軍師皇妃が軍師となるまで 肆
その知らせを燦韋が受けたのは、午後の訓練を始めようとしている時だった。
蕗春の姿が見当たらず、夕華にも頼んで探そうとしていた、そんな時。
その夕華が真っ青な顔をしてこちらに駆けてくるとともに、口にした言葉に。
「……え?」
燦韋は思わず、手にしていた木刀をカランと落とした。
それはひどく、空虚な音がした。
「――ん」
梨由がその目を開けても、そこはやはり闇だった。
だが然し目が慣れてくると、それが何か布のようなもので縛られているせいだと分かった。
首のあたりの鈍痛、体をよじった瞬間に手首と足首に奔った擦れるような感覚は、縄で縛られていることを梨由に教えてくれた。
一体何が、と梨由は記憶を辿る。
いつものように、無罪街を訪れ、そして――そして、何が起こった?
思い出そうとしたその刹那、誰かが、この小屋のような場所に入ってきた気配がした。
梨由は覚えず身を硬くした。
「目が、覚めたのか」
確信めいた問いは、聞き慣れた声のものだった。そう、よく聞き慣れた。
「黒韶……」
そうして、梨由の記憶は蘇る。
無罪街へ行った、梨由を襲ったあの――衝撃。
「どうしてこんなこと……固符は、蕗春は無事なの!?」
「しっ、静かに。今目隠しを外す……安心していい、二人とも無事だ」
いつもと変わらず、けれど出会った頃と違い崩れた口調。
過ごした時と親しみを感じさせたそれが、今は何より硬く遠いものに思えた。
「うっ……」
体が起こされて、スルリと布が解ける。薄暗い部屋の中、黒韶が持ち込んだらしい火の灯りが目を焼いて、梨由は何度も目を瞬いた。
視線を落とせば、すぐ近くに二人の少年の姿を見つけて、思わず安堵の息を吐く。
まだ眠ってはいるものの、大きな怪我もなかった。その胸が大きく、確かに動いている。……ちゃんと生きている。
梨由はそれから、ゆっくりと辺りを見回した。
覚えのある場所だった。
狭く暗く、然し整頓された小屋。
これは。
「師匠の……?」
「っ!」
梨由の言葉に、黒韶の肩が跳ねた。
梨由は前に向き直って黒韶をじっと見た。
「……教えて、答えて。何でこんなことするの」
痛む手首、それでも梨由がまっすぐに睨んで問えば、彼は目を逸らした。
黒韶は異様なほどに感情の抜けた、カラカラの表情をしていた。
「……皆は」
「みな?」
「皆は、梨由さまには何も知らせるべきでないと言った。何も知らない方が良いと……でも、おれはそうは思わない。あなたは知るべきだ」
「それは、どういう……?」
梨由が問うても、彼は所在なさげに瞳を彷徨わせるだけだった。
それからしばらくして、彼がようやく顔を上げた時。
その唇は覚悟を決めたとばかりに強く固く引き結ばれていた。
そうして紡がれた言葉は、
「……俺たちは、叛乱を起こす」
「え?」
さながら異国のそれのように、梨由の理解を阻むものだった。
黒韶は繰り返す。炭よりも闇よりも瞳を暗くして。
「国への、叛乱を」
それは、と梨由は声を失った。
反逆罪だ。紛れもなく、間違いもなく。
「どうして」
「それは」
黒韶は口籠った。無表情めいた仮面が剥がれて覗くのは……絶望?
