リエネと父ちゃん【出会い編】
「リエネ嬢、ごきげんよう」
声をかけてきた青年に、リエネは小さく微笑んだ。
「ごきげんよう。先日の晩餐会以来ですね」
「ええ。父君もお変わりありませんか」
「近頃は街道整備の件で、帰りが遅い日も多いようですが、変わりなく過ごしております」
青年は、王宮でリエネの父と同じく文官を務める家の子息だった。
家同士にも多少の付き合いがあり、これまでにも何度か話したことがある。
「それはご多忙でしょう」
青年は、手にしていた杯を軽く傾けた。
「もっとも、すぐに実入りが出る事業ではありませんが」
「けれど、街道が整えば、物資を運ぶ日数も費用も減ります。沿道の町が栄えれば、長い目で見て税収も増えるのではありませんか」
青年は、わずかに眉を上げた。
「相変わらず勉強熱心でいらっしゃる」
「父が家へ持ち帰った報告書の分類や清書を手伝うことがありますので、自然と覚えました」
「ですが、ご結婚後は、そのようなことはご主人に任せておけばよいでしょう」
「理解していなければ、任せる相手が適切かどうかも判断できませんから」
青年の笑みが止まった。
「……なるほど」
青年は杯へ口をつけると、近くを通りかかった知人へ視線を向けた。
「それでは、リエネ嬢。よい夜を」
「ええ。あなたも」
リエネは微笑んで一礼した。
青年はそのまま立ち去っていった。
少し離れたところで、別の青年が彼を迎えた。
「どうだった。先ほど話していただろう」
「受け答えは申し分ないんだがな……」
「なら、誘えばいいだろう」
「いや……話している間、ずっと官吏登用試験を受けているような気分だった」
「はは。それは気が休まらないな」
声を潜めているつもりなのだろうが、リエネの耳には十分届いていた。
……また、やってしまった。
リエネは手にした扇へ目を落とした。
――女だからといって、何も知らずに人へ従ってはならない。
――自分の頭で考え、相手が信頼に値するか見極めなさい。
――そして宮廷では、考えていることを安易に顔へ出してはならない。
幼い頃から、父に繰り返し言い聞かされてきた言葉だった。
リエネは、その教えを忠実に守ってきた。
父の仕事を手伝い、国の仕組みを学ぶうちに、何事も筋道を立て、その先まで考えるようになった。
腹を立てても眉をひそめず、どのような相手の前でも平静を保ってきた結果、何を考えているのか分かりにくい令嬢になった。
父や、父と親しい年長の貴族たちからは、聡明で落ち着いた令嬢だと評価されている。
けれど、夜会で若い男たちが求めているものは、どうやら別らしい。
彼らが話しかけたいのは、自分の話に楽しそうに笑い、心地よく相槌を打ってくれる令嬢だった。
それが分かったところで、リエネには何をどう変えればよいのか分からなかった。
けれど、いつまでもそう言ってはいられない。
そろそろ本気で、結婚相手を探さなければならない年齢だった。
先ほどの青年にも、もう少し違う答え方をするべきだったのだろうか。
リエネが考えながら視線を落としたとき、目の前に大きな影が差した。
「あの……」
声をかけられ、リエネは顔を上げた。
見覚えのない男だった。
王都の夜会ではあまり見かけない、日に焼けた肌。短く整えられた髪と、左の頬を斜めに走る古い傷。
礼装は上等で、襟元もきちんと整えられていたが、広い肩にはいささか窮屈そうに見えた。
騎士だろうか。
少なくとも、王都で生まれ育った貴族の子弟とは、どこか雰囲気が違う。
男はひどく真剣な顔で、白い手袋に包まれた右手を差し出した。
「一曲、お願いできますか」
「わたくしでよろしいのですか」
「はい。ぜひ」
返事が妙に早かった。
リエネは差し出された手に、自分の手を重ねた。
楽団が次の曲を奏で始める。
男はリエネの手を取り、もう片方の手を腰へ添えると、慎重に一歩を踏み出した。
意外にも、踊りに危なげはない。
ただ、ひどく硬かった。
背筋は伸び、足運びも正確だったが、肩には力が入り、リエネの手を取る指までわずかにこわばっている。
「お引き受けくださり、ありがとうございます」
「いいえ」
それきり、男は黙り込んだ。
自分から誘っておきながら、会話の一つも用意していなかったらしい。
リエネはしばらく待ったが、男が何かを言い出す様子はない。
「……王都の夜会には、あまり出席なさらないのですか」
男の目が、わずかに見開かれた。
「分かりますか」
「初めてお見かけしましたので」
「ああ……なるほど。まだ数えるほどしか出席しておりません」
曲に合わせて向きを変え、二人は隣の組とすれ違った。
男はリエネを導きながら、ためらいがちに口を開く。
「辺境におりますので……なかなか王都へ来る機会がなくて」
「辺境? どちらですか?」
「……北方です。昨年、男爵位を賜りまして……」
言葉を重ねるごとに、男の声が小さくなっていった。
リエネは、ふと思い出した。
昨年、北方の未開拓地を与えられた男爵。
父の執務室で報告書を整理した際、その名を目にした覚えがあった。
点在していた住民を集め、荒れていた道を整え、少しずつ耕地を広げている元兵士。
「あなたが、北方の新任男爵でいらっしゃいましたか」
男の足が一瞬だけ止まりかけたが、すぐに曲へ合わせ直した。
「ご存じなのですか?」
「父のもとへ届いた報告書で、お名前を拝見したことがございます」
「そうでしたか……」
先ほどまで以上に、肩へ力が入ったように見えた。
自分の出自を知られたことを、気にしているのだろうか。
だが、武功によって爵位を得たことを、なぜ恥じる必要があるのだろう。
