第16話 王宮の生存戦略
入ってきたのは、ギデオンだった。
その手には、紐で束ねられた書類がある。
隣で、バーデンが眉をひそめた。
「……なんであんな堂々としてるの?」
「分からん」
理解できん。
俺、今、手汗すごいんだけど。
「評議の最中、失礼いたします」
ギデオンは広間の中央まで進むと、レオン殿下の前で膝をついた。
「ギデオン殿。どうしたのですか」
「王宮前広場にいた黒外套の者たちについて、提出すべきものがございます」
ギデオンは、書類を開いた。
「王弟家の兵を、王宮前広場の警備補助として配置するよう命じた控えです」
ヴィクトル殿下が、一歩前へ出る。
「そのようなものを、どこで手に入れた」
「提出者保護のため、この場では伏せます」
「出所も明らかでない書類を、評議の場へ持ち込んだと?」
「ですが、配置を命じた者の名は記されております」
ギデオンは、書類へ視線を落とした。
「命令者は、マルセル・ローヴァン」
広間の端で、王宮文官の一人が小さく息をのんだ。
「……マルセル・ローヴァン。王弟家付きの文官です」
ヴィクトル殿下の笑みが、わずかに薄くなる。
「マルセルなら、王宮の混乱を避けようと動いたのでしょう。事情を聞けば分かることです」
ギデオンは、淡々と続けた。
「名目は、第二王子殿下帰還時の混乱防止。王宮前広場における臨時警備補助」
そこで、書類が一枚めくられる。
「ただし、別紙には、北方男爵家関係者が持参する記録および封書類を、王宮前広場で一時確保すること、とあります」
広間が、ざわついた。
「引き渡しを拒んだ場合は身柄を留め置き、以後の処置は現場責任者の裁量に委ねる、と」
……それ。
証拠隠滅狙いじゃねぇか。
ギデオンは、次の書類を広げた。
「さらに、別紙の費用負担欄には、隣国側に本拠を置く商会の名が記されております」
今度こそ、場がはっきりと揺れた。
「隣国の商会だと?」
「王弟家の兵の費用を、なぜ外部の商会が負担する」
「王宮前広場の警備に、隣国の商会が関与していたのか」
俺は、息をのんだ。
「わざわざ隣国の商会に借りを作ってまで、兵を動かしていたってこと?」
傍らで、バーデンが声を落とした。
「これって……王位継承争いの最中だから?」
「そういうこと、なのか?」
兵を動かすには、金がかかる。
領地で傭兵を雇うだけでも、金額と信用で頭を抱えたことがある。
しかも、王宮前広場で動かした兵の数なら、なおさらだ。
「近衛として、確認が必要です」
口を開いたのは、近衛の列の先頭にいた男だった。
「記録の確保と身柄の留め置きは、警備の範囲を越えます。王宮前広場でそのような命を受けていた者がいたなら、看過できません」
続いて、文官の一人が立ち上がった。
「配置命令の原本確認を求めます。別紙指示、および費用負担に関する記録も、ただちに保全すべきです」
「ええ、確認は必要でしょう」
ヴィクトル殿下は、穏やかに言った。
「ただし、そのような指示について、私は報告を受けておりません。王宮の混乱に乗じ、誰かが王弟家の名を悪用した可能性もございます」
「恐れながら……」
先ほどの文官が、青ざめた顔で口を開いた。
「王弟家付き文官一人の裁量で通せる額でも、性質でもございません」
ヴィクトル殿下は、初めて言葉を止めた。
「上は知りませんでした、で済む話じゃあないわよねぇ」
バーデンが頬を掻きながら呟いた。
レオン殿下の顔つきが変わった。
「近衛隊長」
「はっ」
あ、今のが隊長だったのか。
「王弟家執務室、王弟家文書庫、およびマルセル・ローヴァンの執務机を封鎖してください。関係者の出入りを禁じ、関係資料を保全するように。あわせて、該当する隣国商会との取引記録も押さえてください」
ヴィクトル殿下の眉が、わずかに動く。
「レオンハルト殿下。それは、王弟家を疑うということですかな」
「疑いを晴らすためです」
レオン殿下は、まっすぐに言った。
「事情を聞くためにも、関係する記録を失うわけにはいきません」
ヴィクトル殿下は、答えなかった。
「マルセル・ローヴァンの身柄も確保してください」
「承知いたしました」
「……無論、確認には協力いたしましょう。王弟家に疚しいことなどございません」
ヴィクトル殿下は、姿勢を崩さずに言った。
「ただし、王弟家の文書庫には王家に関わる機密も多い。無秩序な捜索は避けていただきたい」
「近衛と王宮文官の立ち会いのもと、封鎖と保全のみを行います」
レオン殿下は即座に返した。
「確認は、評議の記録官立ち会いで進めます」
ヴィクトル殿下は、そこで口を閉じた。
目の端に、エスメラルダ嬢が映った。
エスメラルダ嬢は、微動だにしない。
表情もない。
俺は、後ろめたさから顔を背けてしまった。
やがて、近衛たちが一斉に動き出し、足音だけが広間の外へ遠ざかっていった。
