王都編1-6 確認
ルシアンは執務が長引いたようで、夕方になって辺境伯邸へやってきた。
きっと、今日のうちに顔を出してくれる。
そう信じていたエルナは、少し緊張しながら談話室へ向かった。
いつものようにルシアンの隣へ腰を下ろすと、彼は申し訳なさそうに口を開いた。
「――あの後、すぐに対応しなければならないことが増えてしまって。一人にしてすまなかった」
「侍従の方が案内してくださいましたし、ソフィーもいましたので、平気でしたわ」
エルナは気にすることではないと、首を横に振った。
庭園を出たあとはソフィーと合流し、侍従に案内されて来た道を戻っただけだ。
もし次に呼ばれることがあったとしても、今度は一人でも迷わずに行けるだろう。
ルシアンは少し安堵したような表情を浮かべた。
けれど、それも束の間。
今度は不安そうにエルナの顔を覗き込む。
「殿下との茶会は、どうだった?」
「リュミエール王国の庭園を模した、とても素敵な庭園でしたわ。それに、殿下たちにもとても親切にしていただきました」
エルナは笑みを浮かべながら、庭園の様子や、茶会で交わした会話を話していく。
庭園は本当に見事だった。
それに――今日の茶会では、とても大切なことにも気づかせてもらった。
そこまで考えたところで、エルナの視線がほんの一瞬だけ揺れる。
けれど、すぐに意を決したように顔を上げた。
「……一つ、確認したいことができました」
「どうした?」
ルシアンはいつものように、自然な素振りで先を促す。
エルナは小さく息を吸った。
それから、覚悟を決めるようにもう一度深く息を吐いてから、口を開いた。
「……お兄様と呼ばれることを、どう思われておりますか?」
一拍、空気が止まった。
「どう、とは?」
「その……私がルシアン様を、お兄様とお呼びしていることです」
真意が読めず、ルシアンはわずかに眉を寄せる。
エルナはその表情を見つめたまま、真剣な面持ちで答えを待っていた。
その姿に、ルシアンは少しだけ首を傾げる。
そして、さして深く考えることもなく口を開いた。
「特に何とも思っていない」
エルナが自分を呼んでくれるのなら、それがどんな呼び方であっても構わない。
彼女が自分を見てくれている。
自分を必要としてくれている。
――それだけで、充分だった。
「そうですか……」
エルナは静かに目を伏せた。
自分だって、エリーゼに問われるまでは疑問に思っていなかった。
きっと、ルシアンも同じなのだろう。
(デビュタントをしただけでは、婚約者として認めてはくださらないのでしょうか……)
胸の奥が、ほんの少しだけ沈んだ。
まだまだ自分は、ルシアンにとって妹分なのだ。
「何かあったのか?」
エルナの様子が変わったことに気づき、ルシアンが声の調子を少しだけ変える。
エルナは小さく息を吸った。
尋ねた以上、理由を話さなければならない。
「エリーゼ様たちとのお茶会で、皆様とお話をした結果……」
そこで一度、言葉を選ぶように間を置いた。
「お兄様は婚約者ですから……このままずっと、お兄様と呼び続けるのは、どうなのだろうと思ったのです」
幼い頃、北部蛮族との戦が起きたことで、エルナは一年ほど公爵領へ預けられた。
泣けば慰めてくれた。
絵本を読んでくれた。
勉強も教えてくれた。
一緒に城内や庭園を駆け回り、公爵夫人に叱られるときも、いつもそばにいてくれた。
ルシアンは、兄のような存在だった。
けれど――実際には、兄ではない。
いずれ夫となり、共に歩み、支えていくべき相手なのだ。
いつまでも妹のように世話を焼いてもらうことを、ただ享受しているわけにはいかない。
エルナは、そんなことを考えていた。
「そういうことか……」
ルシアンは片手で額を押さえた。
あの四人のことだ。少しエルナと話をすれば、自分とエルナの関係に気づくだろうとは思っていた。
だが、まさか本人にまで疑問を抱かせるとは。
(やってくれるじゃないか……)
内心で、思わずため息をつく。
確かに、幼い頃からエルナを実の妹のように可愛がってきた。
兄のように慕われていることに、今さら抵抗などない。
むしろ、近しい存在として心を許し、自分を頼ってくれていることが嬉しかった。
エルナには、次期公爵夫人としての自覚もある。
だからこそ、今のままでいいと思っていた。
――少なくとも、ルシアンはそう思っていた。
「昔からそう呼んでいるだろう。気にすることはない」
迷うことなく、そう答える。
どう呼ばれようと、エルナへの想いが変わるわけではない。
エルナは、自分の大切な婚約者だ。
その事実さえ変わらないのだから、呼び方にこだわる理由など、ルシアンにはなかった。
「そうですよね」
エルナは小さく頷いた。
けれど、その頷きは、ルシアンの意図とはまったく別の場所へ落ちていった。
(ルシアン様にとって、私はまだまだ子どもなのですね……)
デビュタントを終え、ようやく社交界へ足を踏み入れた。
王都の令嬢たちと同じ場所に立ち、言葉を交わすようになった。
けれど――。
エリーゼのように人の本質を見抜く目もない。
シャルロットのように、誰とでも会話を弾ませることもできない。
オリヴィアのように、相手が自然と心を開いてしまうような魅力もない。
クレアのように周囲をよく見渡し、その場に合わせて振る舞うことも、まだまだ及ばない。
皆、美しく、洗練されていて、自分と対等に言葉を交わすことのできる女性たちだ。
そんな彼女たちと並んでしまえば、自分など、まだ羽も生え揃わない雛鳥に思えてくる。
(……ルシアン様に、妹のような存在と思われていても、仕方がないのかもしれません)
そう思うと、胸の奥が少しだけ寂しくなった。
応接室には、静けさだけが戻ってきた。
すぐ隣にいるはずなのに、今はなぜか、ルシアンが遠く感じる。
(このままではいけませんわ)
エルナは胸に湧いた寂しさを振り払い、ぎゅっと手を握りしめた。
(婚約者として認めていただけるように、もっと社交を頑張りますわ……!!)
新たな決意を胸に、エルナは顔を上げる。
――お兄様と呼ぶのをどうするのか。
いつの間にか、その当初の問いはエルナの頭からすっかり抜け落ちていた。
(……安心してくれただろうか)
ルシアンは、決意を新たにしたエルナを、いつもと変わらぬ青い瞳で見つめていた。
◇ ◇ ◇
その日を境に、エルナは積極的に社交へ励むようになった。
夜会では自ら令嬢へ声をかけ、茶会でも以前より積極的に会話へ加わった。
辺境伯領という最北の地で育ったエルナは、王都の令嬢たちと話が噛み合わないこともあった。けれど、そのたびに新しいことを学び、少しずつ社交界での居場所を広げていった。




