第15話 父として
朝の光が、薄絹のカーテン越しに差し込んでいた。
エスメラルダは鏡台の前に座り、目を伏せている。
背後では侍女が銀の櫛を手に、淡い金の髪を梳いていた。
「いたっ」
小さな声だった。
だが、その一言で侍女の顔色が変わった。
「っ……も、申し訳ございません!」
侍女が青ざめ、膝を折る。
「申し訳ございません、エスメラルダ様……! どうかお許しを……!」
エスメラルダは鏡の中の彼女を見たが、何も言わず、顎をほんの少しだけ上げた。
それだけで、控えていた別の侍女が前へ出た。
乾いた音が、部屋に響く。
「っ……!」
打たれた娘が、声を殺して身を震わせる。
続けざまに振り下ろされる手に、彼女は床に額をつけたまま、ただ耐え続けた。
エスメラルダは、退屈そうに鏡の中の自分を見つめている。
「早く仕上げてくれる?」
エスメラルダは、別の侍女へ視線だけを向けた。
「今日は特別な日なのだから」
「……はい」
次の侍女は震えを押し殺し、銀の櫛を手に取った。
その後ろでは、まだ乾いた音が続いている。
エスメラルダはその様子を、鏡越しに眺めた。
「レオンハルト殿下、今日はどんなお顔をなさるのかしら」
誰も答えなかった。
「昨日の、あの強張ったお顔」
エスメラルダは、うっとりと目を細める。
「ねぇ。とても素敵だったのよ」
侍女は黙っていた。
「あの方には、長く生きていただかないと」
エスメラルダは、指先で耳飾りに触れた。
「わたくしの隣で、ずっと苦しんでいただくの」
櫛を持つ手が、止まった。
「手が止まっているわ」
「……申し訳ございません」
「いいわ。今日は機嫌がいいもの」
エスメラルダは立ち上がった。
侍女たちがすぐに動き、薄い下衣の上から淡い翠のドレスを重ねていく。
袖を通し、腰を整え、胸元の布を丁寧に留める。
白い手袋が差し出された。
「わたくしの心を掻き乱したのですもの。責任を取っていただかなくては」
エスメラルダは手袋に指を通し、鏡の中の自分を見た。
「レオンハルト殿下には、わたくしよりもお可哀想な方でいていただくの」
最後の留め具が掛けられる。
差し出された白い扇を、エスメラルダは手に取った。
ぱちり、と扇が開く。
「さあ、行きましょう」
鏡の中で、誂えられたような令嬢が微笑んでいる。
「今日は、どんなお顔を見せてくださるのかしら」
◆
王宮では臨時評議が開かれた。
広間には、王宮文官の上層、近衛隊長、王都の有力貴族、そしてベルク侯爵やローデン男爵をはじめとする近郊の地方諸侯たちが集められていた。
王弟ヴィクトル殿下も、席についている。
俺は、北方男爵家への疑いをかけられた当事者として、壁際に控えていた。
隣にはバーデンが立っている。
……こういう場所は、何度来ても落ち着かない。
「ギデオンは?」
小声で聞くと、バーデンが肩をすくめた。
「外よ。待機している兵たちと、第三王子殿下の相手をしているんじゃない?」
ギデオン、強面なのに、なんで子どもに妙に好かれるんだ。
前日の評議で決まったことが、文官の口から改めて読み上げられた。
文官の声は淡々としていた。
だが、居並ぶ者たちの表情は、とても穏やかとは言えない。
「あのあたり、第一王子派じゃない?」
バーデンが耳元で囁いた。
確かに、顔を強張らせている者が何人もいる。
その少し離れたところでは、王弟派と思しき貴族たちが、低い声で何かを話していた。
妙に落ち着いているな。
ローデン男爵は、青白い顔で立っていた。
火事の対応に追われていたのだろう。
……疲れ切ってるな。
文官が読み上げを終えると、重い沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、レオン殿下が一歩前へ出る。
いつもより顔が固い。
緊張しているのか?
