第8話 エスメラルダの陰湿
長い荷馬車の列が、北方街道を南へ進んでいた。
馬車の車輪が、乾いた土を踏む。
揺れる荷台の脇で、若い兵のトマが落ち着きなく周囲を見回していた。
「旦那様……本当に、このまま王都まで行けるのでしょうか」
「ん?」
「その……途中で、襲われたりは」
「まあ、狙われるだろうな」
「や、やっぱり……!」
トマの顔が青くなった。
「ど、どうするんですか。見つかったら……」
「……お前、護衛だろ」
「で、ですが……この先の領境ごとに、王都側の兵が待ち受けていたら……」
「そこは問題ない」
「え?」
トマが目を瞬かせた、その時だった。
前方の領境に、十数騎の兵が出ているのが見えた。
「旦那様……!」
「落ち着け」
バーデンが、馬上から目を細める。
「槍は構えていないし、道を塞いでいるわけでもないわね」
兵たちは、街道の脇に控えているだけだった。
先頭にいた痩せた中年の男が、馬を進めてくる。
俺は軽く手を上げた。
「クラウゼン子爵。ご無沙汰しております」
「ご無沙汰、ではありませんよ」
子爵は、馬からよっこらしょと降りた。
昔から腰が悪いのだ。
「王都から通達が来たんです。北方男爵家が第二王子殿下を抱え込み、さらに国王陛下の暗殺に関わる疑いあり、と。これを聞かされたこちらの身にもなってください」
「いやぁ、俺も胃が痛いです」
「何が胃が痛いですか。あなた、自分が思っているより図太いのですよ」
「意外と繊細なんです」
「嘘をおっしゃい」
子爵は深くため息をついた。
「それで? 本当に第二王子殿下はご一緒なのですか」
「ああ」
その時、子爵の視線が俺の後ろへ向いた。
荷馬車の一台から、レオン殿下が降りてくる。
「クラウゼン子爵、お久しぶりです」
「覚えておいででしたか」
俺は、レオン殿下とクラウゼン子爵を交互に見た。
「知り合いだったのか?」
「以前、街道沿いの税と宿駅の視察に参りました」
「殿下は、あの時、わたくしどものような小領主の愚痴まで、最後まで聞いてくださいましたな」
「必要な話でしたから」
「王都の方は、普通そうはおっしゃらない」
子爵は馬の首を軽く撫でながら、苦々しく笑った。
「あの方々は、商人が通る橋を誰が直していると思っておられるのか。宿駅の屋根ひとつ替えるにも金がかかるのですぞ」
「……それは、私も北方で学びました」
レオン殿下は、苦い笑みを浮かべた。
「ああ、そうだ。男爵殿。王宮からの通達には、北方男爵家の荷と随行者を留め置き、書類と積荷を確認せよとありました」
「でしょうなぁ」
「ですので、ここで一度、留め置きます」
「もちろん」
子爵は、書類の束に目を通し、荷台を一台ずつ眺めた。
兵たちも、形ばかりに荷台の外を確かめていく。
やがて、子爵は大きく頷いた。
「確認しました。当領は、王宮の通達に従いました」
バーデンがくっくと笑った。
「言葉遊びが上手ですねぇ」
「地方諸侯は、言葉遊びくらいできなければ生き残れません」
「まったくだ」
クラウゼン子爵は、レオン殿下へ向き直った。
「申し訳ございません。力になれず。ここで当家が兵を出せば、王都に口実を与え――」
「クラウゼン子爵」
レオン殿下が、その言葉を遮った。
「あなたは、領地のことを一番に考えてください」
「殿下……」
「私のために、危うくする必要はありません」
クラウゼン子爵は、しばらくレオン殿下を見つめてから、深く頭を下げた。
「……では、どうぞお通りください」
レオン殿下も、頭を下げた。
「感謝します」
その様子を見ていたトマが、ぼそりと呟いた。
「……旦那様、子爵様とずいぶん親しいんですね」
「そりゃあ、荷を送るにあたって世話になるからな」
「そうでしたね。クラウゼン領の宿駅は使わせてもらってますし、橋の修繕でも――」
「物流知識チートで俺は知っている」
「?」
「物流は信用がないと成り立たんのだ」
「はぁ……」
「合ってるけどぉ、旦那様。時折、変なこと言うわよねぇ」
「いいだろ、別に。大事なことだ」
実際、俺は荷が通る領地や、周辺の領地にはかなり気を使ってきた。
街道沿いの小領主には、通行税の取り分をきちんと払い、宿駅を整備する時も、隣領にも利益が出るようにしている。
相手領の祭りや冠婚葬祭にも、なるべく贈り物を出してきた。
まあ、その贈り物を選んでいるのは、だいたいリエネかレオノーラだが。
以前、相手領の令嬢の成人祝いに贈り物を用意して以降、担当が変わってしまった。
何故だ?