途方にくれたような、嘆きよりもさらに深く、慟哭のようなものがそこにはあった。
覚えず息をのんで――それからハッと思い至る。
「そうだ、師匠は」
「ッ!」
「師匠は何処」
黒韶の視線が揺れる、心が大きく揺れている。
だけれど梨由はそれに構わなかった。構えなかった。
「師匠が、こんなこと許すわけがない……ねぇ黒韶、教えて。師匠は何処にいるの」
梨由は縛られたままの手と足とを引きずって、黒韶に迫った。
師匠の存在は梨由にとって、もはや彼らを止められる唯一の希望で、可能性だった。
だから。
「……あの方はもういない」
「何、言って」
「いなくなって、しまった。老師は殺された!」
「……え?」
それはもはや、言葉でなかった。
頭を殴られるよりもなお重い衝撃。
一瞬、梨由は世界がひどく静かになったように思った。
然し実際はあまりにも酷い耳鳴りのせいで、世界から音が失われただけのことだった。
だからほら、梨由の耳はこんなに近くにいる黒韶の声すら拾えない。
それでも、梨由の瞳は黒韶の唇の形を読みとって、音なき声を聞いてしまう。
『老師は逝ってしまわれた』
涙が一粒、眦を伝って落ちた。
母のことを思い出す。突然消えてしまった大切な人。
死というものの残酷さと理不尽さは、梨由とてよく知っている。
だけれども脳がそれを受け入れられなかった。
「どうして……?」
溢れるのはただ疑問の声だけだった。
あの時。
母の死を聞いたとき、必死に梨由の涙を止めたのは守るべき弟と、そして守ってくれる燦韋の存在だった。
然しここにはどちらもなかった。
ただ手足を縛る縄の痛みと、眠る二人の少年に触れる箇所から感じる熱が、梨由の理性を保たせ、そうしてこれが現実なのだと言っている。
「ころ、された? だれに? なぜ?」
「国の兵士に」
「そんな、ほんとうに」
身体の節々が、喉が、腕が脚が、痛んでいたし傷んでいた。だけれどそれ以上に頭がガンガンと割れるようだった。
「……先日、宰相が失脚したのを知っているだろう」
「あ……うん」
突然変わったように思える話に、梨由は訳も分からないまま頷いた。
「宮、が、随分と騒がしかった、から……」
「その者が国外に脱するのを助けたのは、俺たちだ」
「え、それって……」
「ああ、間違いなく罪だ。だが、おれたちは……無罪街の者たちは、長くこうしてやってきた。この国にいられなった者、それも己だけの罪でなく他人の罪や皇族の気まぐれでそうなった者の、命を救うために手引きしてきたんだ」
黒韶の瞳が揺れる。
無表情の仮面はとうとう割れて、溢れてきたのは絶望と苦悩の涙だった。
「逃がすだけだ、それだけだ。命を救うためのことだ。本当に罪を犯した者の手助けなどしたことはない。老師はいつもその人を見つめて、その人の言葉を真偽を見据えて、過たなかった、一度だって。なのに」
フッと涙のせいで言葉が切れた。乱暴に拭って、彼は続ける。
「昨日、そう、梨由さまが帰ってすぐのことだ。……官吏が来た。話をさせて欲しいと。おれたちは拒まなかった。老師が拒まなかったからだ。そいつは何かを老師に言って、老師は驚いたように一瞬目を見張って、嗚呼、そうして『了解した』と……」
黒韶はグッと溢れる涙を止めようとするように唇を噛んだ。血が出るほどに強く噛んだ。
然しそれも無駄だった。
涙はその血も飲み込んで流れ続けるばかりだった。
梨由は悟る。
黒韶とて、誰かに問いたくて堪らないのだ――どうして、なぜ、と。
「その日のうちに、老師は引きずられて連れて行かれた。動けぬ足が地面で擦れて……広場に連れて行かれた。兵士達がそこにいた。何もかも全て整えられていて……時はなかった。おれたちが何かを考え迷うよりも早く、罪人を逃したからと、その、剣が」
とうとう黒韶は崩れ落ちて地面に伏した。
聞こえる声は怨嗟のようで、だけれどそれ以上に哀しかった。
「どうすれば、良かった……? おれたちはどうするべきだったんだ? あの男を見捨てればよかったのか? おれたちと同じ境遇のあの男を? ……出来るわけがない。苦しみを、憎しみを、何より悲しみをおれたちは知っているのに! でも、そうすれば老師は死なずに済んだのか、死なないで、今も……」
それは言ってもどうしようもないことだっだ。
梨由は、あまりにも色々なことが一度に起こってしまった為に麻痺しかかった心で、だからこそ冷静なほどに、彼のその姿を見ていた。
「黒韶……」
「おれたちだって、死を知らないわけじゃない。むしろ、ここでは年に、月に、日に、多くの者が死んでいく。だけれど、それとは違うだろう? 老師が何をした、老師は何も悪くない」
「黒韶」
「老師は、おれたちの拠り所だったんだ、光だったんだ、温もりだったんだ。あの人がいたからここは無罪街だった、あの人がいたから、おれたちは」
「黒韶!」
