↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/70

王都編1-7 幼馴染

 正午前の王宮。


 王太子の執務室と同じ一角にあるルシアンの執務室には、忙しなく文官たちが出入りしていた。


 圧倒的な速さで指示を出し、次々と決裁を進めていく部屋の主に追いつくため、文官たちは資料を漁り、書類を運び、息つく暇もなく動き回っている。


 そんな中、もうすぐ仕事を終えようとしていたルシアンが、最後の書類にペンを走らせていると――突然、執務室の扉が開いた。


 顔を上げたルシアンは、訪問者の顔を見るなり、さして大した用事ではないだろうと判断した。


 現れたのは、王太子レオンハルトと、アイゼンベルク家次期公爵ジークだった。


 二人とも、どこか面白いものを見つけたような、それでいて少しばかり懐疑的な表情を浮かべている。


「エルナ嬢はここ数日、社交を頑張っているようだな」


「積極的に飛び込んでいらっしゃるようですね」


 挨拶もそこそこに、執務机の前で口を開いたレオンハルトに、ジークが続ける。


 黒曜石のような黒髪に、温和な漆黒の瞳。


 金髪碧眼の、物語から抜け出してきたような王子然としたレオンハルトと、銀髪碧眼に煙水晶の眼鏡をかけた、どこか神秘的なルシアン。


 二人が並べば、どうしてもその姿に目を奪われてしまう。


 けれど、武の公爵家の名は伊達ではない。


 一見すれば穏やかで親しみやすいジークだが、特注の執務着の下には、いずれ騎士団の頂点に立つ者として、三人の中でもっとも鍛え上げられた肉体が隠されていた。


「エルナも、社交界に慣れてきたらしい」


 二人の言葉に、ルシアンは頷いた。


 最近では、自分から「このお茶会に参加したい」と言うことも増えた。


 夜会では少し離れたところで別の令嬢と歓談し、しばらくすると必ずルシアンのもとへ戻ってきて、話した内容を報告してくれる。


 歩き始めた幼子を見守るような、そんな気分だった。


「それで、何しに来たんだ?」


 早く仕事を終えて、エルナに会いたい。


 今日あったことを聞きたい。


 幸い、今日はもう時間の読めない会議も入っていない。ルシアンは最後の書類に目を通し終えると、それを秘書官へ渡し、空いた執務机の前を二人に示した。


「……社交シーズンが始まってから、午後は不在がちだと伺っていましたが、本当だったのですね」


 ジークが眉をひそめる。


 どうりで午後にレオンハルトのもとを訪ねても、ルシアンだけ姿が見えないわけだ。


 その言葉に、レオンハルトが鼻を鳴らした。


「薄氷の貴公子が聞いて呆れるな」


「令嬢たちが勝手に呼んでいるだけだ」


「でも、貴方も普通の人間なようで、少し安心しました」


 ジークがそう言うのも無理はない。


 お茶会に共に参加すれば、席が離れていてもルシアンは常に婚約者へ視線を向けている。


 夜会でもエルナの隣を離れず、甲斐甲斐しくエスコートを欠かさない。


 辺境伯邸へ迎えに行くときも、わざわざ公爵家の馬車を差し向けている。


 誰に対しても態度を崩さない、完璧な次期公爵。


 そんなルシアンが、婚約者にだけは驚くほど甘い。


 もはや社交界で、二人の仲を疑う者はいなかった。


「彼女のことで、おまえに言いたいことがあってな」


 レオンハルトが声を落とす。


 だが、その前に、とでも言うように文官たちへ視線を向けた。


「――お前たちの上官は、あとは帰るだけだ。早めに食堂へ行って昼食をとってこい」


 遠回しに、出ていけということだ。


 次代の頂点に立つ者たちが、わざわざ人払いをしてまで話すこと。


 この三人を相手に余計な首を突っ込まないほうが身のためだと、文官たちは即座に察した。


 あっという間に人がいなくなり、最後に秘書官が一礼して部屋を出ていく。


 扉が閉まるのを確認してから、ルシアンは首を傾げた。


「人払いするほどの話か?」


「おまえのためだと、わからんか!?」


 レオンハルトは執務机に両手をつき、ルシアンへ詰め寄った。


「リゼとシャールから、エルナ嬢がおまえを『お兄様』と呼んでいると聞いたぞ。デビュタントを終えた令嬢に、何を言わせているんだ!?」


「……そんなことか」


 ルシアンは、わずかに眉を寄せた。


 きっとレオンハルトもジークも、妻や妹、婚約者から聞いたのだろう。


 エルナも、茶会でその話題になったと言っていた。


(この二人には筒抜けだな)


そう思いながら、ルシアンは平然と答える。


「そんなことではありませんよ」


 ジークが呆れたようにため息をついた。


「エルナが幼い頃、私の名前をうまく呼べなかったから、『お兄様』と呼んだ。それが今も続いているだけだ」


「それが問題なんだと言っている」


「そうなのか?」


 本気で分からないというように、ルシアンは首を傾げた。


 エルナからは「お兄様と呼ばれることを、どう思われておりますか」と聞かれた。


 だが、ルシアンにとっては、本当に何とも思っていない。


 そんなルシアンに、レオンハルトは深いため息をついた。


「エルナ嬢はデビュタントを終えた。つまり、もう一人前の淑女だ。そして、おまえの婚約者でもある」


 一つ一つ言い聞かせるように、レオンハルトは言葉を重ねる。


「そんな彼女に『お兄様』と呼ばせ続けることが、婚約者として正常な扱いだと思うのか?」


「婚約者として、彼女の意向に沿うだけだ。エルナがそう呼びたいのなら、それで構わない」


「……夫になったあとも、『お兄様』と呼ばれるおつもりですか?」


 ジークが静かに問いかける。


「さすがに、その頃には変わるだろう」


「…………」


 レオンハルトとジークは、無言で顔を見合わせた。


 ――本当にそうだろうか。


 長年の付き合いだ。


 幼い頃から、王太子と公爵家の嫡男として、ともに学び、ともに過ごしてきた。


 だからこそ分かる。


 ルシアンは、公務においても社交においても、驚くほど隙がない。


 それなのに、なぜ婚約者との関係だけは、こうも危ういのか。


「とにかく――」


 レオンハルトは一度息を吐き、ようやく平静を取り戻すと、ルシアンをまっすぐに見つめた。


「エルナ嬢が、本当におまえを『お兄様』と呼ぶことを何とも思っていないのか。本人に聞いてみろ」


「……分かった」


 確かに、自分がどう思っているかは伝えた。


 だが、エルナ自身がどう思っているのかまでは、確かめていない。


 ルシアンは、こくりと頷いた。


 公務も社交も完璧にこなすくせに、なぜ婚約者との関係になると、こうも噛み合わなくなるのか。


 幼馴染として。そして、妻と婚約者を持つ男たちとして。


 レオンハルトとジークは、たまらなく不安になった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。