王都編1-8 お兄様と婚約者
昼下がりの辺境伯邸へやってきたルシアンは、少しだけ緊張していた。
エルナが、自分のことを「お兄様」と呼ぶことをどう思っているのか。
もし、抵抗があるのに嫌だと言えずにいるのなら、それは自分の責任だ。
どう切り出せば、彼女が話しやすいだろう。
そんなことを考えていると、控えめなノックが響き、扉が開いた。
「今日も、いらしてくださったのですね」
「ああ、もちろんだ」
ルシアンが頷くと、エルナはいつものように隣へ腰を下ろした。
ソフィーが紅茶を淹れてくれると、エルナは今日参加した茶会での出来事を、楽しそうに話し始める。
「今日は、領地での過ごし方について皆様とお話ししたのです」
「ほう」
「遠乗りがお好きだという方がいらっしゃったので、お兄様と馬に乗って早駆けをしたことや、お祖父様の狩猟について行ったことをお話ししたら、すっかり驚かれてしまいましたわ」
「……だろうな」
思わず目を細めたルシアンだったが、すぐに眉を寄せた。
エルナはきっと、乗馬が好きだという共通点から話したのだろう。
だが、彼女のような幼少期を過ごせる令嬢は、そう多くない。
北の辺境で育ったエルナが、王都や他領の令嬢たちとどこまで馴染めるのか。
それが、ルシアンには少し気がかりだった。
「今日話した令嬢たちとは、仲良くできそうか?」
「はい。最初は驚かれてしまいましたが、そのあとは刺繍や、城下町のお菓子屋さんのお話をしましたわ」
「そうか」
どうやら上手く話題を切り替えながら、少しずつ馴染めているらしい。
ルシアンは、ほっと胸を撫で下ろすように小さく息を吐いた。
「昔、お兄様と一緒に公爵領で遠乗りをしましたわね」
「エルナがどんどん先へ行くものだから、騎士たちと一緒にひやひやしたぞ」
「お兄様と一緒で楽しかったんですもの」
屈託なく笑うエルナを見つめていると、ルシアンの口元にも自然と笑みが浮かんだ。
その後もエルナは、今日の茶会であったことを楽しそうに話してくれた。
ルシアンもつい聞き入ってしまう。けれど、今日ここへ来た目的は別にある。
そのことを思い出し、ルシアンは内心で小さく首を振った。
「エルナ……」
「はい?」
首を傾げるエルナに、ルシアンは穏やかに口を開いた。
「この前、『お兄様と呼ばれることを、どう思っているか』と聞いたな」
その言葉に、エルナの身体がわずかに強張る。
その様子を見つめながら、ルシアンは静かな声音で尋ねた。
「エルナは、どう思っているんだ?」
「……私ですか?」
「ああ」
エルナは迷うように、また伺うようにルシアンを見つめた。
少しの間を置いてから、ゆっくりと口を開く。
「私は……『お兄様』と呼ぶことがずっと当たり前で、それでいいと思っていました」
「一緒だな」
嫌がっているわけではない。
そのことに、ルシアンは少しだけ安堵した。
「ですが……」
エルナはきゅっと手を握り、ルシアンを見つめた。
この数日、茶会や夜会でさまざまな貴族と話をした。特に同じ年頃の令嬢たちと話す中で、ふとした瞬間に感じる違和感があった。
おそらく、自分が辺境で育ったからなのだろう。
知識が足りないわけではない。けれど、知っていることと、実際に経験してきたことが違うのだ。
だから、ルシアンはそんな自分を、守るべき妹のように扱ってしまうのかもしれない。
「私は、もう子どもではないのです」
きっとルシアンは、その違いを気にする必要はないと言うだろう。
けれど、それでは満足できない。
「もっと婚約者として、相応しくなれるよう精進いたします」
エリーゼに指摘されたからではない。
ルシアンに相応しい自分になりたい。
幼い頃から抱き続けてきたその願いは、今も変わらない。
社交界へ出た今なら、その願いを少しずつ叶えていけるのだと思う。
「ですから――」
結局、あの後も呼び方について話せないまま、時だけが過ぎてしまった。
話すのなら、今だ。
エルナは意を決し、真剣な眼差しでルシアンを見つめた。
「ルシアン様、とお呼びさせていただいてもよろしいでしょうか?」
