レッスンの続きはご褒美のあとで1
強風から一夜明け、別荘の玄関から空を見上げた。空は、気が滅入るようなモノトーン、ではなく清々しいツユクサのような快晴が、僕らを見下ろしていた。ただし本日のリュカ様はといえば入道雲のように悶々と昨夜を過ごした様子で、目の下には例によって例のごとく、くすんだクマができていた。いっそリュカ様の不健康さをあらわす目元が愛おしく感じてしまうのだが、おかしいだろうか……いや、おかしいなこれ。
靴紐も結びきれていないリュカ様を引っ張るように連れ出す。南国風のディスプレイにあったガジュマルに手をかけながらリュカ様は文句を言っている。まごまごする彼を背中から押すと、諦めたように肩を落とし、うながされるままとなった。
(よーし、やるぞー!! リュカ様のために、僕、がんばります!)
さてさて。そんなわけで、海岸沿いのプールに到着した僕たち。整備された水槽の中は、昨日とは打って変わり、おだやかそのもの。波も風も立たない凪いだ水面にうなずくと、僕はさっそく無人の小屋へと向かった。もちろん、リュカ様の手を引っ張って。
駆け足気味に海パンに着替え終わった僕とは違い、リュカ様は中でまだ迷っているようだ。背中は押すだけ押したので、あとは待つだけ。
別荘を出る直前まで、リュカ様は気乗りしない後ろ姿で、延々と靴下の柄について迷っている風だった。僕が声を掛けても気もそぞろだったところをみるに、やはり、勇気が出ないらしい。
(気持ちはわかるんだけど……)
彼には悪いがもうちょっと乗り気になってもらえるとありがたいと、気づけば空笑いを浮かべて手元をみていた。というのも、僕らは今日から、秘密の特訓をするのだ! 言い換えればリハビリ、といってもいい。目的はもちろん、リュカ様のトラウマ克服である。
(そうだ! どうせなら……)
僕はリュカ様を待つ間、プールのヘリの階段から中に下りていく。ちゃぷちゃぷと踊るように跳ねた水面をみていると昨日の続きがよぎった。
リュカ様によって助け出されたあとのこと。
トラウマと重なる状況下で精神が引きずられ、つよい責任感からか、固い殻に閉じこもってしまったリュカ様。彼の昏い目を日向に引き上げたあと、『じゃあ治しますか?』と、僕は目尻を上げてたしかに笑いかけたのだった。
「はっ……」
リュカ様は、言葉をうまく繋げない様子で固まっていた。よほど予想外だったらしくみえる。
問いかけに、最初こそ、答えられなかった。目を数度瞬いて、質問の意図を考えあぐねている様子で。
頭の中ではなんども反芻したのかもしれない。
僕は黙って見守った。その間、カバンの中を漁って食べるものを探した。落ちて体力を使ったこともあり、お腹が空いていたのだ。しかし食べられそうなものは入っていなかった。僕が指を咥える思いで空腹をがまんしていると、リュカ様が動き出した。
さっきの発言に対して考える間をおいていたリュカ様だが、髪の毛をかきあげると深呼吸を何度もして――……。
「なお……す」というためらちがちな小声の宣言が、僕の耳にも届いたのだった。
そして現在まで戻る。
提案した手前、なにも成果なしとはいかない。やるならば徹底的に、だよね!
そして、昨日あれから色々な作戦を考えてきた。それがこの――。
「浮輪って意外と重いよな。まして現地でやればいいのに……。狭い部屋の中で膨らませるやつがいるから、せっかくちいさめなサイズを買ったのに、持ち運ぶなら意味なくないか?」
「ううう、うるさいですね! 息で疲れなくてよかったでしょう!」
「行きで疲れてんだよ!! ったく」
「うー、だって柄がかわいかったんですもん」
「柄はな。だが論点がズレてる。結局持ち運ぶのに邪魔だったって言ってんだ」
(む。かわいくない正論)
そりゃビード版の方が板一枚だ。持っていくのもカンタンだし、屋敷の倉庫で眠ることになってもかさばらない。でもでも、露店でつられてたハチドリとサルビアの柄の浮輪の方が断然可愛い! どうせ遊ぶ……じゃない、特訓でも見た目にも楽しい方がいいはずなのだ、……たぶん。
と、僕は内心で声に出せない言い訳をした。たしかに小型であった意味はないかもしれないが。
「……文句は十分ですよ! 気を取り直して、さあ、僕のとこまで来てください!」
「うっ……」
「露骨に嫌な顔されると悲しいんですが!!」
「わるかったな! だがこの水は……」
僕は両手を広げて、オレンジ色の浮輪を持ったまま黒い海パン姿のリュカ様をプールの中から出迎えた。だがここで違和感に気づく。なんとリュカ様、薄着を羽織っているのだ。
「濡れるのに羽織るものはいらないでしょう!? さあさ、脱いだ脱いだ」
「なんかお前ノリノリだな……、っわかったよ」
言われたリュカ様はプールサイドに日焼けや肌寒さ防止の効果のついた上着を脱いで、ヘリから階段を下り、て……。
(なんだ、意外とスムーズ。って、ん?)
下りきれなかった。
「むりだ。これ以上下がると落ちる……」
リュカ様の表情が怪しい。心なしか、はしごにつかまる腕も震えている気がする。
「落ちませんって!! 大丈夫です、ここ、僕でも足がつくプールですから!」
「だが上から見ると水かさがある……ようにみえる」
(え、ええ!? 水かさ? まさかこんなところでつまずくなんて!!)
一応、水中に入ってからの特訓用に道具一式はある。泳いで楽しさを思い出してもらおうとビーチボールや水中メガネ、その他諸々はカバンに入れてある。水が怖いとはいってもまさか脚をつけることすらできないなんて予想外だった。シャワーは大丈夫だし、お風呂だって問題ない。それなのにプールはだめ? リュカ様の判断基準が、正直わからない。
もしかして、あったかいのは平気でもつめたいとだめなのか? でもでもこのプールを温めるなんて僕には不可能だ。それにいくらお湯なら平気って、それは克服したことになるのかな、うーん。
「百面相してるとこ悪いが、一旦上がってもいいか? どうにも気分が……」
「え、あ、はい! もちろんです」
リュカ様は渋面のまま金属製の階段を上がっていく。磨き上げられたはしごの手すりを僕は呆然と見つめるのだった。




