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君と風の行方  作者: 月見饅頭
第三章

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27 病棟での出会い

 

 本館の前にある小さなベンチに腰を下ろし、ぼんやりと空を見上げていた。


 外の青空は無慈悲なくらいに澄んでいて、この病院―――—無機質で閉鎖的な場所の存在を際立たせているようだった。

 この病院に来て、何日が過ぎたのかもう分からない。

 男子閉鎖病棟、本館4階。俺の新しい住所とも言えるこの場所は、どこか別世界に切り離されたような場所だ。


 病院内はどこも冷たい空気に包まれていた。

 廊下の蛍光灯の光は、無表情なタイルの床に反射して眩しいほどだ。足音がやけに響き、静寂がそれをより一層際立たせている。


 壁に掛けられた案内板を見れば、1階は外来、2階は老人病棟、3階は女子閉鎖病棟、そして俺がいる4階―――—男子閉鎖病棟と記されている。


 俺がいる4階のフロアは、とにかく空気が重い。


 ドアや窓には頑丈な鍵がかかり、外界と完全に隔絶されたような閉塞感がある。患者たちはその閉ざされた空間の中で、無言のまま過ごしていることが多い。

 スタッフたちの態度も冷たい感じがする。


 淡々と仕事をこなし、必要以上の会話はしない。彼らの目は患者を見ているようで見ていない。まるで「ここはお前たちの居場所じゃない」とでも言いたげだった。


 俺の部屋も例外ではない。


 ベッド、小さな机、そして灰色の壁。そこには、色彩も温もりも存在しなかった。窓から見える景色は、無機質な庭とそれを囲む高い壁。その先にわずかに覗く青空だけが、ここにいる俺を外の世界とつないでいる唯一の存在だった。


 この場所にいると、自分がどんどん薄れていく感覚に陥る。


 期待や楽しみ、未来への希望―――—そういった感情がすべて奪われ、ただ「ここにいる」という事実だけが支配する。


 だからだろう。


 俺は、本館の前にある小さなベンチを好むようになった。病院の中で唯一、自分の感情が揺さぶられる場所だったから。


 その日も、ベンチに腰を下ろして空を見上げていた。


 青い空に浮かぶ雲、そしてその間を横切る飛行機雲。閉じ込められたこの場所とは無縁の自由を象徴しているようで、心が少しだけ軽くなる気がした。


 そんなとき、不意に頭上から声が降りてきた。


「君、何歳?」


 驚いて顔を上げると、3階病棟の窓から誰かが身を乗り出して俺を見下ろしていた。

 窓辺にいたのは、肩に流れる短い髪の女の子だった。


 白いパジャマが風に揺れていて、どこか無防備で儚げな印象を与える。その姿をぼんやり見上げていると、再び声が聞こえた。


「君、いくつなの?」

「えっと……17歳だけど」


 少し戸惑いながら答えると、彼女はふわりと笑った。


「私と同じだね」

 その笑顔に、思わず言葉を失った。


「名前は?」

 突然の質問に少し間が空く。


「……桜井。桜井悠人(さくらいゆうと)


 すると、彼女は窓枠に手をついて、身を乗り出しながら言った。


「私はカオル。東雲(しののめ)カオル」


 その名前にどこか不思議な響きを感じた。彼女の声は優しく、それでいて少し寂しげだった。


「ここで何してたの?」


 俺は肩をすくめながら答える。


「ただ座ってただけ。空でも見ようかなって」


 その答えを聞いたカオルは、小さく笑った。


「そっか。私も空、好きだよ。特に、こうやって高いところから見てると、どこまでも続いてる気がしていいよね」


 彼女の言葉に頷きながら、俺は再び空を見上げた。


 それからしばらく、俺たちは特に何かを話すでもなく、ただお互いの存在を感じていた。

 

 彼女は3階の窓から、俺は地上のベンチから――――まるで違う世界にいる人間同士のような、不思議な距離感だった。


「また、ここに来る?」


 カオルがそう問いかけてきたとき、俺は少し驚いた。


「……まあ、気が向いたら」


 そう答えると、彼女はふわりと微笑んだ。


「じゃあ、また話そうね、桜井くん」


 その声はどこか透明で、消えてしまいそうな儚さを感じさせた。


 俺は立ち上がって、病棟の入口へ向かいながら、ふと振り返った。

 カオルはまだ窓辺に立っていた。空を見上げている。白いパジャマが風にそっと揺れていた。


 その姿が、網膜に焼き付いた。


 4階の廊下に戻ると、また蛍光灯の白い光が出迎えた。

 足音が響く。どこかで誰かの咳が聞こえた。


 俺は自分の部屋のベッドに腰を下ろして、さっきまでのことを反芻した。


 3階の窓から、突然話しかけてきた女の子。東雲カオル。笑い方が、どこか白松さんに似ている気がした。同じ種類の温かさがあった。


 誰かの声を聞いて、こんなふうに胸が少し動いたのは、久しぶりだった。


 ここに来てから、感情がずっと薄くなっている気がしていた。嬉しいとか、楽しいとか、そういうものが届かなくなっていた。


 でも今、かすかに何かが動いた。

 それだけのことだった。でも、それで十分だった。


 窓の外に、空がまだ青かった。


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