第二話 エルゼ様
「逃げなさい! フィーネ、今すぐ! 外へ、家を出なさい!」
半狂乱で叫んだハンナが、胸に抱いていた娘を引き戸へ向けて放り投げた。
三メートルはあろうかという距離を飛び、引き戸を突き破って庭へと転げ落ちる幼い体。それは母性という本能が呼び覚ました、人の限界を超える力の発現。
「ガキはほっとけ、どうせあの歳じゃ遠くには逃げられん。誰かが捕まえるなり嬲るなりするだろ。あんなチビじゃ先っぽも入らねぇ」
男のだみ声が響き、下劣な嘲笑が続く。
「フィーネ! 逃げなさい、フィーネ! ギャアアアア! ヤメッ! 逃げて! 逃げてフィーネーーーッ!」
獣のような男たちの笑い声に混じり、逃げろと叫ぶ母の声が、薄闇を引き裂く。
庭に投げ出されたフィーネは這うようにして軒下の大きな甕に身を隠し、じっと息を殺した。
「もう大丈夫よ」と、いつもの笑顔で母が迎えに来てくれることを信じて。
幼女は気配を殺し、じっと待つ。母は……来ない。
「かかしゃま」
暗い闇の中、一人でどれほどの時を過ごしたのか。恐怖を通り越し、恐慌の波を乗り越えたフィーネの胸には、不思議な静けさが広がっていた。
母はどうなったのか……甕から這い出したフィーネ。引き戸に空いた穴から、そっと中を覗き込む。
その視線の先。母は部屋の真ん中で裸に剥かれ、頭上から両手をバンザイの形に引っ張られている。そして母の足を抱えたもう一人の男の動きに合わせ、ガタガタと激しく体を揺らしていた。
その光景を見たフィーネは、ふと、何かを思い出したように顔を上げた。
「かかしゃま……そうだ、えるぜさま」
村の守り神、そう教えられていたエルゼ様。助けを求める先はもはやそこしか思いつかない。フィーネは勇気を振り絞って立ち上がり、祠に向かって駆けだした。
「えるぜしゃま、えるぜしゃま、かかさまをたすてて」
庭を抜ければ目の前に岩屋があり、その中にはエルゼ様がいる。夢中で駆けこんだ岩の穴、そこには近所に住む年上の少女、ノラがいた。
「のら、おとしゃまと、かかしゃまが、えるぜさまをよばなきゃ」
祠の傍でうずくまる様にして震えるノラ、フィーネは急いでエルゼ様を呼ぼうと声をかける。
「フィーネ……うわーーーん!」
ノラはフィーネの顔をみて緊張が解けたのか、大声で泣きだしてしまった。
「のら、よるないたらだめ、おにがくる。ないたらだめ」
泣きじゃくるノラを母にされたように抱きしめようと、手を前に差し出して歩き出すフィーネ。
「なんだぁ、声が聞こえると思ったらこんなところにガキがいるじゃねぇか」
そこへ……鬼が来た。
「のら、だめ、おにがちた、のら!」
「ぎやだぁぁぁぁ! あっちいけぇ! うわーーーん」
ひとり、二人、松明に照らされて男の数が増えていく。
「めんこいガキだなぁ、子無しの夫婦者に売れるんじゃねぇか」
「両方女だ、女衒に売った方が金になるぜ」
武器を持った男たちが、血走った眼を光らせて近づいてくる。
「えうぜさま、えうぜさま、たすてて、えるぜさま!」
恐怖で腰が抜けたフィーネは半泣きになりながら、祠の方へ這うようにして進んでいく。
「こっちのが年上だな――けど、まだ穴は使えねえか」
そう言ってノラを捕まえようと手を伸ばす男。ノラは反射的に抵抗し、男の手に噛みついた。
「イテッ、なにしやがんだこのクソガキ!」
怒声とともに男がノラを蹴り飛ばす。
吹き飛ばされた少女はしばし宙を舞い、頭から祠に叩きつけられる。
べちっ――肉がぶつかる乾いた音。
少女はそのまま、ぐったりと動かなくなった。
直後、衝撃で軋んだ祠がわずかに揺れ、ゆっくりと傾いて──やがて、音を立てて倒れた。
「ああ、えるぜさま」
フィーネは崩れた祠のもとへ、膝と手を使って四つん這いに這う――すると、何かが手に触れた。
