待つという選択
三浦尚央は、スマートフォンの画面を見つめたまま、動けずにいた。
通話終了の表示が消えても、指先はまだ微かに震えている。耳の奥に、桜井の声が残っていた。
——頼む。幸子を止めてほしい。
それは懇願だったのか、押しつけだったのか。三浦には分からない。ただ一つ確かなのは、桜井がもう幸子を自分の手では受け止めないということだけだった。
「幸子……」
無意識に名前が零れる。
中学の頃から、ずっと好きだった。
教室の窓際で笑う横顔も、体育祭で負けて悔しそうに唇を噛んだ顔も、全部覚えている。
けれど、幸子が見ていたのは、いつも桜井だった。
三浦はそれを知りながら、隣にいた。
親友として。相談相手として。都合のいい「安全地帯」として。
それでもよかった。
幸子が笑っていれば、それで十分だと思っていた。
——本当に?
胸の奥で、何かが小さく軋む。
今の幸子は、笑っていない。
桜井への執着に囚われ、白松の存在に怯え、何度も同じ場所をぐるぐると回っている。
このままでは壊れてしまう。
そう、思うのだ。
スマートフォンを握り直し、連絡先を開く。
幸子の名前を見つけるまでに、ほんの数秒かかった。その数秒がやけに長く感じられた。
発信。
コール音が、一定の間隔で鳴る。
「もしもし?」
少し掠れた声。
「俺、三浦」
「あ……どうしたの?」
警戒と戸惑いが混じった声音だった。
「話したいことがある。今から会えないか」
「今から?」
「ああ。大事な話だ」
沈黙。
その沈黙のあいだ、三浦は自分の鼓動を数えていた。
「……わかった。どこで?」
「駅前のカフェ。30分後」
「うん」
通話が切れる。
三浦はゆっくりと立ち上がった。
上着を羽織りながら、深く息を吐く。
これでいい。
今、動かなければいけない。
幸子を守るために。
——そして。
自分のために。
30分後、カフェの扉を押し開けると、幸子はすでに席に座っていた。
両手でカップを包み込み、どこか落ち着かない様子で入口を見ている。
「待った?」
「ううん。今来たところ」
その笑顔は、無理をしているのが分かる笑顔だった。
三浦は向かいに座る。
コーヒーを注文し、店内に流れる音楽と食器の触れ合う音を、しばらく無意味に聞いていた。
先に口を開いたのは三浦だった。
「幸子、桜井のこと、まだ好きなのか?」
幸子の肩が小さく跳ねる。
「急に、何?」
「答えてくれ」
視線を逸らさずに言うと、幸子は観念したように俯いた。
「……うん」
やっぱり。
胸の奥が、じくりと痛む。
「桜井から聞いた。お前、連絡してるんだってな」
幸子が顔を上げる。
「三浦、何聞いたの?」
「『諦められない』って送ったんだろ。『白松さんを見たい』って」
幸子の顔色が変わる。
「……それで、怒ってる?」
「怒ってない」
即答だった。
怒ってはいない。
少なくとも、そう思いたかった。
「ただ、心配してる」
「心配……?」
「ああ。このままじゃ、お前が壊れる」
幸子の目に、涙が滲む。
「わかってるよ……頭では。でも、気持ちが追いつかないの。忘れられなくて、どうしたらいいのか分からない」
震える声。
三浦は、その様子をじっと見つめた。
今だ、と思った。
「幸子、俺の話を聞いてくれ」
「何?」
「俺、お前のことが好きだ」
空気が止まる。
「……え?」
「中学の頃から、ずっと好きだった」
幸子の瞳が揺れる。
「でも言えなかった。お前が見てたのは、桜井だったから」
言葉にすると、思ったよりも静かだった。
もっと震えるかと思っていたのに。
「俺じゃダメか?」
自分でも驚くほど真っ直ぐな声が出た。
「時間がかかってもいい。何年でも待つ。お前が前を向くまで」
幸子の涙が溢れる。
「三浦……どうしてそこまで……」
「好きだからだよ」
それは嘘じゃない。
嘘じゃないけれど。
「だから、約束してくれ」
「……何?」
「桜井と白松さんには、もう連絡するな」
幸子が息を呑む。
「二人はもう進もうとしてる。お前が関わったら、誰も幸せになれない」
正論だった。
自分でも分かっている。
けれどその言葉の奥に、自分の願いが混ざっていることも、三浦は分かっていた。
「会いたくなったら……」
「俺に連絡しろ」
遮るように言う。
「俺が話を聞く。お前を一人にはしない」
幸子は、しばらく黙っていた。
やがて小さく頷く。
「……わかった。約束する」
三浦はほっと息を吐いた。
これでいい。
これで、少しずつ離れていける。
桜井から。
過去から。
そして——。
その日から、三浦は毎日連絡を入れた。
「今日どうだった?」
「ちゃんと食べてるか?」
「無理してないか?」
幸子は最初、短い返事しか返さなかった。
けれど3日目、4日目と続くうちに、少しずつ文章が長くなる。
「今日は少し眠れた」
「映画の予告見たら、ちょっと行きたくなった」
その変化が、嬉しかった。
自分が支えている。
自分が必要とされている。
水曜日、三浦は幸子を映画に誘った。
「週末、暇か?」
「うん……どうしたの?」
「映画でも見に行かないか」
数分後に届いた「いいよ」の文字を見て、胸が高鳴る。
週末、二人で並んで映画を見た。
スクリーンの光が幸子の横顔を照らす。
笑ったり、驚いたりするその表情を、三浦は盗み見る。
——俺の隣で笑っている。
それだけで満たされるはずだった。
けれど同時に、思う。
桜井と見たことはあるのか。
桜井と歩いた道を、俺はなぞっているだけなんじゃないか。
「また行こうか」
「うん」
幸子の微笑みに、胸の奥がざわつく。
この笑顔を、自分のものにしたい。
そう思った瞬間、自分の中の何かが、静かに形を変えた。
その夜、三浦は桜井に電話をかけた。
「幸子、少しずつ落ち着いてきてる」
「本当か?」
「ああ。でも、まだお前のことは好きだってさ」
わざと、そう言った。
沈黙の向こうで、桜井が息を呑む気配がする。
「でもな」
三浦は続ける。
「もう無理だってことも、分かり始めてる」
それは事実であり、願望でもあった。
「もう少し時間をくれ。俺が、変えてみせる」
電話を切ったあと、天井を見つめる。
幸子の笑顔が浮かぶ。
あの笑顔を守りたい。
——俺の隣で。
守ることと、手に入れること。その境界が、少しずつ曖昧になっていることに、三浦はまだ気づかないふりをしていた。




