさらに変わっていった。「放課後、誰かと話すの?」「今日は私と帰れる?」「休日、どこか行く予定ある?」幸子が、俺のスケジュールを常に確認するようになった。
そして、ある日。俺が校庭で休んでいると、陸上部の他の女子が話しかけてきた。
「桜井くん、ちょっといい?」
「なに?」
「体育祭の係、一緒になったよね。打ち合わせの時間、いつがいい?」
「ああ、そうだった。放課後とか?」
「いいよ。じゃあ、また連絡するね」
女子が笑って去っていく。その様子を、幸子が体育館の入り口から見ていた。放課後、一緒に帰る時、幸子が突然怒り出した。
「ねえ、桜井。さっき、あの子と何話してたの?」
「体育祭の係のことで……」
「それだけ?」
「それだけだよ」
「嘘」
幸子が立ち止まる。
「どうして私じゃなくて、あの子と話してるの? 私だって陸上やってるのに。なのに、桜井は他の人とも仲良くして」
「それは……」
「私だけを見てほしい」
幸子の目に、涙が浮かぶ。怒りと悲しみが混じっている。
「お願い。私だけを見て。他の人と話さないで。特に女子」
「幸子……」
俺は、どう答えていいかわからなかった。でも、泣いている幸子を見ていられなかった。
「わかった。大丈夫。幸子だけでいい」
幸子の顔が、パッと明るくなった。
「本当?」
「ああ」
「約束?」
「約束」
幸子がすぐに笑顔になった。涙を拭って、嬉しそうに微笑む。
「良かった」
幸子が俺に抱きついた。
「ありがとう、桜井」
その笑顔に、俺は安堵した。幸子が笑ってくれれば、それでいい。そう思った。でも同時に、何か大切なものを手放したような感覚があった。それが何なのか、その時はわからなかった。ただ、少し息苦しさを感じた。胸の奥に、小さな違和感が残った。
それから、俺は他の生徒とあまり話さなくなった。特に女子とは、必要最低限しか話さない。校庭にも、あまり行かなくなった。幸子以外の誰かと会うのが怖かった。幸子は、それを喜んだ。
「桜井、最近ずっと私といてくれるね」
「うん」
「嬉しい」
幸子が笑う。その笑顔を見ると、これでいいんだと思えた。でも、心のどこかで、小さな声がした。「これでいいのか?」その声を、俺は無視した。幸子が笑っているなら、それでいい。幸子が幸せなら、俺も幸せだ。そう自分に言い聞かせた。でも、息苦しさは消えなかった。
誰かと話すたびに、幸子の顔色を窺う。どこかに行くたびに、幸子の許可を得る。それが、当たり前になっていった。少しずつ、自分が自分じゃなくなっていく感覚があった。幸子といる時だけが、自分の居場所だった。でも、その居場所は、だんだん狭くなっていった。幸子の笑顔を守るために、俺は自分を削っていた。
それが、愛情だと思っていた。でも、本当は違った。それは、依存だった。お互いへの、歪んだ依存。幸子は俺を必要とし、俺は幸子に必要とされることを必要としていた。その関係が、少しずつ俺たちを縛っていく。でも、その時はまだ気づいていなかった。
ただ、息苦しさだけが、日に日に増していった。
「大丈夫。幸子だけでいい」
あの言葉が、後に俺を苦しめることになる。自分で言った言葉に、自分が縛られていく。それが、俺と幸子の関係だった。




