王都編1-5 招待状
「本日の招待状は五件でございます」
いつものように執事が、エルナ宛ての茶会の招待状を卓上へ並べていく。
隣で一緒に目を通していたルシアンは、そのうちの一通を手に取ると、わずかに眉をひそめた。
深紅の封筒。
金色の封蝋には、王冠を戴く双頭の獅子が刻まれている。
王家からの招待状だった。
エルナとルシアンは、先日の茶会で王太子妃たちに囲まれた時のことを思い出し、顔を見合わせる。
慎重に封を開く。
案の定、差出人は王太子妃エリーゼだった。
参加者の名を追っていく。
王太子妃エリーゼ。王女シャルロット。ローゼンベルク侯爵令嬢オリヴィア。アーヴェル伯爵令嬢クレア。
「クレア様もいらっしゃるのですね」
その名を見つけ、エルナは少しだけ表情を和らげた。
先日の茶会では、初対面にもかかわらず気さくに話しかけてくれた令嬢だ。
四人の中では、一番話しやすいような気がしていた。
「アーヴェル伯爵令嬢も、相当だぞ……」
ルシアンが小さく呟く。
「そうですか?」
エルナは不思議そうに首を傾げた。
エリーゼはクレアを「博識で聞き上手」と紹介していた。
実際、その通りの穏やかな令嬢という印象しかない。
もちろん、それだけの人物ではないことをルシアンは知っている。
だが、これから向かう相手は、あの四人なのだ。
余計なことを話して、エルナを必要以上に身構えさせたくはなかった。
「場所は、エリーゼ様のお庭なのですね」
招待状へ目を落としたまま、エルナが呟く。
「王太子殿下がお造りになられた場所でしたね」
「ああ」
海を越えた南方の王国から嫁いできたエリーゼのため、王太子レオンハルトが整えさせた庭園。
もともと王宮にあった庭園の一角を改修したものと聞いているが、その場所へ足を踏み入れられる者は限られている。
幼馴染であるルシアンですら、まだ訪れたことはなかった。
本来ならば、大変な名誉である。
それなのに、ルシアンの胃は静かに痛み始めていた。
「エリーゼ殿下も、まだエルナとゆっくりお話ししたことがないからな。気になっているのだろう」
半ば自分へ言い聞かせるように呟く。
「そうかもしれませんわね」
エルナも素直に頷いた。
もっとも、脳裏をよぎるのは先日の光景である。
天使のような微笑みを浮かべる王太子妃。社交界の華と呼ばれる侯爵令嬢。婚約者へ想いを寄せる王女。
あの三人に囲まれた時は、まるで罠へ足を踏み入れた野兎のような気分だった。
できることなら、あまり近づきたくはない。
けれど、王太子妃からの招待を辞退するわけにもいかなかった。
(シャルロット様は昔と変わらずお優しいですし、クレア様もいらっしゃいますもの)
困った時には、きっと話を繋いでくださる。
そんな淡い期待を胸に、エルナは静かに招待状を閉じた。
◇ ◇ ◇
エリーゼに招待された茶会の当日。
ルシアンはエルナを王宮まで送り届けていた。
見慣れたはずの王宮の回廊も、今日ばかりはどこか違って見える。
少しでも長く、彼女の側にいたい。
それはエリーゼたちと向き合うエルナのためでもあり、同時に、自分自身のためでもあった。
案内役の侍従に続き、ルシアンはエルナの隣を歩く。
外廷を抜け、内廷へ。
咎められることもなく奥へ進めたことに、わずかに安堵した。
けれど、その安堵は長くは続かなかった。
庭園へ続く扉の前。
腕を組んで待ち構える一人の姿を見つけた瞬間、ルシアンは静かに悟る。
(……ここまでか)
「来ると思った」
低く落ち着いた声が響く。
そこに立っていたのは、王太子レオンハルトだった。
陽光を受けて輝く黄金の髪。
蒼穹を思わせる青い瞳には、揺るぎない自信と王者の風格が宿っている。