上等な手荒れ止めの軟膏だったのに。
香りなんて薔薇だぞ。
「男爵殿、馬糧と湯を用意させてあります。負傷兵を乗せた馬車は、宿で休ませなさい」
「助かる」
「それと……王都へ報告は出します」
「当然だ」
「ですが、少し時間がかかるでしょうな。うちの伝令馬は、最近どうにも足が鈍くて」
バーデンが頬に手を当てた。
「あら、大変」
「ええ。困ったものです」
俺は、クラウゼン子爵を見た。
「借りができたな」
「いいえ」
子爵は首を振った。
「三年前の橋の分です。これで、少しは返したことになりますかな」
◆
クラウゼン領の宿駅で、俺たちは短い休憩を取ることになった。
トマは負傷兵に水を配りながら、いちいち街道の方を気にしていた。
ギデオンは馬の数と護衛の配置を淡々と書き留め、バルドは開けた所で背を伸ばしていた。
俺は軒先で椀を受け取りながら、少し離れた場所に立つレオン殿下へ声をかけた。
「まさか、こんな端っこの小領主の愚痴まで聞きに来ていたとはなぁ」
レオン殿下は、苦笑した。
「父王が命じたのです。街道の実情を見てこい、と」
「……それ、王子のする仕事か?」
正直、俺は王族が何をしているのか、よく知らない。
長い卓を挟んで、重苦しい顔で話し合いをしている。俺の中の王族の仕事は、だいたいそんな感じだった。
「……私も、最初はそう思いました」
「お前すら、そう思ったのか」
「はい。けれど父王は、王都で決めたことが、どこで誰の手間になるのか、自分の目で見てこい、と」
「確かになぁ」
前世でもそうだった。
マニュアルを読めば分かる、と先輩は言う。
だが実際にやってみると、全然違う。
荷物は予定通りに届かないし、道は混むし、担当者は急に休むし、なぜか伝票だけ行方不明になる。
現場を見なきゃ分からんことは多い。
しかし、それを王子に学ばせるって……。
「陛下って、教育熱心だったのかねぇ」
横から声がして見ると、バーデンが干し肉をかじりながら近づいてきていた。
「食べる?」
「お、ありがとな」
俺は干し肉を受け取った。
「陛下のこと、意外だったのか?」
「酒場をやっていると、嫌でも耳に入るのよ。陛下のお話も、王宮のお話もねぇ」
「どんな話だ?」
バーデンは肩をすくめた。
「優しいけれど押しが弱い。人は悪くないけれど、王妃様や古い貴族たちに押されがち。決めるのが遅い。強く出られない、とか」
「……全然、褒めてはいないな」
「でしょう。だから意外だったのよ。そんな王様が、子どもに領主の愚痴を聞かせるなんてねぇ」
「しかしなぁ……子供の教育に対しては別物なんじゃないのか?」
俺がそう言うと、バーデンは干し肉をかじったまま首を傾げた。
「親ってのは、子供に期待するもんだ」
「あら。子を持つ親の言葉って感じ」
「だろ?」
レオン殿下は、何も言わず宿駅の方へ視線を向けていた。
「……仰る通り、父王は弱い王でした」
俺は、椀を持つ手を止めた。
「王宮では、あまり強く出られない方でした。王妃陛下にも、兄上を推す者たちにも」
「……」
「けれど……今思えば、父王の周りには、不思議と悪くない人たちがいました」
「悪くない人?」
「私に学問を教えた老教師も、地方税を見ていた文官も、国境の報告を扱う役人も……王宮では、目立たない者ばかりでした」
「目立たないが、仕事はできる連中だったわけか」
「はい。紙の上だけで話す人たちではありませんでした」
「へぇ……陛下が選んだのか?」
「おそらくは。少なくとも、父王が遠ざけなかった者たちです」
「はぁ。だからお前も、そいつらを見習って行かされたのか」
「……そういうことだったのだと思います」
バーデンが、干し肉をかじる手を止めた。
「それって、王子様全員に?」
レオン殿下は、考えるように視線を落とした。
「兄上は、王宮に近い仕事が多かった。会議、式典、貴族との顔合わせ……王太子としては当然のことです」
「じゃあ、地方に出されたのは殿下だけ?」
「はい。実質的には、私だけです」
「それって……お前が、先で第一王子を支えるようにしてたってことか」
「そう見えるわねぇ」
「私も、兄上を支えろという意味なのだと思っていました」
