王都編1-4 外出
辺境伯邸を出たエルナは、朝から足取りが軽かった。
今日はルシアンが王宮で会議のため、早くとも昼過ぎまでは戻らない。
王都を歩くには、これ以上ない好機だった。
(私だって、一人で王都を歩けますわ)
デビュタントを終え、社交界の一員となった。
もう子どもではない。
昨日のお茶会で聞いた菓子屋や本屋、仕立て屋やリボンの店。
今日は自分の足で巡ってみようと、胸が弾んでいた。
「本当に、馬車はお使いにならないのですか?」
隣を歩く侍女ソフィーが、どこか心配そうに尋ねる。
エルナはにこりと笑って頷いた。
「馬車では景色が見えにくいですし、自分で歩いた方が道も覚えられますもの」
少し考えてから、楽しそうに続ける。
「さすがに王都で馬を乗り回すわけにはまいりませんでしょう?」
その言葉に、ソフィーは思わず苦笑を漏らした。
辺境伯領なら、馬で城下町を駆ける令嬢も珍しくない。
だが、ここは王都だ。
「それに、今日は騎士の皆もおります。」
エルナは後ろを振り返る。
少し距離を空けて付き従う二人の護衛騎士へ、嬉しそうに微笑んだ。
「我が家の騎士は王国一ですわ。」
「……ありがとうございます。」
騎士たちは胸へ拳を当て、一礼する。
主君から向けられるまっすぐな信頼に、自然と口元が緩んでいた。
「今日は一緒に王都を楽しみましょうね。」
「はっ。」
元気よく返事が返ってくる。
「王宮前の広場は高級店ばかりだと伺いましたから、まずは一本奥の通りへ参りましょう。」
昨日、お茶会で教えてもらった店もある。
本屋。菓子屋。仕立て屋。リボン専門店。
見て歩くだけでも楽しそうだ。
(お菓子屋さんがあれば、ルシアン様へのお土産も買いたいですわ。)
いつも自分のために王都の流行を届けてくれる婚約者へ、今日は自分が贈ってみたい。
そんな小さな楽しみを胸に、エルナは春の王都へと軽やかに歩き出した。
◇ ◇ ◇
王宮前の広場へ到着したエルナは、思わず足を止めた。
王国で一、二を争う名店が軒を連ねる広場。
歴史を感じさせる重厚な石造りの建物に、磨き上げられた真鍮の看板。大きなガラス窓には、職人の技が光る宝飾や衣装が美しく飾られている。
どの店も老舗らしい風格と品格を漂わせ、生半可な者では一歩踏み入れることすらためらわれるほどだった。
(……一人で入るには、少し勇気がいりますわね)
ルシアンならば、何事もないように扉を開けて入っていくのだろう。
そんな姿を思い浮かべ、エルナは小さく笑う。
けれど、今日の目的はここではない。
またいつか。
そう胸の中で約束すると、エルナは広場から一本奥へ続く通りへ足を向けた。
そこに広がっていた光景に、今度は思わず目を見開く。
高級店が並ぶ広場ほど格式張ってはいない。
それでも辺境伯領の城下町とはまるで違っていた。
色鮮やかな外壁。季節の花で飾られた店先。
木彫りの看板には、本や菓子、布やリボンが愛らしく描かれ、どんな店なのか一目で分かる。
店の前を歩くだけで、焼き菓子の甘い香りや、焼きたてのパンの匂いが風に乗って届いてくる。
まるで街そのものが「いらっしゃい」と歓迎してくれているようだった。
「ソフィー、見てください。」
エルナは思わず立ち止まり、振り返る。
「辺境伯領の城下町とは、まるで違います!」
茶色の瞳は、子どものようにきらきらと輝いていた。
「見ているだけでも、とても楽しいですわ。」
その様子に、ソフィーは思わず頬を緩める。
「お嬢様。」
少しだけ困ったように笑いながら声を掛けた。
「今日は、お店へ入ってお買い物をするのが目的でしたでしょう?」
「……そうでしたわ!」
はっと我に返ったエルナは、照れくさそうに笑う。
王都を探検したい気持ちは山ほどある。
けれど今日は、昨日のお茶会で教えてもらった店を、自分の足で巡ると決めていた。
きょろきょろと辺りを見回していると、一軒の本屋が目に留まる。
窓辺には美しく装丁された本が並び、入口には「新刊入荷」の札が揺れていた。
「まずは、本屋さんへ参りましょう。」
期待に胸を弾ませながら、エルナは軽やかな足取りで店へ向かった。
