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ミニュイの祭日  作者: 月岡夜宵
前章 星降る夜(ニュイ・エトワレ)

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プール・フー・ループ2

 海面すれすれにいるせいか、わずかな音を耳が拾った。水特有のごぽごぽという音に紛れる、だれかの発話。リュカ様しかありえないが、揺れる水面では人影すらろくに確認できない。


『まってろ』、そういう内容だったと思う。僕の全身は総毛立った。


『来ちゃダメです!』なんて返事もできぬまま、波の間で揺れることしかできない。涙すら凍るような思いのなか、ただ彼を止めるにはどうすればいいか考えた。残念ながら僕にはできることがない。どれだけ計算してもうまい解決案はでそうにない。せめて彼だけでも助かってほしいのに……。やはり(こんなところ)になんて連れてくるんじゃなか――――。





 ぽちゃん。

 眼の前であがる水飛沫。

 海面になにかが投げ込まれたようだ。僕は目で追ったあと、必死にその糸に手を伸ばした。神様が垂らしてくれた、たった一筋の希望を掴むために。





 岸に上がるまで、糸が切断されることはなかった。絶望からゆっくりと這い上がるのと同じくして、温かいてのひらが、僕を迎える。救助してくれたのは他でもない。リュカ様だった。

 最後の最後はもう力が入らず、リュカ様のわなわなと震える手にすがるほかなかった。捕まえて引っ張り上げた力強さに、もう感動が止まらなかった。

 あの糸はリュカ様の投げた救助用の浮輪のロープだそう。小屋に眠っていたのをとっさに彼が掘り起こしたらしい。僕にとっては本物の命綱となった。







 そうして今、呼吸を整えるまで、手を後ろについて天に顔を向けている。リュカ様がかけてくれたバスタオルをかけて仰向けで、僕は自分が生きている実感を覚えていた。頬をなでるのは、冷たい波しぶきではなく、やさしく吹き抜ける風だ。


 自分の姿を二度見して、放置されたままだったカバンにかけよる。僕はいそいそと着替えのかわりに、持ってきていた水着に着替えた。


(よかった……、またおひさまを浴びてる)


 じんわりと額を照らす日光がある。ひかりの暖かさを感じながら、僕の目ははたと恩人にとまった。翳りのある瞳がひたとこちらに向けられていたのだ。


 ぞっとするほど恐ろしいと思ったのは、まるで海で見た水底のように、暗くよどむリュカ様の目。視線を外すことなく僕をみてはいるが、どうにも違和感を覚える。募る焦りから、僕は声をかけた。


「よかったですね、綱のおかげでたすかり……」

「よかった、だと!? バカを言うな! お前っ、自分がどれほど危険な状況だったかわかっているのか!」


 言葉を続けようとした僕だが、かぶせるように怒声が飛んできた。

 肩がびくんと跳ねてしまう。思わず後退しようと伸びた腕を必死に縫い止める。


(なんだこれ)


 僕の体は動悸がしていた。なんだかわからないが、とてつもなく嫌な予感がする。さっきから心臓の鼓動が鳴り止まない。

 それでも意を決し、軽い叱責に閉じてしまった目を開く。彼は自身の顔をおおって膝から地面に座り込んでしまった。首を左右に振りながらだんまりを決め込む、リュカ様。ただ時折、風に乗って運ばれる音には、なにかしら独り言をこぼしているようにも聞こえた。


(これは……まずいぞ)


 この時、ようやく、僕はしでかしたしくじりの大きさに気づく。





 最近のリュカ様は調子がよかった。すこぶる上機嫌で、いつだって屈託なく笑っていた。その姿は従者の僕から見ても心身とも健康そのものに思えた。


 だがそうではなかったらしい。


 普段は自信家なはずのリュカ様だが、精神的な深い傷を、欠点となったトラウマがえぐっている。知らず知らずプレッシャーとなっているらしく、一人で抱えて思いつめていたようだ。焦る気持ちもわからんではないが、もっとゆったりと向き合ってもいいと、いや、そんなのは部外者の勝手な決めつけか。過去の嫌な記憶を追体験しているように、彼の体は海に落ちた僕よりも震えていた。