広間に残った者たちは、誰も口を開かなかった。
しばらくして、上席の王宮文官が深く頭を下げた。
「このまま評議を続けることは難しいかと存じます。本評議は、一時休会とすべきでしょう」
その時だった。
「お待ちいただきたい」
沈黙を破ったのは、ベルク侯爵だった。
「王弟家に関わる疑義については、ただちに確認すべきでしょう。ですが、それと王位継承の空白を放置することは別問題です」
ヴィクトル殿下が、ベルク侯爵へ視線を向けた。
「ベルク侯爵。王位とは、そのように急いで決めるものではありますまい」
「先ほど王弟殿下も、第二王子殿下を推されました。私は、その道を評議として確認すべきだと申し上げております」
俺も、便乗して口を開いていた。
「私ども北方男爵家としても、第二王子殿下を次代の王として推すことに異はございません」
広間の視線が、俺へ向いた。
「リュミエール交易について、改めて、王となられる方に直接お話ししたいことがございますので」
「し、失礼ながら……」
さらに声を上げたのは、ローデン男爵だった。
「ローデン男爵家も、第二王子殿下を次代の王として推すことに異はございません」
「我ら街道沿いの諸侯としても、王都が揺れたままでは困ります」
別の地方貴族が続いた。
「今は、レオンハルト殿下のもとで立て直すべきです」
「同意いたします」
第一王子派だった貴族の一人が、重い口を開いた。
「……王都の安定を第一とするならば、第二王子殿下を中心にまとまるほかございますまい」
それを聞いたバーデンが、口角を上げた。
「……風向きが変わったわね」
上席の王宮文官が、ゆっくりと顔を上げた。
「では、本評議の記録として、第二王子レオンハルト殿下を次代の王に推戴する方針を記してよろしいでしょうか」
ベルク侯爵が、静かに頷く。
「異議はございません」
街道沿いの諸侯たちも声を上げた。
「異議なし」
「同じく」
王弟派と思しき貴族たちは、口を開かなかった。
「王弟殿下が先に推したのだもの。否定しづらいわよね」
バーデンが、低く呟いた。
上席の王宮文官が、深く頭を下げた。
「では、異議なきものとして記録いたします」
筆紙を走る音だけが、やけにはっきり聞こえた。
レオン殿下は、一度だけ目を伏せ、それから、広間へ向き直る。
「……謹んで、お受けいたします」
その声は、落ち着いていた。
「王都の安定のため、私にできるすべてを尽くします」
レオン殿下の言葉が落ちたあと、ベルク侯爵が頭を下げた。
それに続くように、街道沿いの諸侯たちが頭を垂れる。
少し遅れて、様子見をしていた王都の貴族たちも従った。
第一王子派だった者たちも、最後には頭を下げる。
王弟派と思しき者たちは、しばらく動かなかったが、ここで逆らう理由を見つけられなかったのだろう。
一人、また一人と、頭を下げていく。
ヴィクトル殿下だけは、姿勢を崩さなかった。
ただ、口を開くこともなかった。
俺も、静かにつばを飲み込み、頭を下げた。
レオノーラ。
お前が惚れた男が、王になるぞ。
◆
評議が一時休会となり、俺たちは控えの間へ移された。
扉が閉まった瞬間、張り詰めていたものが緩み、俺は椅子にどかっと腰を下ろして、深く息を吐いた。
「……疲れた」
本当に、疲れた。
こんなに頭を使うのは、久しぶりだ。
「……隣にいて、ヒヤヒヤしたわ」
ギデオンが、きょとんとした顔でこちらを見る。
「何かあったんですか?」
「聞いてよ。旦那様ったら」
「言うな」
俺は即座に遮った。
「言わんでいい」
「だって、あの場で……」
バーデンの肩が震えた。
「奥様との馴れ初めを……」
「言うなって言ってるだろ!」
バーデンはとうとう堪えきれず、声を上げて笑った。
「いや、だって……あの場でよ? 王族も、貴族もいる前で、『俺はリエネに頭を下げた』って……」
「やめろ! 再現するな!」
「旦那様……それは」
「笑うな、ギデオン」
「いえ……笑っては、いません」
そう言いながら、ギデオンの肩もわずかに揺れていた。
くそ。
こいつら。
バーデンは目元を拭いながら、まだ笑っている。
「でも、あれでよかったのよ。旦那様が言わなきゃ、殿下は丸め込まれてたわ」
「まあ……なあ」
「さすが旦那様よね。『頼れ』だなんて。人をこき使い慣れてるから説得力あるわ」
「お前、それけなしてるだろ」
軽口を叩いているうちに、ようやく呼吸が戻ってきた。
控えの間の扉が叩かれた。
入ってきたのは、レオン殿下だった。
さっきまで評議の場で諸侯の視線を受け止めていた人とは思えないほど、その顔には疲れが滲んでいる。
「旦那様……」
少しだけ、言葉を探すような間があった。
「先ほどは……ありがとうございました」
レオン殿下の手が、固く握られる。
「あなたに言われなければ、私はきっと、あの場で自分を納得させていました……」
バーデンも、ギデオンも、もう笑っていなかった。
