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病棟での出会い

 

 本館の前にある小さなベンチに腰を下ろし、ぼんやりと空を見上げていた。


 外の青空は無慈悲なくらいに澄んでいて、この病院――無機質で閉鎖的な場所の存在を際立たせているようだった。


 この病院に来て、何日が過ぎたのかもう分からない。


 男子閉鎖病棟、本館4階。俺の新しい住所とも言えるこの場所は、どこか別世界に切り離されたような場所だ。



 病院内はどこも冷たい空気に包まれていた。


 廊下の蛍光灯の光は、無表情なタイルの床に反射して眩しいほどだ。足音がやけに響き、静寂がそれをより一層際立たせている。


 壁に掛けられた案内板を見れば、1階は外来、2階は老人病棟、3階は女子閉鎖病棟、そして俺がいる4階――男子閉鎖病棟と記されている。


 俺がいる4階のフロアは、とにかく空気が重い。


 ドアや窓には頑丈な鍵がかかり、外界と完全に隔絶されたような閉塞感がある。患者たちはその閉ざされた空間の中で、無言のまま過ごしていることが多い。


 スタッフたちの態度も冷たい感じがする。


 淡々と仕事をこなし、必要以上の会話はしない。彼らの目は患者を見ているようで見ていない。まるで「ここはお前たちの居場所じゃない」とでも言いたげだった。


 俺の部屋も例外ではない。


 ベッド、小さな机、そして灰色の壁。そこには、色彩も温もりも存在しなかった。窓から見える景色は、無機質な庭とそれを囲む高い壁。その先にわずかに覗く青空だけが、ここにいる俺を外の世界とつないでいる唯一の存在だった。


 この場所にいると、自分がどんどん薄れていく感覚に陥る。


 期待や楽しみ、未来への希望――そういった感情がすべて奪われ、ただ「ここにいる」という事実だけが支配する。


 だからだろう。


 俺は、本館の前にある小さなベンチを好むようになった。病院の中で唯一、自分の感情が揺さぶられる場所だったから。


 その日も、ベンチに腰を下ろして空を見上げていた。


 青い空に浮かぶ雲、そしてその間を横切る飛行機雲。閉じ込められたこの場所とは無縁の自由を象徴しているようで、心が少しだけ軽くなる気がした。



 そんなとき、不意に頭上から声が降りてきた。



「君、何歳?」



 驚いて顔を上げると、3階病棟の窓から誰かが身を乗り出して俺を見下ろしていた。


 窓辺にいたのは、肩に流れる短い髪の女の子だった。


 白いパジャマが風に揺れていて、どこか無防備で儚げな印象を与える。その姿をぼんやり見上げていると、再び声が聞こえた。



「君、いくつなの?」



「えっと……17歳だけど」



 少し戸惑いながら答えると、彼女はふわりと笑った。



「私と同じだね」



 その笑顔に、思わず言葉を失った。



「名前は?」



 突然の質問に少し間が空く。



「……桜井。桜井悠人(さくらいゆうと)



 すると、彼女は窓枠に手をついて、身を乗り出しながら言った。



「私はカオル。東雲(しののめ)カオル」



 その名前にどこか不思議な響きを感じた。彼女の声は優しく、それでいて少し寂しげだった。



「ここで何してたの?」



 俺は肩をすくめながら答える。



「ただ座ってただけ。空でも見ようかなって」



 その答えを聞いたカオルは、小さく笑った。



「そっか。私も空、好きだよ。特に、こうやって高いところから見てると、どこまでも続いてる気がしていいよね」



 彼女の言葉に頷きながら、俺は再び空を見上げた。


 それからしばらく、俺たちは特に何かを話すでもなく、ただお互いの存在を感じていた。

 

 彼女は3階の窓から、俺は地上のベンチから――まるで違う世界にいる人間同士のような、不思議な距離感だった。



「また、ここに来る?」



 カオルがそう問いかけてきたとき、俺は少し驚いた。



「……まあ、気が向いたら」



 そう答えると、彼女はふわりと微笑んだ。



「じゃあ、また話そうね、桜井くん」



 その声はどこか透明で、消えてしまいそうな儚さを感じさせた。



 俺は立ち上がり、病棟の入口に向かう途中、ふと振り返った。

 カオルはまだ窓辺に立って、空を見上げている。



「東雲カオルか……」



 その名前を胸の中で反芻しながら、俺は静かに病棟の中に戻った。


 閉ざされた空間での生活の中で、あの短い会話はどこか特別なものだった。


 病院という無機質な場所にいるからこそ、彼女との言葉のやり取りが、わずかに心を温めてくれるように感じた。



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