28 ピアノの音
入院生活が始まってから、どれくらいの時間が経っただろう。
毎日が同じルーティンの繰り返しで、曜日の感覚すら曖昧になっていた。
けれど最近になって、俺の状態が少しだけ落ち着いてきたからか、医者から「講堂に行ってもいい」という許可が出た。
講堂といっても、広々とした大きなホールを想像するようなものじゃない。病院の一角にある小さなスペースで、ソファと本棚、そして隅に古びたピアノが置かれているらしい。
「たまには気分転換も必要だよ」と言われたものの、正直、あまり期待はしていなかった。
その日、俺はいつものように病棟を歩き回ることに飽きて、講堂に行ってみることにした。
廊下を抜け、重たい扉を押すと、ふと耳に届いたのは、静かなピアノの音だった。
柔らかく、けれどどこか切ないメロディが空気に溶け込んでいる。思わず足を止めた。
誰が弾いているんだ?
音を頼りにそっと講堂の中に入ると、ピアノの前に座っていたのはカオルだった。
3階の窓から俺に話しかけてきた、あの東雲カオルだ。
彼女は俺に気づかず、鍵盤を丁寧に叩きながら演奏を続けている。
その姿はどこか神聖ですらあって、俺は言葉を失った。
カオルが弾いていたのは、聞いたことのない曲だった。
流れるような旋律が耳に心地よく、それでいて、胸の奥を締めつけるような感覚を呼び起こす。
この病院で聴くには、あまりにも美しくて――――それがどこか不釣り合いに思えた。
曲が終わると、カオルはふと顔を上げた。そして俺の存在に気づく。
「……桜井くん?」
彼女の目が驚きで丸くなった。
「悪い、勝手に入ってきた」
俺は手を軽く挙げて言った。
「ううん、全然。どうぞ座って」
カオルはにっこり微笑みながら、ソファを指差した。俺はそのまま講堂の奥にあるソファに腰を下ろす。
「ピアノ、上手いんだな」
俺が言うと、カオルは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「小さい頃から弾いてたの。でも、最近は病院にいるから練習できなくて……指が鈍ってるかも」
「いや、そんな風には全然聞こえなかった。……すごく綺麗だったよ」
俺の言葉に、カオルは少し照れくさそうに笑った。
「桜井くんは、何か楽器とかやるの?」
カオルがそう尋ねてきたが、俺は首を振る。
「いや、そういうのは全然。音楽の授業でリコーダーを吹くくらいだな」
その返事に、カオルはクスクスと笑った。
「そっか。でも、音楽って聴くだけでも癒されるよね。私も弾いてると、不思議と落ち着くの」
彼女がそう言って、また鍵盤に手を置いた。そして静かに、新しい曲を弾き始めた。
ピアノの音色が講堂を満たしていく。
古びたピアノだからか、一部の鍵盤が少しだけかすれたような音を出す。それでも、カオルの演奏は素晴らしかった。
そのメロディに耳を傾けながら、俺はふと思った。
「こういう入院生活も有りなのかもしれない」
無機質な病院、冷たい廊下、淡々とした日常。ここには希望なんてないと思っていた。
けれど、こうしてカオルの弾くピアノを聴きながら、ゆったりとした時間を過ごしていると、この場所にも少しだけ温もりがあるように感じた。
「また、来る?」
曲が終わると、カオルが小首をかしげてそう聞いてきた。
「多分」
「じゃあ、次はもっと練習しておくね」
カオルは笑った。
俺も笑った。自分でも少し驚いた。こんな場所で笑うとは思っていなかった。
講堂を出ると、廊下の冷たい光が戻ってきた。
蛍光灯の白さ。タイルの床。足音の反響。
さっきまでいた場所との違いが、余計に際立った。
廊下を歩きながら、カオルの弾いていたメロディが頭の中で繰り返された。流れるような旋律。途中で寂しくなる部分。古いピアノのかすれた音。全部が、まだ耳の奥に残っていた。
部屋に戻って、ベッドに座った。
窓の外に、青い空が広がっていた。
この病院に来てから、青い空ばかり見ている気がする。でも今日の空は、昨日より少しだけ違って見えた。
何も変わっていないはずなのに。
ただ、ピアノの音を聴いただけなのに。
心が、少しだけ軽くなっていた。