「実際、そうだろ?」
「……ですが、晩年は違いました。父王は、私にだけ報告を回すようになった」
「報告を? 何のだ?」
「国境の訴えや、商人の陳情、駐屯軍の補給のことです。兄上を通さず、私に届くものが増えました」
「……つまり?」
バーデンが、干し肉を飲み込んでから言った。
「もしかして……陛下は、第一王子殿下を信用しきれなくなっていたってこと?」
「……分かりません。父王は、はっきりとは仰いませんでした。私に王になれとも、兄上を退けるとも」
レオン殿下は、再び宿駅の方へ視線を戻した。
「ただ、父王は、よく言っていました。王都だけを見ていては、国を見たことにはならぬ、と」
「……それ、だいぶ意味深じゃないか?」
「当時の私は、聞かなかったことにしていました」
殿下は、苦く笑った。
「聞いてしまえば、逃げられなくなる気がしたのです」
俺は、しばらく黙って干し肉を噛んだ。
陛下は察してちゃんだったのか。
しかし、どうなんだ。
そんな重大なことを、息子に悟れというのは。
王族ってのは、そういうものなのか?
……いや、難しいか。
王妃と、その実家と、古い貴族たちに囲まれた王宮で、自分の考えを押し通す。
口で言うのは簡単だが、実際にはかなり図々しい男でなければ無理だろう。
俺の友人みたいな。
あいつ、嫁の母の運転で爆睡したって言ってたな。
あれは図々しいというより、神経が太いだけか。
俺は、硬い干し肉をようやく飲み込んだ。
「殿下にとっては……どんな父親だったんだ?」
レオン殿下はしばらく黙り、やがてぽつりと言った。
「……遠い方でした」
「……遠いって、なんだ。王宮で一緒に、住んでたんだろ」
「王としてなら、近くにいました。呼ばれれば行き、命じられれば動き、報告もしました」
殿下は、宿駅へ視線を向けたまま続けた。
「けれど、父として膝を並べて話した記憶は、あまりありません」
「……そうか」
「私が父王に近づきすぎれば、それだけで騒ぐ者がいました。王妃陛下も、兄上の周りも」
「子供なのにか?」
「王宮では、子供である前に王子でした」
その言い方が、妙に淡々としていて、俺は何も言えなくなった。
「父王は、いつも先に命じる方でした。地方へ行け。報告を読め。人に会え。理由を聞ける場はなく、分かるのはいつも後になってからです」
レオン殿下は、わずかに目を伏せた。
「……今になって、少しだけ分かります。父王は、私に何かを見せようとしていたのだと」
「……」
「ただ、父として私に何を望んでいたのかは、まだ分かりません」
「……大人になっても、言わなきゃ伝わらないことを、言わずに分かれって言う奴はいるからな」
「旦那様も?」
「俺は言うぞ。レオノーラにもリシュアンにも、うざがられるくらい言う」
バーデンが横で笑った。
「本当にうるさいものねぇ」
「言うのも親の役目だろ」
レオン殿下はかすかに笑い、けれどその表情はすぐに翳った。
「……父王にも、一度くらい聞けばよかった」
俺は、殿下の横顔を見た。
その表情は、迷子になった子供のようにも見えた。
◆
「……拒否した?」
王宮西翼の執務室で、アルベールは報告書から顔を上げた。
「はい。ローデン男爵家より、第一王子府の印のみでは第二王子殿下の身柄を留め置く権限がないため、王印、あるいは王宮会議の正式承認を求める、と返答が」
「地方男爵が、私に正式手続きを求めているのか」
文官は、額に汗を浮かべたまま、次の書状へ視線を落とした。
「また、北方男爵家からは、遭難した王都兵のうち、移送に耐えうる者を順次王都へ帰還させるとの連絡が届いております」
「王都兵を?」
「はい。死亡した兵についても、棺に納め、家族のもとへ返すと」
アルベールの眉が、ぴくりと動いた。
「レオンはどうした。男爵はいつ来ると?」
「書いてございません」
「……私を誰だと思っている」
アルベールは、低く吐き捨てた。
「次期国王の命を、どいつもこいつも……!」
「殿下」
イザベラが名を呼んだ。
「怒りに任せてはなりません」
「母上は、これを見過ごせと?」
「そういう意味ではございません」
イザベラは扇子の先で、卓上の報告書を軽く示した。
