リュンヌ狂詩曲4
「わたしじつは婚約するの。お相手は初めて会う方なのよ。……どんな人かしらね」
「え……?」
突如降り出した雨。屋根の下で雨粒をみつめながら憂鬱げな表情をするアリス。突然横から明かされた本日の目的に僕は驚愕した。
「きみ、まだ16だよね? お貴族様ってそんな年でもう婚約を?」
「いまが適齢期くらいかしら。婚約自体は生まれる前から決まっていたって珍しい話じゃないのよ。ただわたし、自信がなくて。お相手とうまくやっていけるか不安なのよ。わたしにとっては名前だけの婚約よ? お父様も勝手ね、年頃だからってわたしなんかに……釣り合う人なんていないわ。だからわたし、お父様に無理をいって延期してもらおうか悩んでいるの」
彼女は指先を膝の上でしきりに撫でている。ときどき手を組んだりと忙しない動きの様子から、彼女の心が透けて見えるようだった。
(そうか、心配なんだ……。理由はわからないけどアリスにとってはなにか懸念材料があるのかも)
とはいえそれが何なのかはわからない。案外マリッジ・ブルーのようなものかもしれないし、全然違うのかもしれない。
「お父さんが決めた相手なんだ、きっといい人だよ。それに人生は一度きりだ。こういう初挑戦もたまには悪くないんじゃないのかな。今は覚えがなくて不安だけど、案外、あとでよかった、そう思える日も来るかもよ」
僕は迷いなく彼女を勇気づけることにした。
それは彼女が僕より小柄なこともあったし、思わず目を引きつけられる可愛い子だったこともあった。だがなによりも、かつて家族と使用人という立場の変化で精神をやられていた自分の戸惑いを見ているような気がして、背を押してあげたくなったのだ。
言葉を聞いたアリスの目が濡れたように輝く。気づけばにわか雨は止み、雲の切れ間から太陽が顔をのぞかせていた。
庭先にかかったちいさな虹をみつめて、アリスがつぶやく。
「お見合い相手がルナだったらいいのに」むくれた彼女は頬をリスのように膨らませた。
「またまた。冗談でもそんなこと言っちゃいけないよ。きみにはきっとふさわしい人が待ってると、僕は思うけど?」
「ほんとに? ルナがそう思うなら顔合わせ……してみようかな。あなたの言うことも一理あるし、そうよね。一度だけの人生ですものね……うん、わたくしがんばってみる!!」
両脇を閉じて拳を固めた彼女にくすっと笑い、「僕も応援してる」と返した。
再び彼女の父親が戻ってきたのを確認すると、僕はアリスのお父さんに会釈をして別館の方へ足を引き返すのだった。
僕の使用人部屋の前にはなぜかゴーザさんがいた。執事長の彼は困惑した様子で僕に尋ねる。
「どこへ行っていたんですか? 食事が冷めてしまいますよ」
「ああじつは……」僕は先程起きた来客との遭遇をゴーザさんに説明した。最初こそ険悪なムードだったけどいい人たちでした、と報告するとゴーザさんの顔つきがみるみる険しいものに変化する。
「ルナ、ちょっと失礼」
通路に備え付けられていた電話をつなぐと、ゴーザさんはどこかへかけている。何事か早口で話すと、ええ、ええ、はいという言葉で受諾を了解しているようだ。
受話器をおいたゴーザさんは僕に指示を飛ばした。
「いますぐ身綺麗にして奥方様と合流するように。いいですね、すぐに、ですよ」
と言われ、僕はホコリだらけの服を脱いでシャワーを浴びて急いで着替えた。別の執事服へと着替え終わると待っていたエマ様がすぐに扉を開けた。僕はエマ様と連れ立って急ぎ足でどこかへと向かう。
歩きながらゴーザさんにもした説明をせがまれてすると、エマ様は一瞬たちくらみを起こしたような様子で通路脇にもたれかかった。そのまま僕の方を振り返ると、エマ様は黙ったまま僕をじっとみつめた。静かな瞳がゆっくりと揺れ動く。