「ローデン男爵」
ローデン男爵が、はっと顔を上げた。
「王命なき命令によって、あなたの領の南宿駅は焼かれ、春の備えまで失われました」
レオン殿下は、そのまま深く頭を下げた。
「王家の者として、謝罪します」
貴族たちの間に、低いどよめきが走った。
「……王族が地方男爵に頭を下げるって、こういう顔になるのねぇ」
隣で、バーデンが小さく呟いた。
その声で、俺も改めて目の前の光景の重さを思い知る。
こいつは、頭を下げるのが何度目だ。
しかも、自分がしていないことで。
自分の半分にも満たない年の若者が、深々と頭を下げる姿を見るのは、いいものではない。
ローデン男爵が、唇を震わせた。
「王家の責任で補償します。宿駅の再建に必要な物資は、王宮倉と近郊領からただちに融通させます」
「……ありがたき、お言葉にございます」
ローデン男爵は、深く頭を下げた。
レオン殿下は、今度はこちらを向いた。
「北方男爵」
俺は慌てて背筋を伸ばす。
「北方男爵家にかけられた嫌疑は、街道記録と王宮記録によって成り立たないと確認されました」
視線が、こちらへ集まる。
背中に、嫌な汗がにじんだ。
「それにもかかわらず、あなた方は第二王子である私を保護し、遭難した王都軍の兵を救い、記録を王都まで届けてくださいました」
レオン殿下は、俺に向かって頭を下げた。
「王家の者として、謝罪します。そして、感謝します」
さっきより大きなどよめきが広がった。
お前はもう頭を下げるな。
「殿下、頭をお上げください。俺……私は、できることをしただけです」
レオン殿下は顔を上げた。
「今回の件を、王家は重く受け止めます」
殿下は居並ぶ者たちを見渡しながら、続ける。
「王命なく兵を動かし、地方領へ向かわせることを、今後、厳しく禁じるよう評議に求めます」
そこで、ベルク侯爵がゆっくり立ち上がった。
「第二王子殿下の御言葉、街道に領を持つ者として、確かに承りました」
ベルク侯爵は、深く頭を下げた。
「殿下がこの件を王家の責任と認め、改めるとおっしゃるなら、我ら街道諸侯は協力を惜しみません」
貴族たちが、互いの顔色をうかがう。
ぽつり、ぽつりと声が上がり始めた。
「ローデン領への補償については、我が家からも馬糧を出せます」
「春の種麦でしたな。うちの領にも、多少なら余裕がございます」
「宿駅の再建に材木が必要であれば、こちらからも融通できましょう」
そこへ、装飾過多の貴族が、慌てたように口を開いた。
「我が家も、王都にある倉から布と釘を出せます。宿駅の再建には必要でしょう」
さっきまで青い顔をしていたくせに、急にそれらしい顔をする。
隣で、バーデンが小さく呟いた。
「分かりやすいわねぇ」
本当に分かりやすい。
だが、こういう奴まで動くなら、風向きが変わったのだろう。
「実に、見事なお覚悟です」
王弟ヴィクトル殿下が、笑みを浮かべたまま立ち上がった。
「王家の者として、これほど重い責任を自ら引き受けようとなさるとは。私は、第二王子殿下のお覚悟に深く感服いたしました」
……褒めている。
褒め言葉なのに、違和感しかないんだが。
「今、王国には、責任を引き受ける王族が必要です」
誰かが息を呑み、別の誰かが小さく身じろぎした。
「私は、ここに申し上げたい。レオンハルト殿下こそ、次代の王として立たれるべきだと」
王都貴族たちの囁きが、波のように広がっていく。
だが、ヴィクトル殿下はそこで終わらなかった。
「ただし。王は、地方の信頼だけでは立てません。王都の安定もまた必要です」
そう言って、ヴィクトル殿下は目を伏せた。
「ゆえに、私は王弟家として、殿下をお支えしたい」
嫌な予感が、はっきり形を持った。
「王都の貴族たちを鎮め、宮廷をまとめ、王家の血をひとつにするために、我が娘、エスメラルダとの婚姻を、正式にご提案申し上げます」
一瞬、広間から音が消えた。
しかし、それも束の間だった。
次の瞬間には、ざわめきが一気に広がる。
「王弟家との婚姻……」
「たしかに、それなら宮廷は落ち着く」
王弟派の者たちは、互いに目配せを交わし、小さく頷き合っていた。
「エスメラルダ様なら、殿下に相応しい」
「王都の社交にも通じておられるしな」
その笑みが、王弟殿下のものによく似ている。
そう思った瞬間、背筋が冷えた。
「……嫌な空気になったわね」
隣で、バーデンが小さく舌打ちした。
「……叔父上のお言葉は、承りました」
