王都編1-7 幼馴染
正午前の王宮。
王太子の執務室と同じ一角にあるルシアンの執務室には、忙しなく文官たちが出入りしていた。
圧倒的な速さで指示を出し、次々と決裁を進めていく部屋の主に追いつくため、文官たちは資料を漁り、書類を運び、息つく暇もなく動き回っている。
そんな中、もうすぐ仕事を終えようとしていたルシアンが、最後の書類にペンを走らせていると――突然、執務室の扉が開いた。
顔を上げたルシアンは、訪問者の顔を見るなり、さして大した用事ではないだろうと判断した。
現れたのは、王太子レオンハルトと、アイゼンベルク家次期公爵ジークだった。
二人とも、どこか面白いものを見つけたような、それでいて少しばかり懐疑的な表情を浮かべている。
「エルナ嬢はここ数日、社交を頑張っているようだな」
「積極的に飛び込んでいらっしゃるようですね」
挨拶もそこそこに、執務机の前で口を開いたレオンハルトに、ジークが続ける。
黒曜石のような黒髪に、温和な漆黒の瞳。
金髪碧眼の、物語から抜け出してきたような王子然としたレオンハルトと、銀髪碧眼に煙水晶の眼鏡をかけた、どこか神秘的なルシアン。
二人が並べば、どうしてもその姿に目を奪われてしまう。
けれど、武の公爵家の名は伊達ではない。
一見すれば穏やかで親しみやすいジークだが、特注の執務着の下には、いずれ騎士団の頂点に立つ者として、三人の中でもっとも鍛え上げられた肉体が隠されていた。
「エルナも、社交界に慣れてきたらしい」
二人の言葉に、ルシアンは頷いた。
最近では、自分から「このお茶会に参加したい」と言うことも増えた。
夜会では少し離れたところで別の令嬢と歓談し、しばらくすると必ずルシアンのもとへ戻ってきて、話した内容を報告してくれる。
歩き始めた幼子を見守るような、そんな気分だった。
「それで、何しに来たんだ?」
早く仕事を終えて、エルナに会いたい。
今日あったことを聞きたい。
幸い、今日はもう時間の読めない会議も入っていない。ルシアンは最後の書類に目を通し終えると、それを秘書官へ渡し、空いた執務机の前を二人に示した。
「……社交シーズンが始まってから、午後は不在がちだと伺っていましたが、本当だったのですね」
ジークが眉をひそめる。
どうりで午後にレオンハルトのもとを訪ねても、ルシアンだけ姿が見えないわけだ。
その言葉に、レオンハルトが鼻を鳴らした。
「薄氷の貴公子が聞いて呆れるな」
「令嬢たちが勝手に呼んでいるだけだ」
「でも、貴方も普通の人間なようで、少し安心しました」
ジークがそう言うのも無理はない。
お茶会に共に参加すれば、席が離れていてもルシアンは常に婚約者へ視線を向けている。
夜会でもエルナの隣を離れず、甲斐甲斐しくエスコートを欠かさない。
辺境伯邸へ迎えに行くときも、わざわざ公爵家の馬車を差し向けている。
誰に対しても態度を崩さない、完璧な次期公爵。
そんなルシアンが、婚約者にだけは驚くほど甘い。
もはや社交界で、二人の仲を疑う者はいなかった。
「彼女のことで、おまえに言いたいことがあってな」
レオンハルトが声を落とす。
だが、その前に、とでも言うように文官たちへ視線を向けた。
「――お前たちの上官は、あとは帰るだけだ。早めに食堂へ行って昼食をとってこい」
遠回しに、出ていけということだ。
次代の頂点に立つ者たちが、わざわざ人払いをしてまで話すこと。
この三人を相手に余計な首を突っ込まないほうが身のためだと、文官たちは即座に察した。
あっという間に人がいなくなり、最後に秘書官が一礼して部屋を出ていく。
扉が閉まるのを確認してから、ルシアンは首を傾げた。
「人払いするほどの話か?」
「おまえのためだと、わからんか!?」
レオンハルトは執務机に両手をつき、ルシアンへ詰め寄った。
「リゼとシャールから、エルナ嬢がおまえを『お兄様』と呼んでいると聞いたぞ。デビュタントを終えた令嬢に、何を言わせているんだ!?」
「……そんなことか」
ルシアンは、わずかに眉を寄せた。
きっとレオンハルトもジークも、妻や妹、婚約者から聞いたのだろう。
エルナも、茶会でその話題になったと言っていた。
(この二人には筒抜けだな)
そう思いながら、ルシアンは平然と答える。
「そんなことではありませんよ」
ジークが呆れたようにため息をついた。
「エルナが幼い頃、私の名前をうまく呼べなかったから、『お兄様』と呼んだ。それが今も続いているだけだ」
「それが問題なんだと言っている」
「そうなのか?」
本気で分からないというように、ルシアンは首を傾げた。
エルナからは「お兄様と呼ばれることを、どう思われておりますか」と聞かれた。
だが、ルシアンにとっては、本当に何とも思っていない。
そんなルシアンに、レオンハルトは深いため息をついた。
「エルナ嬢はデビュタントを終えた。つまり、もう一人前の淑女だ。そして、おまえの婚約者でもある」
一つ一つ言い聞かせるように、レオンハルトは言葉を重ねる。
「そんな彼女に『お兄様』と呼ばせ続けることが、婚約者として正常な扱いだと思うのか?」
「婚約者として、彼女の意向に沿うだけだ。エルナがそう呼びたいのなら、それで構わない」
「……夫になったあとも、『お兄様』と呼ばれるおつもりですか?」
ジークが静かに問いかける。
「さすがに、その頃には変わるだろう」
「…………」
レオンハルトとジークは、無言で顔を見合わせた。
――本当にそうだろうか。
長年の付き合いだ。
幼い頃から、王太子と公爵家の嫡男として、ともに学び、ともに過ごしてきた。
だからこそ分かる。
ルシアンは、公務においても社交においても、驚くほど隙がない。
それなのに、なぜ婚約者との関係だけは、こうも危ういのか。
「とにかく――」
レオンハルトは一度息を吐き、ようやく平静を取り戻すと、ルシアンをまっすぐに見つめた。
「エルナ嬢が、本当におまえを『お兄様』と呼ぶことを何とも思っていないのか。本人に聞いてみろ」
「……分かった」
確かに、自分がどう思っているかは伝えた。
だが、エルナ自身がどう思っているのかまでは、確かめていない。
ルシアンは、こくりと頷いた。
公務も社交も完璧にこなすくせに、なぜ婚約者との関係になると、こうも噛み合わなくなるのか。
幼馴染として。そして、妻と婚約者を持つ男たちとして。
レオンハルトとジークは、たまらなく不安になった。