「北方の開拓は、順調なのですか?」
男が、今度こそ目を見開いた。
「え……ええ。昨秋、ようやく集落の者たちが冬を越せるだけの麦が採れました」
そこで初めて、男の声から硬さが少し消えた。
「まだよそへ売れるほどではありませんが、今年は新しい畑も拓けました」
「では、食糧を外から運び入れる量も減らせそうですね」
「はい。今年の収穫がうまくいけば、ですが」
男の口元が緩んだ。
笑うと、頬の傷が与えていた険しい印象が薄れた。
目元は、思っていたよりも穏やかだった。
そこで曲が終わった。
周囲の男女が足を止め、互いに礼を交わす。
男もリエネの手を離したが、その動きにはためらいがあった。
「あの……もしお疲れでなければ、もう少しお話をしていただけませんか」
リエネは男を見上げた。
先ほどまでろくに話せなかった人とは思えない申し出だった。
けれど、リエネも、もう少し北方の話を聞いてみたいと思っていた。
「ええ。わたくしでよろしければ」
男の顔が、見るからに明るくなった。
二人は広間の端へ移り、人々の視線が届く場所に置かれた小卓を挟んで向かい合った。
それから男は、拓いた畑の広さや、新しく掘った井戸のことを話した。
先ほどまで黙り込んでいたのが嘘のようだった。
どうやら会話が苦手なのではなく、緊張していただけらしい。
「冬を越したあと、領民は増えましたか?」
「はい。まだ少しずつですが……春になってから、三家族が新たに移り住みました」
現状をよく把握している。
見通しも現実的で、自分一人の功績として語ろうともしない。
「ところで、ずいぶんお詳しいのですね」
そう言われ、リエネは一拍遅れて口を閉ざした。
しまった。
先ほど、もう少し当たり障りのない会話をしようと反省したばかりなのに。
「父の仕事を手伝うことがありまして……つい、余計なことまでお尋ねしてしまいました」
「そんなことはありません。こういう話をしても、たいていは退屈させてしまいますから」
男は、明るい顔で首を振った。
「そうしたお話ができるのは、聡明で……素敵なことだと思います」
リエネは男の顔を見つめた。
聞き間違えただろうか。
これまでなら、女がそこまで知る必要はないと言われるか、話が堅いと冗談めかして話題を変えられるところだった。
それを、素敵だと言われたのは初めてだった。
男の顔を見ても、茶化している様子はない。
彼は、自分の言葉がどう受け取られたのかを確かめるように、まっすぐリエネを見つめていた。
「……ありがとうございます」
それだけ答えるのに、わずかに間が空いた。
元兵士で、武功によって爵位を得た人物と聞き、もっと豪胆で押しの強い男を想像していた。
だが、目の前の男はずいぶん違う。
夜会には不慣れらしいが、言葉遣いに粗野なところはない。
話を飾り、自分を大きく見せようともしなかった。
「お父上は、どのようなお仕事をなさっているのですか?」
今度は男がリエネへ尋ねた。
「地方から届く報告をまとめ、必要な部署へ回す仕事をしております」
「それで、北方の報告もお父上のもとへ?」
「ええ。すべてではありませんが」
「お仕事を手伝われるのは、大変ではありませんか」
「いいえ。わたくしが望んでしていることです」
「お好きなのですね」
リエネは少し考えてから、うなずいた。
「そうかもしれません……短い報告の中にも、そこで暮らしている人々の様子が表れますから」
男は、興味深そうにリエネの話を聞いていた。
愛想のために尋ねただけではないらしい。
リエネが答えるたび、さらに問いを重ねてくる。
自分の話をするだけでなく、リエネの話にも耳を傾けてくれる。
――話しやすい。
やがて話が一段落すると、男は急に表情を引き締めた。
「あの、お話しできて……楽しかったです」
「ええ。わたくしも、楽しく過ごさせていただきました」
男は一度口を閉ざし、大きく息を吸った。
「実は……先ほどお見かけしたときから、あなたに一目惚れしておりまして」
近くにいた何人かが、一斉にこちらを振り向いた。
リエネは瞬きをした。
「……はい?」
「結婚を前提に、改めてお会いいただけませんか」
今度は聞き間違いではなかった。
一曲踊り、そのあと少し話しただけである。
しかも、会話の大半は畑と報告書の話だった。
先ほどまで、誠実で堅実な人物らしいと思っていた。
その判断は、必ずしも間違ってはいないのだろう。
ただし、どうやらこの男は、決断したあとの行動が驚くほど早いらしい。
リエネは、まっすぐ自分を見つめている男を前に、返す言葉を失った。
おまけのおまけ☆酔っ払い同士の会話
父ちゃん「初めて会ったときな、リエネの周りだけ空気が違って見えたんだよ……」
レオン「ああ」
父ちゃん「なんていうか……澄んでる、っていうのか? だから、ぱっと目についたんだよ」
レオン「分かります」
父ちゃん「分かるのか?」
レオン「舞踏会でレオノーラを見たときも、遠くにいたのに、すぐ気づきました」
父ちゃん「お前にも、そう見えたのか」
レオン「はい。大勢いるのに、レオノーラの周りだけ明るくて……」
父ちゃん「だろ? だろ?」
レオン「そもそも、初めて出会ったときから――」
父ちゃん「お前、よく分かってるなぁ」
レオン「義父上こそ」
二人は固くうなずき合い、揃って杯を傾けた。
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杯「ぐぁぁ! 聞いててむずむずするわっ! あっつい湯につけろ! 熱燗にしてくれ!!」
酒瓶「割れるぞ」