レオン殿下は、わずかに息を吸った。
「ですが――」
その時だった。
ガチャリ、と金具の音がやけに大きく響き、広間の扉が開いた。
居並ぶ者たちの視線が、一斉にそちらへ向く。
現れたのは、エスメラルダ嬢だった。
昨日見た時とは、印象が違う。
華やかな宝石も、目を引く色のドレスもない。
身にまとっているのは、淡い翠色の落ち着いたドレスだった。
金髪は高く結い上げられ、額のあたりには銀の細い飾りが光っている。
柔らかな笑みはない。
清らかで、慎ましく、ひどく整っている。
ゾワッとした。
――王妃。
その言葉が、嫌でもしっくり来てしまった。
隣で、バーデンも息をのんでいた。
エスメラルダ嬢は、扉の前で一度足を止めると、扇を胸元に添え、ゆっくり膝を折った。
完璧な淑女の礼だった。
「お話の途中に失礼いたします」
声まで、昨日よりずっと品がある。
「王弟ヴィクトルが娘、エスメラルダにございます」
彼女は顔を上げた。
その緑の瞳が、まっすぐレオン殿下へ向けられる。
「レオンハルト殿下。王家が揺れる今、わたくしにも、王弟家の娘として果たすべき役目がございます」
エスメラルダ嬢は、胸に手を当てた。
「微力ながら、殿下の重荷をお分かちしたく存じます」
そう言って、もう一度、頭を下げた。
「エスメラルダ嬢……」
レオン殿下の声は、聞いたことがないほど硬かった。
エスメラルダ嬢は、そんな殿下を見て、目を細めた。
誰かが、小さく息を吐いた。
「……お美しい」
「王妃の座に、よく映えるお方だ……」
「王都の安定には、やはり……」
そんな声が、あちこちから漏れてくる。
「……エスメラルダ嬢のお覚悟、確かに承りました」
ヴィクトル殿下は小さく頷き、レオン殿下へ向き直った。
「では、殿下。この婚姻、前向きにお考えいただけると?」
「……王家に関わる大きなことです。この場で軽々にお答えすることはできません」
「だからこそ、今この場で道を示すべきではありませんかな」
ヴィクトル殿下は、周りを見渡しながら言った。
「王宮文官、近衛、王都貴族、そして地方諸侯。これほど証人が揃う場は、そうありますまい。殿下が王国の安定を願われるなら、ここで道を示すことこそ、王となる方の務めではありませんか」
視線が、レオン殿下へ集まった。
おい、殿下。
適当に濁せ!
俺は手に汗を握った。
レオン殿下は、息を詰めた。
そして――。
「……前向きに、考えます」
ヴィクトル殿下が、声を重ねる。
「では、婚姻を進めるものとして、評議に記録してよろしいですな」
「……そのように、お受け取りください」
あちこちで、息を呑む気配がした。
次の瞬間、誰かが安堵したように声を漏らす。
「これで王都も落ち着く」
「王弟家との婚姻なら、申し分ない」
「第二王子殿下も、異を唱えられなかった」
そんな声が飛び交う中、俺は呆然とレオン殿下を見ていた。
隣で、バーデンが低く呟いた。
「……やられたわね」
殿下は誰とも目を合わせず、唇を引き結んでいる。
お前、レオノーラを迎えに行くんじゃなかったのかよ。
お前の無事を、ずっと祈っているんだぞ。
……それとも、お前もレオノーラを想ってなのか?
エスメラルダ嬢は、胸に両手を添えていた。
「殿下と共に歩めること、心より嬉しく存じます」
それとも、これが正しい道なのか。
お前も、それで納得なのか。
殿下の顔が、伏せられかけた。
その時だった。
――お父様。殿下を、助けてください。
レオノーラの言葉が蘇った。
「……待ってくれ」
気づけば、俺は立ち上がっていた。
喉が乾いていたし、頭の中は真っ白だった。
それでも、言葉だけが出た。
「殿下、レオノーラを……迎えに行くんだろ? そう、言ったじゃないか」
広間が、しんと静まり返った。
「北方男爵様……あなた様のお気持ちは痛いほど分かります」
エスメラルダ嬢が、そっと目を伏せた。
「けれど、王家に生まれた者には、私情より国を選ばねばならない時がございます」
周りの貴族たちも、痛ましげな顔をしている。
その顔を見た瞬間、胃がぎゅっと縮む。
この人も、国のために考えているのかもしれない。
レオン殿下を想っているのかもしれない。
俺は身勝手で、思い違いをしているのかもしれない。
それでも。
俺はエスメラルダ嬢から視線を逸らし、レオン殿下だけを見た。
「殿下……あれは、嘘だったのか。あの子の気持ちは、なかったことにするのか」