何度も呼んで、漸く彼は顔を上げた。
時が止まったように言葉が絶えて、然し垂れる涙がその流れを示していた。
梨由よりずっと上背のある男が梨由をじっと見上げる姿は奇妙で、それ故に痛ましかった。
「だからこそ……だからこそ、叛乱なんてしちゃだめだ。黒韶、師匠はそんなの望まない、望むはずもない。師匠が死を受け入れたなら、それは……師匠の決断だ」
「分かっている!」
「分かっていない!」
梨由が怒鳴る。その剣幕に一瞬黒韶が怯んだ隙に、一気にまくし立てるように梨由は叫んだ。
「師匠は恐らく、あなた達の命を守って、背負って、死を選んだんだ! だって、そうだろう? 罪なら皆同じだったろうに! なのに、そうして守ってもらった命なのに、それを無為にさらしてどうする!」
「っ!」
「……私だって母が死んだ時、死にたくなった、生きることに意味を見いだせなくなった。でも、遺された者は生きるしかないのに、それしかできないのに、何故わざと捨てるような真似をするんだ!」
ハァハァと肩で息をして、梨由は言い切った。
嗚呼、と黒韶の口から息が漏れ、再び涙が勢いを増して流れていた。
「嗚呼、嗚呼、そのとおりだ、そのとおりなんだ。だが、もうどうしようもない。ないんだ」
「そんなことはない! 今からだって」
「いや……もう遅い。おれたちは先刻――梨由さまが眠っている時、すでに城に宣戦布告した……皇女を人質に、叛乱を起こすと」
ひゅっ、と梨由の喉が鳴った。
そんなことをしてしまっていたら。
そんなのは、本当にもう、どうしようもない。
梨由はぐらりと体が揺れるのを感じた。
壁に当たって何とか倒れずに済んだものの、それがなければきっと、床に転がってしまっていただろう。
「……何と」
「え?」
「何と言って、宣戦布告したの。何を要求して」
「……老師の、否、騰慈芳の名誉の回復を」
騰慈芳。
その名に梨由は覚えがある。
何十年も昔、民を救うために新法を出すも、諸侯などの特権階級からの強い反対を受け失敗し、挙句横領の罪を犯したとされ失脚したという……。
それが、彼らの言う老師で、梨由の慕う師匠ならば。
彼もまた、罪なき罪人だったというならば。
「せめてその罪を、汚名を、おれたちが雪がなければ――おれたちは老師に何一つとして報いることができない」
「望みは……それ、だけ?」
「おれたちが、他に何を望むというんだ」
黒韶は当然のようにそう言った。
それでも、後悔すら混じらせて、瞳は揺れた。
「他に、方法が思いつかなかったんだ。復讐、なんて、それこそ老師が望むとは思えなかった。ただ、あの方のために何かしたかった。何かをなしたかったんだ」
だけれど、そのやり方は間違いだ。
梨由には分かる。でも、言うことはできそうもない。だって、彼らの言い分は何一つとして間違っていないのだ。
彼らは純粋に、老師を思い偲んでいるだけだ。
梨由は何と言葉をかけるべきか迷った。
慰めでは足りない。自分の心さえ慰められないのに、ましてや人の心までなど。
追悼するには、梨由の心は未だ老師の死を受け入れられていなかった。本当に受け入れたなら、梨由とても目前の彼のように泣き喚いても足りないほどに、絶望と痛みを得るのは間違いなかった。
梨由が口を開きあぐねていると、ふと、周りが急に騒がしくなった。
梨由が最初、勘違いかと思う程だったそれは、大きく唸って音の波になっていった。
人の足音、叫び声、怒鳴り声――悲鳴。
まさか、と黒韶はよろよろと足を引きずって立ちあがる。
その時、バッと扉が開いた。
音と光はもはや凶器のように梨由たちを襲った。
「大変だ!」
男が入ってきて叫んだ。
その彼もまた、梨由の見慣れた者だった。無罪街の者だった。
彼は部屋のうちを覗いて、目隠しを解かれ、涙の跡を残した梨由の姿を認めた。
お前、と咎めるように黒韶を見たが、すぐに再び、大変だと言った。
「軍が」
「軍?」
「城の軍が出た」
「それは、つまり」
「……あいつら、ここのものを皆殺しにする気だ」
黒韶はその言葉に、思わず後ろを振り向いた。
縄で縛られたままの梨由と、そして幼い二人の少年。
無力さの象徴のような彼らを見る黒韶の目にあったのは、悲しみと、そして憐れみだ。
交渉すらなく軍が出てきた。そのことは、自分たちの思いが軽々と捨てられたことを示すだけではない。
もっとも残酷な結末を体現するものだ。
母に先立たれ、師匠は殺され、そうして親しんだ者たち――つまり自分達に――裏切られ利用されたこの、哀れな少女は。
血の繋がった父親からもまた、見捨てられたのだ。
非道い現実の、その一端を担う自分に悲しむ資格などないと分かりながら……それでも、喧騒が示している絶望に黒韶はもはや、涙を止める方法が分からなかった。
お待たせしました…!
この内容なので、何とか聖誕祭前に投稿できて良かったです。