均整の取れた体躯へ纏う礼装は華美に過ぎず、それでいて誰もが王太子と分かるほどの威厳を放っていた。
「お久しぶりですわ、レオンハルト王太子殿下」
エルナが丁寧に一礼すると、レオンハルトは穏やかに微笑む。
「久しぶりだね、エルナ嬢。デビュタント、おめでとう」
その笑みを少し深める。
「祖母上も、とても喜んでおられたよ」
「王太后陛下にまでそのようなお言葉をいただき、光栄至極に存じます」
「そんなに堅くならなくていい」
レオンハルトは柔らかく笑った。
「今日は妻も、妹も、君を迎えるのを楽しみにしている。気負わず行っておいで」
「はい」
エルナはもう一度小さく礼をする。
その声は、先ほどより少しだけ軽やかだった。
その様子を見届けると、レオンハルトはゆっくりと視線を横へ移す。
「――で、おまえは?」
穏やかだった青い瞳が、幼馴染へ向けられた瞬間だけ鋭さを帯びた。
「早朝に来て必要な案件だけ片付けて帰ったと思えば、今度は騎士ごっこか?」
「エルナは王宮に詳しくない。付き添うのも婚約者の務めだ」
「案内役の侍従がいただろう」
「……」
鼻で笑うように返され、ルシアンは言葉に詰まった。
「ちょうどいい。おまえに判断してもらいたい案件が一つ増えた」
レオンハルトは何事でもないように続ける。
「執務室へ行って対応してくれ」
「……」
「ルシアン?」
わずかな沈黙のあと、ルシアンは真顔で口を開いた。
「……聡明な殿下がご判断なされば、よろしいのでは」
「私がおまえに任せると判断した」
即答だった。
そのやり取りをおろおろと見守っていたエルナは、そっとルシアンの隣を離れ、レオンハルトの横へ歩み寄る。
「ルシアン様、お仕事を頑張ってください」
にこりと笑って続けた。
「私は一人でも帰れますから、大丈夫です」
「――だそうだ」
レオンハルトが肩をすくめる。
ルシアンは思わず眉を寄せた。
気がかりなのは帰り道ではない。
エルナが今から足を踏み入れる、扉の向こう側なのだから。
しかし、そのささやかな抵抗も、どうやらここまでらしい。
「……承知いたしました、殿下」
降参したように肩をすくめる。
「では、行ってまいりますわ」
「なるべく早く戻ってくる」
「大丈夫ですわ」
何の迷いもない笑顔に、ルシアンは苦笑するしかなかった。
二人のやり取りを見届けると、レオンハルトは静かに庭園への扉を開く。
「気兼ねなく楽しんでくれ」
春の陽光が差し込み、その向こうには色鮮やかな庭園がわずかに覗いていた。
侍女に案内され、エルナは小さく一礼して庭園の奥へと歩いていく。
その姿が見えなくなるまで見送ったルシアンは、ゆっくりとレオンハルトへ向き直った。
「……本当に、大丈夫なんだろうな」
珍しく不安を隠さない幼馴染に、レオンハルトは肩を竦める。
「悪いようにはならないさ」
きっとあとで、妹が目を輝かせながら今日の出来事を話し始める。
妻が静かにそれを補足するのだろう。
らしくもなく不安そうな幼馴染へ何と言ってやるべきか。
それは、その時考えればいい。
「戻るぞ」
「はい、殿下」
並んで歩き出す二人の背後で、庭園へ続く扉は静かに閉じられた。
◇ ◇ ◇
エリーゼのために造られたという庭園は、エルナがこれまで見たこともない景色に満ちていた。
(あれは、リュミエール王国のお庭を模したのでしょうか……)
噴水は見当たらない。
代わりに、白い石材で築かれた壁面から清らかな水が湧き出し、小さな水盤へ静かに流れ落ちていた。
そこから溢れた水は細いせせらぎとなり、庭園のあちこちを巡りながら、色とりどりの花々や木々を潤している。
さらさらと耳に心地よい水音が、庭園全体を優しく包んでいた。