俺は頭をかいた。
「……お前はさ。前から、一人で抱え込みすぎなんだよ」
「……」
「北方にいたときだってそうだ。王子だからか、王宮育ちだからかは知らんけどな。お前は苦しい時ほど、自分だけで決めようとする」
俺は息を吐いた。
「お前は、レオノーラがいるから踏ん張れてたんだろ」
「……そうです」
レオン殿下は、小さく息を吐いた。
「私にとって、彼女は……私が、私でいられる理由でした」
「じゃあ、レオノーラにも頼ることを覚えろ」
「……私が、レオノーラに……」
「そりゃあ、男に頼られて嫌な女もいるだろうが」
レオン殿下が顔を上げる。
「少なくとも、リエネは俺を見捨てなかったぞ」
「奥様の器量、本当に大きいわよねぇ」
バーデンがしみじみと言った。
「だろ?」
「……私は、まだ怖いです」
レオン殿下は、目を伏せた。
「リエネ様は、旦那様が弱さを見せても、そばにいてくださったのですね」
「まあな」
「私は……」
レオン殿下は、そこで一度言葉を切った。
「レオノーラに、話します」
その声は、さっきよりもはっきりしていた。
「もし許されるなら。もし、彼女がまだ私のそばにいてくれると言うなら……今度こそ、ついてきてほしいと伝えます」
その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなった。
よし。
それでいい。
そう思いかけて。
……いや、待て。
リエネの両親に言われたことを、急に思い出した。
断る道を残せと、言われたばかりだったのに。
俺は、妙な汗が背中を伝うのを感じた。
もし、レオノーラの「王妃なんて無理です」が、遠慮でも諦めでもなく、本心だったら?
もし、本気で身を引くつもりだったら?
もし、もう自分の中で区切りをつけようとしていたら?
俺、さっきずいぶん偉そうなことを言ったぞ。
「旦那様?」
バーデンが、横からこちらを覗き込んだ。
「顔色、悪いわよ」
「……いや」
大丈夫だ。
俺のレオノーラは薄情者ではない。
……ない、はずだ。
「殿下」
俺は、レオン殿下の肩に手を置いた。
「頑張ってくれ」
レオン殿下は、まっすぐに頷いた。
「はい」
大丈夫なはずだ。
そう思った時だった。
控えの間の扉が、再び叩かれた。
「失礼します」
扉が開き、顔を覗かせたのは、ユリウス殿下だった。
「兄上、こちらにいらっしゃるって聞いたので。評議、終わりましたか?」
「一時休会だ」
「そうですか。書類は役に立ちましたか?」
「……書類?」
レオン殿下がゆっくりとギデオンへ視線を向けると、ギデオンは何も言わずに顔を背けた。
「兄上が王になるなら、出してもいいと思ったんです。ちゃんと使ってくれないと困ります」
「……お前が、用意したのか」
「そうですよ。黒外套の連中のところへ出入りしていた者から、控えの写しを買いました。おかげで、高価な玩具をひとつ手放しましたけど」
「なぜ、そんなものを」
「少し気になったので」
ユリウス殿下は、少しだけ首を傾げた。
「父上が亡くなってから、王弟家の私兵が急に増えました。あれだけ増やせるほど、王弟家に余裕があるのか、不思議だったんです」
「そんな危ないことを……」
「それくらいの札を持っていないと、王宮ではやっていけません」
レオン殿下の表情が、止まった。
「それに、兄上がいない間も、王宮はずっと危なかったです」
その一言で、控えの間の空気が変わった。
「なのに兄上は、王宮を飛び出してしまいますし」
「……私が残れば、かえって王宮は荒れると思っていた」
「ええ。兄上の言い訳としてはそうでしょうね」
ユリウス殿下は、指先で髪をいじった。
「でも、兄上がいなくなったあとも、僕はここにいたんですよ」
その声が低くなる。
「ずっと」
レオン殿下は、言葉を失っていた。
俺も、何も言えなかった。
ああ、この子は。
ユリウス殿下は、しばらくレオン殿下を見ていた。
何を考えているのか、まるで読めない顔だった。
「兄上。王位に就くのですよね」
「……そのつもりだ」
「なら。今度は、僕を守ってください」
誰も、すぐには声を出せなかった。
「僕は、疲れました」
その声は、子どものものに聞こえなかった。
「何も知らないふりをして……顔色をうかがいながら笑うのは、もう疲れました」
レオン殿下はしばらく何も言わず、やがて深く頭を下げた。
「すまなかった」
ユリウス殿下の目が揺れた。
「私は、お前の命は安全だと思っていた。だが、命があることと、守られていることは違う。そのことに気づかなかった」
「……」
レオン殿下は、顔を上げた。
「今度は、守る。王としても、兄としても」
ユリウス殿下は、小さな声で言った。
「……期待してます」
書類「一介の書類、しかも控えでしかない私が……こ、こんな大評議で注目される日が来るなんて……!」