「……申し訳、ありません」
レオン殿下は、苦しげに顔を歪めた。
「今の私に……その問いへ答える資格はありません」
その瞬間、レオノーラの悲しそうな笑みが、なぜか重なった。
「お前は、それでいいのか? レオノーラが、どんな思いでいたか、分かって決めたことなのか……!?」
バーデンが何かを言った。
止めようとしたのだと思う。
けれど、止まれなかった。
「レオノーラは……あいつは、お前のことを大切に思っていたんだぞ。自分のことよりも、お前のことを、考えていたんだ!」
リエネの両親も、バーデンも心配していたことは分かる。
王妃になることが、どれほど重いかも。
だけど。
「俺は、リエネに頭を下げた……」
自分でも、声が震えているのが分かった。
「金もない。しかも北方だ……楽とは言えない。それでも、ついてきてほしいと頭を下げた……」
レオン殿下が、息をのむ。
「俺は、あいつしか考えられなかったからだ」
広間は静まり返っていた。
「苦楽を共にするのが、夫婦だろ」
俺は、拳を握りしめた。
「レオノーラをなめるな。あいつは、覚悟を決めたら、絶対に諦めない」
レオン殿下の唇が、かすかに震えた。
「だから、お前も信じろ」
握りしめた手が痛い。
「一人で抱えるな。周りを頼れ、使え。助けを求めろ。そうやって守れ!」
俺は、レオン殿下だけを見た。
「惚れた女一人、信じて守る覚悟もない男が、王になるな!」
レオン殿下は何も言わず、ただ息を呑み、視線をわずかに揺らした。
「……私は……守るつもりで……勝手に、諦めようとしていました」
殿下は、かすれた声で言った。
「レオノーラを、信じていなかった……」
「……駄目だろ」
レオン殿下は、何も言わなかった。
「信じろよ。あいつは、守られるだけの子じゃない。レオノーラは、戦える子だ」
「――北方男爵」
穏やかな声が、割って入った。
ヴィクトル殿下だった。
その顔には、困ったような笑みが浮かんでいる。
「お気持ちは分かります。私も娘を持つ身ですからな」
ヴィクトル殿下は、ゆっくりと広間を見渡した。
「ですが、王となる方の隣に立つ者には、王都を鎮め、宮廷を支える役目も必要なのです。それに、殿下はすでに――」
「叔父上……私は、間違えていました」
ヴィクトル殿下の笑みが、わずかに薄くなる。
「先ほどの私の言葉は、撤回します」
一気に、場が騒然となった。
「王弟家のお申し出を軽んじるつもりも、エスメラルダ嬢のお覚悟を侮るつもりもありません」
レオン殿下は、エスメラルダ嬢へ頭を下げた。
「ですが、私には、心に決めた方がいます」
エスメラルダ嬢の笑みが、固まった。
俺は、居並ぶ者たちを見渡した。
「……北方男爵家が、娘を使って王家に食い込もうとしていると言うなら、逆だ」
バーデンが隣で息を呑んだ。
「リュミエールの宝石、細工物、希少鉱石。その一部を、王都の正規市場へ出す」
貴族たちが、どよめいた。
「リュミエール産の品を、王都の正規市場へ?」
「小商会を通さずにか」
「ならば、王都の商会にも仲買の利が出る」
ざわめきの色が変わった。
「うちの娘は、王家に取り入ったんじゃない」
「……北方男爵のお言葉、実に率直ですな」
ヴィクトル殿下は、穏やかに笑った。
「北方街道と交易について、王家と諸侯の前で正式に取り決める。よろしいことです」
そこで、わずかに目を細める。
「ですが、だからこそ、この場で急ぎ決めることではありませんな」
「……そうでしょうか」
俺は、ヴィクトル殿下を見た。
「先ほど、王弟殿下はおっしゃいました。これほど証人が揃う場はない、と。そうおっしゃるなら、ここで決めるべきでしょう」
俺は、レオン殿下へ身体を向けた。
「殿下。妃に望む方を、今ここでお決めください」
レオン殿下は、しばらく黙っていたが、やがて深く息を吸った。
「……私はレオノーラを、望みます」
そして、今度ははっきりと言った。
「私が妃に望むのは、レオノーラ・ヴァルグレイヴです」
今度こそ、広間は水を打ったように静まり返った。
エスメラルダ嬢の顔から笑みが消えていた。
その周囲にいた貴族たちも、さっきまでの余裕を失い、互いに視線を交わしている。
ヴィクトル殿下だけは、笑みを崩さなかった。
その時だった。
ぎい、と。
横扉が、音を立てて開いた。
櫛「あばばばっ……ご、ごめんなさい。丁寧に梳いたつもりなんです……お、お許しを……」