(あのお花たちは、どのようにお手入れをしているのでしょう……)
異国の花々を、この王都で美しく咲かせ続けるのは容易ではないはずだ。
侍女の後ろを歩きながらも、エルナの視線は庭園のあちらこちらへ忙しなく向けられていた。
やがて庭園の中央が見えてくる。
思わず、足を止めそうになった。
「まあ……」
そこには木の柱と梁だけで組まれた東屋があった。
屋根はなく、代わりに葡萄を思わせる蔓植物が頭上一面へ絡まり、木漏れ日のような柔らかな木陰を作り出している。
四隅には白い薄布がまとめられ、風に揺れるたび庭園へ軽やかな彩りを添えていた。
(なんて素敵な場所でしょう……)
庭園そのものが、一つの芸術作品のようだった。
見惚れるエルナを現実へ引き戻したのは、穏やかな笑い声だった。
東屋の下。
円卓を囲みながら優雅に茶を楽しむ四人の令嬢たち。
王太子妃エリーゼ。王女シャルロット。ローゼンベルク侯爵令嬢オリヴィア。アーヴェル伯爵令嬢クレア。
エルナの姿に気づくと、エリーゼは静かに立ち上がる。
柔らかな微笑みを浮かべたその姿は、まるでこの庭園そのものを迎える女主人のようだった。
「またお会いできて嬉しいですわ。今日はたくさんお話しいたしましょうね」
柔らかな笑みを浮かべるエリーゼへ、エルナは一礼する。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「どうぞ、こちらへ」
エリーゼが空いている席を示した。
「はい」
案内されたのは、シャルロットとクレアの間だった。
「よろしくお願いいたします」
着席したエルナへ、シャルロットがぱっと顔を輝かせる。
「お待ちしておりましたわ!」
その無邪気な笑顔に、エルナの肩から少しだけ力が抜けた。
クレアは穏やかに微笑み、オリヴィアも静かに会釈を返す。
円卓を見回せば、向かいにはエリーゼとオリヴィア。
陽光を受ける金髪と、艶やかな黒髪。
まるで一枚の絵画のような二人の姿に、エルナは思わず見惚れた。
(眼福ですわ……)
もし両隣がエリーゼとオリヴィアだったら、緊張で紅茶の味も分からなくなっていたかもしれない。
そんなことを考えているうちに、侍女が香り高い紅茶を一人ひとりの前へ静かに置いていく。
立ち上る湯気とともに、爽やかな茶葉の香りが庭園へ広がった。
その香りを楽しんでから、エリーゼが穏やかに口を開く。
「庭園はいかがでしたか?」
「初めて見る様式で、とても素敵でした。咲いているお花は、リュミエール王国のものなのですか?」
「ええ。故郷から取り寄せた花を育てております」
「やはりそうなのですね!」
エルナは嬉しそうに身を乗り出した。
「異国の地で、こんなにも美しく咲かせ続けるなんて……お花も、お世話をされている方も、本当に素晴らしいですわ」
その言葉に、シャルロットが誇らしげに微笑む。
「今では、お義姉様もご自身でお手入れをなさっておりますの」
「まあ!」
エルナの瞳がさらに輝いた。
花の育て方。季節ごとの手入れ。故郷とは異なる土壌や気候で育てる難しさ。
さらには、この庭園様式に込められたリュミエール王国の文化まで。
エリーゼは一つひとつ丁寧に答え、そのたびにエルナは感心したように頷く。
庭園の話に夢中になるうち、先ほどまでの緊張はいつの間にか消えていた。
その様子を静かに見届けると、エリーゼは紅茶へ口をつけ、そっとカップを置く。
そして、穏やかな笑みを浮かべたまま口を開いた。
「――そういえば、王都の商店はいかがでしたか?」
「とても楽しかったですわ」
あの日の外出を思い出し、エルナは自然と笑みを浮かべた。
けれど、すぐに小さく首を傾げる。
(……なぜ、ご存知なのでしょう?)