 豊かな自然で健やかに過ごすはずだったバカンスは、もしかしたら僕のせいで水泡に帰すかもしれない。


 危うい均衡を前に、ごくりと、乾いた生唾を飲み込んだ。

 彼をこのまま帰してはいけない、そんな気がひしひしとうなじを伝う。


「助けられなかった。俺はッ、ここまでッ、くそ! なんのためにやってきたんだ!? どうしてこんなことすら……っ」


 やばいぞ、口に出している内容まで支離滅裂になってきた。ぼさっと立っている僕も悪いが、リュカ様はその後も「無理だ」とか「もう駄目だ」と気落ちし、こっちらが心配になるほどやさぐれてしまった。口元はぎりぎり笑っているが、その目は虚ろで、精神がどこかへ行ってしまったかのよう。いつになく意気消沈していたリュカ様に声をかけづらいまま、彼は脚を抱えて重たい殻に閉じこもってしまった。


 ――すくいだせるイメージが、まったくしなかった。


 どこから、彼の蓋をこじ開ければいい? 僕は、喉元まで出かかっている言葉を飲み込んだ。気休めの言葉などここでは焼け石に水だ。ただの言葉なんかじゃ意味がない。ためらう僕は底抜けに明るいグリーンのズボンのすそで何度も手を拭った。汗ばむ手がよけいに気持ち悪い。焦っても焦っても言葉は詰まるばかりで思考はどんどん混迷と化した。


 それでもなんとか手を伸ばそうとした。そう思った僕だったが、ふと、汗まみれの手をみつめた。


 思い出す。そうだ、あの時。僕が、手を伸ばしたのは、伸ばされていたからで。だからやっぱり、リュカ様は僕のことを全力で助けようとしてくれたのだ。たとえ踏み出す勇気はなくとも、たしかに、彼はこちらに手を差し伸べていたのだ。必死な形相も、今となっては想像に難くない。


 勇気がなく意気地なしなのは僕のほうだ。閉じこもったリュカ様を引きずり出すには、その殻で傷つくことを厭うなんてできない。たとえば、リュカ様から吐かれる言葉が――。


「リュカ様、ありがとうございました。僕のこと、たすけてくれて」

「……ちがう! 俺は、俺はなにも…………」と、彼は首を左右に振って即座に否定する。


 そんなリュカ様を痛ましい気持ちでみながら僕はぐっと踏み込んだ。


「でも、だから言います。僕は、……――リュカ様には来てほしくないって思った」

「は?」

(あ。こっちみた)


 なんて現実感のないことを思いつつ僕はこの機会を逃さないよう彼を捕まえにかかる。魂が逃げてしまうというなら追いかけるだけだ。捕まえて抱き込んで羽交い締めにしてでも、逃さない。


「リュカ様まで海に入って来てしまったらと思うと怖くてどうしょうもなかった」、僕は素直な気持ちを吐露した。


 言葉も届かない場所に、今リュカ様はいる。いるかも、しれない。


 楽しい夏の思い出にハプニングは残念ながら起きてしまった。それはもう仕方ないと僕は切り替える。水がかかった彼のシャツ、そでをつかんでグッと彼の体を引き寄せた。リュカ様は焦った顔をしたまま、僕の腕の中に。すとんと心臓が落っこちた気分だ。胸の上、彼のたくましい胸板が当たる。とくとくと心地いい心音を刻むのに、不愉快なぐらいうるさい頭の中。膝を突き合わせて座る格好で、情けないことに、僕の膝は笑っていた。これから飛び出すリュカ様の拒絶に備えて。


「僕は」と言いかけた瞬間、かぶせるようにリュカ様の口から本音が漏れ聞こえてきた。

「お前が危険な目に遭ってるってのに、俺は約立たずだ。ルナがどんどん沖合に流されていくのに、海が怖くて、飛び込めなかった。何度頭が沈むたび、生きた心地がしなかった。ほんとに、死ぬかと思った。いや、いっそ自分こそ死んでしまえと思ったんだ……」


 責任感のある彼だから余計に思い詰めている。そんな、さらさらの黒髪をかっこいい耳にかけてあげる。彼の頭頂部をなでながらそっとキスを落とす。かごの中でされたように、ただ親愛をこめて、祈りを贈る。


「ふふ、飛び込む方がだめって習いませんでした?」

「ハッ、言葉遊びで十分だ。こんなのが主人じゃ従者だって……」

「そうですね。笑われちゃうかもしれませんね! なら、一緒に笑われます。主人が笑いものにされるなら、僕らもみんな一緒にばかにされてやりますよ!!」と鼻をかいて笑ってやった。