「あの人の言ったとおりかしら」
エマ様のつぶやきにどうかしましたかと声をかける前に、彼女はみずから立ち上がると、よろけていたのが嘘のように、きびきびした様子で僕に問いかけた。なんらかの決意をにじませるような、そんな風体だった。
「ルナちゃん、あなたに頼みたいことがもう一つあるの。大事な用事だけど、付き合ってくれる?」
僕の答えはもちろん。
「はい、奥様。仰せのままに」
執事らしく、胸に手を当てて返答した。
「覚悟しててね」とエマ様が誰にともなくいう。
そうして連れてこられた場所は、ベルナルド家の中庭だった。珍しいことに、ベルナルド家の屋敷には観葉植物がひしめく温室が備え付けられたスペースがあり、大樹のゲートをくぐると大変おだやかな秘密の中庭が存在するのだ。今の季節は小さなコスモス畑が誕生し、青臭い芝生の絨毯の上には、すでにフレデリック様とリュカ様も揃っていた。僕の登場に目を見張ったリュカ様。驚いたのは僕も同じだ。リュカ様は燕尾服を着ている。窮屈そうにネクタイをいじっている姿からは、これから厳かな催しがあるのか、いつもよりこわばった表情にみえた。
「奥様、お早く」カメラを持った男がドレス姿のエマ様を促す。
エマ様は仰天する僕を背後に集合している男女の輪の中へと入っていった。そこには先ほど出会ったアリスと彼女の父オスカーさんもなぜかいた。
(この状況は一体……?)
周囲にはカメラマンと思しき人間が控えており、その助手やメイク道具を持ったアーティストまでいるようだ。どこか張り詰めた空気感に、胸がわけもなく苦しくなった。
フレデリック様とも目が合うも、彼は苦笑いをするだけで、僕の方へいつものようにフランクな形で近づいてくることはなかった。
おそるおそるエマ様をみつめるも、振り返ったエマ様は柔らかい笑みを浮かべるのみ。胸に当てた手はさきほどまで僕を導いていたというのに、どこか落ち着きがないようにも映った。
「それでは撮りまーす。3、2、……!」
閃光が一瞬出現した。僕の頭の中にも固まった男女の絵が現れた。
その画を見て僕は動揺する。
「それではもう一枚……」
「待ってくれ」
つつがなく進行していく眼の前の景色。そこに待ったをかけたのはリュカ様だった。彼は正面で、隣にいるアリスの固い顔をほぐすようにやさしく声をかける。
「大丈夫ですか? もしよかったらアリスさん、腕を」
「ありがとうリュカさん」
好青年の腕に腕をかけてはにかむ美少女。その姿のふさわしいことといったら――……。
僕はごくりと口の中のつばを飲み込んだ。
頭の中は混乱で真っ白だった。
カメラマンの指示で並ぶ皆を前にみているだけの自分。パシャリ、パシャリ、またいくつかの絵が現れた。
『わたしじつは婚約するの。お相手は初めて会う方なのよ。……どんな人かしらね』
『ほんとに? ルナがそう思うなら顔合わせ……してみようかな。あなたの言うことも一理あるし、そうよね。一度だけの人生ですものね……うん、わたくしがんばってみる!!』
(僕が、背中を押さなければ――?)
「はい、これで記念撮影は終了です。皆様ありがとうございました」
関係者一同の拍手が轟いた頃、僕は意識を取り戻した。そんな僕の前にエマ様が足早にやってくる。彼女は母親らしくリュカ様の晴れ姿に涙を浮かべ喜んでいた。
「ふたりの婚約を記念して今日という日を撮影しておくことになったの。ルナちゃんも覚えていてあげてね。あなたの未来の主人と、その妻となる、リュカとアリスちゃんの記念日を」
(うそだ……)
僕の頭の中で出来上がっていたのは、隙のない、あまりにも完璧な家族写真――。