その表情を見て、エリーゼがくすりと微笑んだ。
「先日のお茶会で、『私もお店へ行ってみますわ』と仰っていたでしょう」
「あ……そうでしたわ」
言われて思い出し、エルナは納得したように頷く。
その様子を、四人は穏やかに見守っていた。
ふと視線を横へ向けると、クレアの膝の上には見覚えのある手帳が開かれていた。
先ほど庭園の話をしている間も、時折さらさらとペンを走らせていた気がする。
「クレア様は、いつも手帳をお持ちなのですね」
「ええ」
クレアは微笑みながら眼鏡をそっと押し上げた。
「大したものではございませんので、お気になさらず」
「そうなのですね」
きっと記録を付けることがお好きなのだろう。
エルナは素直に頷いた。
そのやり取りを見届けると、エリーゼが静かに口を開こうとする。
――その瞬間。
待ちきれなくなったシャルロットが、ぱっと身を乗り出した。
「本屋さんへ行かれたのでしょう!? 何をご覧になったのです!?」
「シャール」
エリーゼが穏やかにたしなめる。
けれど、待ちきれなかったシャルロットは身を乗り出したままだった。
その期待に満ちた瞳を見て、エルナは嬉しそうに微笑む。
「仕掛け絵本がたくさんありまして、つい夢中になってしまいました」
「私も仕掛け絵本は大好きですわ! ほかにはどのような本をご覧になりましたの?」
「ええと……」
少し考えてから、エルナは指を折りながら答える。
「野草をまとめた最新版や、野外活動の経験録、それから商船の冒険譚も気になりましたわ」
その答えに、エリーゼとオリヴィアは静かに耳を傾け、クレアはさらさらと手帳へペンを走らせる。
一方のシャルロットは、小さく首を傾げた。
「……王子様と侍女の身分違いのお話の最新刊は、ご覧になりませんでしたの?」
「そういえば、たくさん積まれておりましたね」
「今、王都で一番話題になっている恋愛小説なのですわ!」
シャルロットは思わず両手を胸の前で握りしめた。
「もう、続きが気になって仕方なくて……!」
その熱量に、エルナは少し申し訳なさそうに微笑む。
「私、あまり恋愛小説は読んだことがないのです」
「まあ……」
「小説でしたら、騎士物語の方が好きですわ」
一瞬だけ、その場が静かになった。
「そうなのですね……」
期待していた答えとは違ったらしい。
少しだけ肩を落とすシャルロットへ、エリーゼがくすりと微笑む。
「辺境伯令嬢らしくて、よろしいではありませんか」
その言葉に、オリヴィアも小さく口元を緩める。
クレアのペンだけが、変わらぬ調子でさらさらと紙の上を滑っていた。
「仕立て屋さんはいかがでしたの!?」
「可愛らしいドレスがたくさんございました」
エルナは嬉しそうに頷く。
「ですが、やはりルシアン様が贈ってくださるドレスの方が、私は好きですわ」
「まあ!」
シャルロットがぱっと顔を輝かせた。
その一言をきっかけに、話題は自然とルシアンからの贈り物へ移っていく。
「これまで、どのようなものをいただいたのです?」
「季節ごとのドレスや夜会用の装飾品、それから本やお菓子などもございます」
どこまで話してよいものか迷いながらも、エルナは一つひとつ思い出すように答えていく。
シャルロットは驚いたり、頬を緩めたり、時には羨ましそうに息を漏らしたりと、その表情は目まぐるしく変わっていった。
「王都で必要なものも、いつもルシアン様がご用意くださいますの」
その言葉を境に、円卓の空気が一瞬だけ止まる。
「……ジーク様でも、そこまではなさいませんわ」
シャルロットがぽつりと漏らした。
「シャルロット様が王女殿下だからではありませんか?」
エルナが首を傾げる。
するとオリヴィアが思わず口を開いた。
「王女殿下でなくとも、普通はそこまでいたしませんわ」
「公子様は、エルナ様にだけ特別なのですね」
クレアはさらさらと手帳へペンを走らせる。
エリーゼは何も言わず、静かに紅茶へ口をつけた。
「私が不自由しないよう、ご用意くださっているだけですわ」
エルナは少しも疑うことなく微笑む。
「ルシアン様は、昔からお優しいのです」
「昔から……と仰いますと?」
クレアが穏やかに尋ねる。