その言葉に、ルシアンは一瞬、思考が止まった。
まっすぐに自分を見つめる、茶色の瞳。
とっくに、彼女は婚約者として十分に相応しい。それなのに、自分のためにここまで考えてくれるとは。
今すぐに抱き締めてしまいたい衝動を押し込め、ルシアンは平静を装って頷いた。
「もちろんだ」
「ありがとうございます、ルシアン様」
花が咲いたような笑顔とともに、エルナが自分の名を呼ぶ。
初めて呼ばれたその名に、ルシアンは思わず口元を緩めた。
同じエルナのはずなのに。ただ呼び方が変わっただけなのに。
ほんの少しだけ、彼女が大人びて見えた。
胸の奥が、妙に熱い。
「なんだか少し、お口がくすぐったいですわ」
慣れない呼び方に、エルナは口元を手で覆った。
「すぐに慣れる。何度でも、そう呼べばいい」
「はい、ルシアン様」
にこりと笑うエルナを見つめながら、ルシアンは必死に平静を保った。
公爵邸へ戻るまで、胸の高鳴りが収まることはなかった。
◇ ◇ ◇
数日後。
エリーゼの庭園で開かれた茶会には、エリーゼ、シャルロット、オリヴィア、クレアの四人が集まっていた。
円卓を囲み、クレアが手帳を閉じる。
「――報告は以上です」
顔を上げたクレアに、エリーゼが微笑んだ。
「よくやりましたわね」
公子の気持ちだけを確認して終わったときは、どうなることかと思ったが。
エルナ自ら、ルシアンとの距離を一歩縮めることができたらしい。
「エルナ様、頑張りましたわ!」
シャルロットは嬉しそうに両手を握りしめる。
「これで、少しは進展するかしら」
オリヴィアも頬を緩めた。
三人の間に、自然と祝福するような空気が広がる。
だが、それを崩したのは、再び手帳へ視線を落としたクレアだった。
「呼び方が変わったのは、王太子殿下とジーク公子様がルシアン公子様を訪ねたあとです。お二人とルシアン公子様の間で、何かあったとも考えられます」
「まあ!」
シャルロットが嬉しそうに手を合わせる。
その話を聞きながら、エリーゼは静かに紅茶を置いた。
「やっと始まりそうですね」
「そうなのですか?」
首を傾げるシャルロットに、オリヴィアが頷く。
「むしろ、問題はここからですわ」
「そんなぁ……」
肩を落とすシャルロットに、エリーゼはくすりと笑った。
「時々エルナ嬢をお茶会にお招きして、様子を伺いましょう」
「楽しみですわ!」
途端に瞳を輝かせるシャルロットに、一同は目を細めた。
◇ ◇ ◇
密やかにエリーゼの茶会が開かれた翌日。
正午前のルシアンの執務室には、レオンハルトとジークが訪れていた。
「会議の時間が早まったのなら、大歓迎だが?」
書類仕事はすでに終えている。できることなら、早く帰ってエルナに会いたい。
そんなルシアンを見つめながら、レオンハルトが口を開いた。
「エルナ嬢が、名前で呼ぶようになったそうだな」
「ああ。婚約者として、相応しい呼び方をしたいそうだ」
上機嫌に答えるルシアンを見て、レオンハルトは眉をひそめた。
動いたのは、エルナ嬢のほうか。
「……それだけか?」
「ああ」
ルシアンは何の疑問もなく頷く。
本当にそれだけなのか。
ジークも首を傾げた。
「……エルナ嬢に対して、なんと申し上げたのです?」
「もちろん、と言った」
「それだけですか?」
「ああ」
ルシアンは満足そうに再び頷く。
「呼ぶのが少しくすぐったいと言っていたから、慣れるまで何度でも呼べばいい、と言った」
その顔には、隠しきれない喜びが浮かんでいた。
レオンハルトとジークは、ゆっくりと顔を見合わせる。
――どうして、そうなる?
――他に言うことがあるでしょう。
言葉にせずとも、二人の視線がそう語っていた。
やがてレオンハルトが、何とも言えない表情でルシアンの肩を叩く。
ジークは、もはや憐れむような目でルシアンを見つめていた。
「……何だ?」
二人の反応の意味が分からず、ルシアンは首を傾げる。
自分にとっては、ただ嬉しい出来事だった。
エルナが自分の名を呼んでくれる。
それだけで、ここ数日ずっと気分がよかった。