「なにばかなことを……。お前はそれでよくてもほかのやつらは」

「僕だけじゃ、不満なんですね。でもそれが、あなたらしいや」


 リュカ様の答えにちょっぴり泣きたくなった。自信満々に打ち出した言葉だが、彼は不服そうだ。リュカ様と一緒ならどんな地獄も耐えぬけると本気で言葉にしたというのに。でも、彼は僕が思う以上に繊細な人だから、そんな場所に落ち込むことがないよう、僕は精一杯あがく。導く、なんて言葉にすればカンタンだけど、腕を引く目的地さえ僕にはみえない。それでも彼の腕だけは離さない。


 と同時に、やっぱりリュカ様はやさしいなと僕は思った。とげとげしくみえる彼の固い殻も、己の内側を傷つけることはあっても、外側にいる人間には向かない。鋭い言葉で追い詰めるのも全部僕が原因だと思えば、ちょっぴりうれしいだなんて、僕は鬼畜だろうか。


 リュカ様ごとやさしく包むように、そっと手に手をかぶせる。恐怖で動けなかった己を責める主人を、涙の膜ごしに見る。悲壮な告白は、間違いなく、懺悔だろう。彼がこうして弱さをさらけ出せるなら、僕はいつだって、その胸のうちを聞いてあげたい。


「俺は、不能なんだ。お前だってわかってるだろ。こんなの貴族失格だ。海が怖くて、まともに眠れないなんて……。お前だっておかしいって理解してるだろ!?」

「それが?」

「はあ? だから、こんなのはおかしいって」

「どこも異常じゃありません」

「嘘だ!! 本当はお前だって笑って……」

「なら笑います。あなたが笑えっていうならいくらでも僕は笑い飛ばしますよ。僕の覚悟を舐めないでください」


 うつむいていたリュカ様の顔に両手を当てる。ほっぺたに熱が移った頃、リュカ様がこちらを見た。やはり目も表情も、まだ暗い。その姿を見て、ぽろっと、僕は思わず泣いていた。自分の身がいくら無事でもこれでは安堵できない。必死に対話を続けて糸口を探す。リュカ様を昏い深海から救おうと、必死に。


 首をかしげるリュカ様に、僕は補足した。


「笑い飛ばせます、でも、そうじゃないでしょ。あなたが必要としているのは笑い飛ばすことでも、ううん、そもそもこんな慰めじゃあないんです」


 僕は花を手折るように歩みつつ、寄り添う選択肢を選んでいく。リュカ様を抱き寄せて、彼に頬ずりをする。さすがにちょっと恥ずかしいけれど、そんな照れ隠しもみえないよう、彼にすり寄る。


「ね、僕の心音、聴こえますよね。ちゃんと生きてます。だから安心してください。僕は、どこにも行っちゃったりしませんから」

「肝が冷えたんだ……ほんとだ」、リュカ様は僕をがしっと力いっぱい抱きしめる。


 大胆な抱擁に僕はおおげさに動揺した。けれど抱きしめてつぶやかれた言葉を前に動けなくなった。


 リュカ様の口から嗚咽が漏れる。涙ぐむ瞳からぱたぱたと透明な粒が落ちていく。落下していく宝石より輝かしいそれを、僕はおとなしくみつめていた。その間も彼の背中をゆっくりと叩き続けて。まるで赤ちゃんをあやすような手付きなのは、まだ冷静になりきれてないリュカ様の緊張を解きほぐすためだ。徐々にだが、そうしているとリュカ様の口からすんなりと言葉が出てくるようになった。支離滅裂ってこともないし、一安心だ。


『生きてる……』と、存在を確かめるような感触に、僕も抱擁を返す。

 予断を許さぬ状況は、ひとまず脱しただろうか。難破船に希望が差した。





「くしゅん!」

「――寒いのか!?」

「へい、き……ふえええぅしゅん!!」


 安心したせいか、ふれあいという大切な応急手当中だったのにド派手なくしゃみが出てしまった。リュカ様の涙も引っ込む、壮大な破裂音。申し訳ない僕は、顔を伏せながらリュカ様の身をもじもじと引きはがす。


「いや、もう大丈夫だ。お前のおかげで……たすかった。ありがと、ルナ」


 終わってしまうのも名残惜しいが、時間も時間だ。僕はそそくさと置いてあったかばんを拾う。

 すまない、早く治せればこんなこと……、と後ろから再度謝罪が聞こえる。だがその部分は無視して振り返った。悔しがる彼の口からはたしかに、治したいという希望が聞こえたから。


「じゃあ治しますか?」、僕は目元を和らげて彼に笑いかけた。

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