「初めてお会いした時からですわ」
迷うことなく返ってきた答えに、四人は顔を見合わせた。
オリヴィアは小さく天を仰ぐ。
シャルロットはぱちぱちと瞬きを繰り返し、クレアのペンだけが、変わらぬ速さで紙の上を滑っていた。
エリーゼは静かにカップをソーサーへ戻す。
その仕草はいつもと変わらず優雅だったが、その翡翠色の瞳だけは、静かに何かを確かめるようにエルナを見つめていた。
「ところで、ほかのお店はいかがでしたか」
「リボンとレースのお店で、とても素敵なリボンを見つけましたわ」
「どのようなリボンでしたの?」
エリーゼが穏やかに尋ねる。
エルナは嬉しそうに微笑んだ。
「深い青色のリボンに、金糸と銀糸で小さな星が刺繍されているのです。夏の夜空みたいで、とても気に入りましたわ」
その瞬間。
四人の間へ、ほんのわずかな沈黙が落ちた。
「それは――」
思わず口を開いたシャルロットを、エリーゼが静かに制する。
「シャール」
「……はい」
シャルロットは慌てて口をつぐんだ。
エリーゼは何事もなかったかのように続ける。
「青と、金と、銀……。ほかに気になった組み合わせはありませんでしたの?」
「いいえ」
エルナは迷いなく首を振った。
「どれも素敵でしたけれど、私はあのリボンが一番気に入りましたわ」
「そう……」
エリーゼは静かに頷く。
「きっと、とても素敵なリボンなのでしょうね」
「はい」
屈託なく笑うエルナを見て、四人はそれぞれ小さく息をついた。
――偶然。
本当に偶然なのだ。
そこへ何の意味も込めていない。
だからこそ、余計に驚かされる。
エリーゼは優しく微笑んだまま、そっと話を続けた。
「公子様には、お見せになりましたの?」
「はい。侍女に結っていただいてから、お見せしましたわ」
「公子様は、何と?」
「『よくできている』と褒めてくださいましたわ!」
嬉しそうに答えるエルナ。
その笑顔を見つめながら、オリヴィアは思わず額へ手を添えた。
クレアは肩を震わせながら、手帳へさらさらとペンを走らせる。
シャルロットは困ったようにエリーゼを見つめた。
「……それは、褒めるに入るのですか?」
「もちろんですわ」
エルナは即座に頷く。
その迷いのない返事に、シャルロットはますます自信を失ったように首を傾げる。
「……そう、なのですか?」
助けを求めるようにエリーゼを見上げる。
エリーゼは静かに微笑むだけだった。
シャルロットへ気づかないまま、エルナは菓子屋での出来事を思い返した。
「――好みは特にないと仰っておりましたが、私が選んだものなら、なんでも好きだと仰ってくださいました」
「…………!!」
あまりにも自然に紡がれたその一言に、シャルロットは思わず両手で口元を押さえた。
声にならない悲鳴が漏れそうになる。
クレアのペンは、もはや紙を滑る音が止まらない。
エリーゼは静かにオリヴィアへ視線を送った。
その一瞬のやり取りだけで意図を察したオリヴィアが、穏やかに口を開く。
「エルナ様は、公子様を何とお呼びになっておりますの?」
あまりにも自然な問いだった。
だからこそ、エルナも何の疑問も抱かず答えてしまう。
「普段は、お兄様ですわ」
その瞬間だった。
円卓を包んでいた穏やかな空気が、ぴたりと止まる。
春風だけが庭園を渡り、木々の葉を静かに揺らした。
シャルロットは目を丸くしたまま固まり、クレアのペンが、初めて止まる。
オリヴィアはゆっくりと目を閉じ、エリーゼは静かに紅茶のカップをソーサーへ戻した。
(……つい、言ってしまいましたわ)
しまった、とエルナは胸の内で小さく肩を落とす。
あまりにも自然に尋ねられたものだから、いつものように答えてしまった。
(どうしましょう……)
そっと視線を泳がせるエルナへ、エリーゼが静かに声をかける。
「辺境伯令嬢」
「……はい」
「公子は、あなたの婚約者です」
「存じておりますわ……」
責める響きは、どこにもない。
それなのに、その穏やかな声音を聞いていると、自分がとても大きな失敗をしてしまったような気持ちになる。
「では、なぜ『お兄様』とお呼びになるのですか」
「物心ついた頃から、ずっとそう呼んでおりましたので……」