手のを伝う違和感に視線を向けると、倒れた祠があった場所、そこには地面に露出した一枚の石板があった。埋もれていたその表面には、不思議な文様――いや、見たこともない文字が刻まれている。
石板を覆うようにして倒れているノラ。その頭から流れた出した血が、石板を端から濡らしていく。するとその瞬間――刻まれていた文字が、淡く、かすかに脈打つような光を発しはじめた。
「まてまて、それは何だ。古代文明の遺物じゃねぇか?」
光る石板を見た男の一人が、ノラの死体に駆け寄った。
「おいおい、本物だったら大金持ちだぜ」
その男は他の雑兵と違い、濃緑の丈夫そうな外套を着ていた。その胸と背中には紋章が描かれている。魔導兵と呼ばれる魔法騎士だ。
「遺物ってあの……遺跡から見つかるあれかよ」
雑兵ですら知っているくらいだ、遺物とは相当に価値がある物なのだろう。
「そうだ、これは遺物だ。しかも動いてやがる。ついてるぜぇ、こんな場所で見つかるなんてよお」
男は舌なめずりしながら石板を見下ろし、にやりと笑った。
「血に含まれていた魔力に反応したんだろうな、何かの鍵かもしれねえ……もう少し魔力を注いでみるか」
そう言って手のひらを石板に当てた、その瞬間だった。男の体が、凄まじい勢いで干からびていく。皮膚がひび割れ、肉がしぼみ、息を吸う暇もなく魔道兵はミイラと化して崩れ落ちた。
誰もが言葉を失い、信じがたい光景に釘付けとなる中――突如として、岩屋の内部が真っ白な光に塗り潰された。
目を焼くほどの閃光。空間のすべてを呑み込む白光に、フィーネは思わず顔を覆い、固く両目を閉じる。
三つほど呼吸を数えた頃、静寂に支配された岩窟に――低く、艶を帯びた女の声が響き渡った。
「ぐぬ……足りぬ」
残光が収まり、フィーネがゆっくりと瞼を持ち上げる。視界が焦点を結んだとき、祠のあったその場所に、見上げるほどの大女が立っていた。
年は三十を過ぎた頃、身の丈二メートルを超える長身の女。凛と透き通る清楚な眼差しの中に、むせ返るような成熟した女の色気を宿している。他者を圧倒する威厳と、この世の理から完全に逸脱したその造形美は、神話の中から顕現した女神のようであった。
身に纏うのは金糸の刺繍が施された黒いローブ。その上に、赤で縁取られた純白のサーコートを羽織り、その手には禍々しい魔力を放つ十文字槍。
えるぜ様だ! 確信を込めた瞳で女を見つめ、フィーネはすがるようにして助けを求めた。
「えるぜさま……たしゅけて」
何事かと悠然と視線を巡らせた女は、足元から聞こえたか細い声に気づいて視線を下げ、フィーネを見つける。
「幼子よ、我が渾名を知るか……我が名はエルゼリナ・ブラットフォルム・シュヴァルツリート、神を喰らいし最強の魔神也」
エルゼは芝居がかったセリフで名乗りを上げると、足元で恐怖に震え、すがりつくように身を寄せる幼女を見下ろした。
「して、なにやら取り込み中のようだが……」
言いながら、横たわるノラの亡骸へと視線を移す。さらに干からびた男のミイラへと目をやり、最後に岩屋の入口を固める武装した男たちを、感情の読めない冷ややかな瞳でじっと見据えた。
「虐められておったのか」
その女が、武装した男たちに向けて無造作に片手をかざす。
「幼き者を虐げる大人は、懲らしめねばな――」
男たちの理性を溶かすような、低く掠れた女の声が響いた。
次の瞬間――凄まじい爆発が大地を揺るがし、轟音と共に灼熱の炎が岩屋から外へと噴き出した。男たちは悲鳴を残すことすら許されず、跡形もなく消え失せていた。
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