「けれど、彼らはまだ反逆しているわけではありません。ですから、代わりの手立てを――」
「……少し、空気を入れる」
アルベールは、椅子を引いて立ち上がった。
「アルベール」
「すぐ戻る」
そう言って、アルベールは執務室を出た。
回廊には、夜の冷気が流れていた。
王宮の奥では、燭台の火が細く揺れ、遠くで近衛の靴音が響き、すぐに消えた。
アルベールは、長い回廊を歩いた。
「……ふざけるな」
低く呟き、足早に進む。
その時だった。
「まあ。ずいぶん険しいお顔ですこと」
柔らかな声が、回廊の先から聞こえた。
アルベールが視線を上げる。
燭台の明かりの下に、エスメラルダが立っていた。
翠のドレスをまとい、手には白い扇子を持っている。
夜更けだというのに、その表情は少しも乱れていなかった。
「ごきげんよう、アルベール殿下」
エスメラルダは、優雅に膝を折った。
「エスメラルダ……こんな時間に何をしている」
「第三王子殿下へ、父から預かった品を届けてまいりましたの。明朝まで待てないと、ずいぶん楽しみにされていたそうで」
エスメラルダは、困ったように笑った。
「……けれど、何やら大変なご様子」
「そなたには関係ない」
「そうですの?」
エスメラルダは、首を傾げた。
「先ほど、耳にいたしましたの。地方の方々が、第一王子府からの通達に、ずいぶん慎重なお返事をなさっているとか」
「誰から聞いた」
「王宮は広いようで狭いものですわ」
エスメラルダは、扇子を開かず、指先で軽く持ち替えた。
「ですが、不思議ですわね。第一王子殿下のお言葉を受けてなお、正式な王命を求めるだなんて」
「……手続きとしては、間違っていない」
エスメラルダの笑みが、わずかに深くなった。
「そうですか? けれど……まるで、殿下のお言葉だけでは足りないと申しているようにも聞こえますわ」
「何が言いたい」
「何も。ただ、わたくし心配になりまして……」
「そなたが案じることではない」
「ですが、殿下」
エスメラルダは、眉を下げたまま続けた。
「今こそ、王宮の権威をお示しになる時ではありませんか?」
「どういうことだ」
「王宮からの通達は、受ける側が選り分けるものではないのだと」
「王宮の権威は、わざわざ示すものではない」
「しかし……このままでは、地方の方々は皆、同じことを申しますわ。正式な王命を、と」
「……」
「そのうえ北方男爵家は、兵を助けた顔で王都へ入ってくる」
「何を言っている。男爵には、国王暗殺に関わる疑いがかかっている。それも、叔父上が――」
「けれど、民はそう思うでしょうか?」
エスメラルダは、扇子を口元へ寄せた。
「民は、こう見るでしょうね。北方男爵家は、差し向けられた兵を見捨てず、助けたのだと」
「……」
「それに比べて、国王暗殺の疑いは、まだ紙の上の話ですわ」
「黙れ」
エスメラルダは、口を閉ざした。
けれど、微笑みは消えなかった。
むしろ、さらに深くなる。
「失礼いたしました」
エスメラルダは、白い扇子を胸元へ寄せ、優雅に膝を折った。
「殿下。王家には、時として迅速なご決断も求められますわ」
「……」
「どうか、よきご判断を。お祈り申し上げております」
そう言って、エスメラルダは微笑みを残したまま、回廊の奥へと歩き去った。
アルベールは、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて踵を返す。
執務室へ戻ると、文官が顔を上げた。
「殿下?」
「ローデン男爵家へ追加の通達を出す」
文官が、はっと息を呑んだ。
「……何をなさるおつもりですか」
「第二王子一行に協力した疑いがある。街道沿いの宿駅と倉を押さえろ。出入りの記録も確認させる」
イザベラの扇子が、ぴたりと止まった。
「アルベール」
「領主本人には、まだ手を出すな。あくまで調査だ」
文官は、青ざめたまま口を開いた。
「……それは、正式な王命としてでございますか」
「第一王子府の名で出せ。王宮会議を待っていては、証拠を消される」
イザベラは何か言いかけたが、結局、扇子を握り直しただけだった。
「……承知いたしました」
「抵抗すれば、王宮への反抗とみなす」