「それが今も続いている、と」
「はい……」
しゅん、と肩を落とすエルナを見つめながら、四人はようやく胸の中で一つの答えに辿り着いていた。
――そういうことだったのだ。
公子の想いに気づかないことも。
無防備な距離感も。
婚約者として向けられる特別な愛情を、「昔から優しい人だから」の一言で受け止めてしまうことも。
すべて、この一言に集約されていた。
『お兄様』
エリーゼは静かに目を細める。
これまで抱いていた違和感が、ようやく一つに繋がった。
「公子様は『お兄様』と呼ばれることに、どう思われていらっしゃるのでしょう?」
エリーゼの問いに、エルナはこれまでのルシアンの様子を振り返った。
少し考えてから、ゆっくりと首を振る。
「わかりませんわ。何も仰いませんもの」
いつだって「お兄様」と呼べば、優しい表情でこちらを見てくれる。
嫌がる素振りなど、一度も見たことがなかった。
だから、今まで何も疑問に思ったことがなかったのだ。
「辺境伯令嬢は、公子様が何も仰らないのであれば、このままでよろしいとお考えですか?」
「私は……」
エリーゼの問いに、エルナは言葉を止めた。
そして、改めてルシアンとの関係について考える。
当たり前のことだが、ルシアンとは血の繋がりはない。
兄のように慕い、妹のように大切にしてもらってきた。
けれど、自分はルシアンの妹ではない。
婚約者なのだ。
夫となったルシアンを、「お兄様」と呼ぶことはできない。
兄妹ごっこをしたいわけでもない。
――ルシアンの隣に立つために、今まで頑張ってきたのではなかったか。
そう考えると、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
エルナはゆっくりと顔を上げた。
「私は婚約者ですもの」
その瞳に、迷いが消えていく。
「ルシアン様をお支えするのが、私の務めですわ」
妹ではない。
「ルシアン様がどう思っていらっしゃるのか、聞いてみますわ」
もしかしたら、実は抵抗があるのかもしれない。自分が何の疑問も抱かずに「お兄様」と呼んでいたから、気を遣って何も仰らなかっただけなのかもしれない。
けれど、いつまでもルシアンに甘えているわけにはいかない。
自分はもう、妹ではない。ルシアンの婚約者なのだから。
「……そうですわね。それが一番よろしいでしょう」
エリーゼは微笑んだ。
どうやら、ただ大切に育てられているだけの令嬢ではないようだ。 自分で考え、自分で答えを出し、相手に確かめることもできる。
「公子様がなんと仰っていたか、教えてくださいね」
「もちろんですわ」
エリーゼの笑みの意味には気づかないまま、エルナは素直に頷いた。
その後は、庭園の花や王都で流行しているお菓子、最近読んだ本の話など、他愛のない会話に花を咲かせた。
気づけば、初めてこの庭園へ足を踏み入れたときに感じていた緊張も、すっかり消えている。
(私とルシアン様のことまで気にかけてくださって……皆様、とても優しい方たちですわ)
そんなことを思いながら、エルナは穏やかに微笑んだ。
そうして、和やかな空気のまま茶会は幕を閉じた。
◇ ◇ ◇
エルナが去った庭園で、エリーゼは静かに呟いた。
「想像以上ね」
「公子様にも原因がありますわね」
オリヴィアも小さくため息をついた。
「信じられませんわ……」
シャルロットが素直に感想を漏らす。
「これは記録のしがいがありますね」
クレアは眼鏡を押さえながら、手帳へ視線を落とした。
それぞれの反応を眺めながら、エリーゼは目を細める。
エルナとルシアンの関係は、想像していた以上に複雑だった。
けれど、あれほど長い時間を兄妹のように過ごしてきたのだ。特定の感情に疎くなってしまうのも、無理はないのかもしれない。
それでもエルナは、ルシアンの気持ちを知ろうと自分から問いかけることを選んだ。
根はきっと聡い子なのだ。
いつか、自分でも気づく日が来るだろう。
「しばらくは、見守りましょう」
エリーゼの言葉に、三人は頷いた。
驚きはした。 けれど、それ以上に、この二人がこれからどこへ向かうのか――見届けてみたい。
そんな思いは、四人とも同じだった。