本屋へ足を踏み入れたエルナは、所狭しと並ぶ新刊の数々に思わず目を見張った。
子ども向けの絵本から、辺境伯領では滅多に見かけない仕掛け絵本まで揃っている。
一冊を手に取り、そっと開く。
すると大きな木が立体的に飛び出し、枝からは色鮮やかな蝶々がゆらゆらと揺れた。
さらに頁をめくれば、今度は楽器を手にした森の動物たちが楽しげに姿を現す。
「ソフィー、見てください。可愛いです。蝶々さんが動きます!!」
思わず夢中になって頁をめくっていたエルナは、はっと手を止めた。
(……これでは、まるで子どもみたいですわ)
今日は社交界へデビューした淑女として王都へ来ている。
少しだけ頬を染めながら、エルナは仕掛け絵本を棚へ戻した。
(私ももう淑女ですもの。静かに楽しみましょう)
そう心に決め、新たな仕掛け絵本を手に取る。
今度は落ち着いた様子で頁をめくる。
……けれど、瞳だけは先ほどと変わらず、きらきらと輝いていた。
そんな主人の様子を見つめ、ソフィーは思わず小さく苦笑する。
仕掛け絵本を十分に堪能すると、エルナは今度は山積みにされた新刊へ目を向けた。
王都近郊や西部の野草をまとめた最新版。遥か東方での野外活動の経験録。南方の港町を巡る商船冒険譚。
興味を引かれる本ばかりで、思わず手が伸びそうになる。
けれど、ここで何冊も買えば、ソフィーや護衛騎士たちに持たせる荷物が増えてしまう。
「ソフィー」
「はい、お嬢様」
「欲しい本をメモしておきますので、時間のあるときに使用人へ買いに行ってもらってください」
「かしこまりました」
まだ「王都広報」も「王都時報」も読み終えていない。
急ぐ必要はない。あとでゆっくり読めばいい。
そう思いながら、エルナは名残惜しそうに本棚を見つめ、本屋をあとにした。
次に訪れたのは仕立て屋だった。
店内では数組の親子や令嬢たちが、完成したドレスを手に取り、鏡の前で楽しげに合わせている。
「どれも一点ものでございます。あちらで採寸をいたしますので、少しお直しをすればすぐにお召しになれますよ」
店員の声を聞きながら、エルナは目についた空色のドレスをそっと手に取った。
(普段のお出掛け用、といったところでしょうか……)
胸元や裾には可愛らしいリボンと繊細なレースがあしらわれ、仕立ても丁寧だ。
次に淡い黄色のドレスへ目を向ける。
こちらは装飾を控えめにした、すっきりと上品な一着。
さらに桃色、薄緑色、藤色――。
どれも可愛らしく、美しい。
けれど、なぜだろう。
レースの重なり方も、刺繍の細やかさも、生地の落ち方も、どこか物足りなく感じてしまう。
決して悪い仕立てではない。
むしろ辺境伯領なら十分に評判となる一着ばかりだ。
それでも、胸が高鳴らなかった。
(私には少し合わないのでしょうか……)
首を傾げながら、エルナはドレスを元の場所へ戻した。
自然と脳裏に浮かぶのは、これまでルシアンから贈られた数々のドレス。
繊細な刺繍。軽やかに揺れる上質な生地。光の加減で表情を変える宝石のような装飾。
あの一着一着は、袖を通すたびに心が躍る特別なものだった。
(ルシアン様は、いつもどちらの仕立て屋さんへお願いされているのでしょう……)
ふと、王宮広場で目にした格式高い仕立て屋が頭をよぎる。
そこまで考えて、小さく首を振った。
(ドレスはルシアン様が贈ってくださった分でじゅうぶんですわ)
急いで必要なわけではない。
そう自分に言い聞かせると、エルナは店員へ丁寧に礼を述べ、仕立て屋をあとにした。
次に訪れたのは、リボンとレースの専門店だった。
こぢんまりとした店構えながら、一歩足を踏み入れた瞬間、思わず息を呑む。
店内は、まるで宝箱のようだった。
繊細な織りのリボンから、色鮮やかな刺繍が施されたものまで、大小さまざまなリボンが美しく巻かれ、壁一面に並べられている。
「こちらのお店も素敵ですわ」
思わず声を漏らしたエルナへ、店主が微笑んだ。
「ドレス用から髪飾り用まで取り揃えております。お好みの長さにお切りいたしますよ」
「それはありがたいですわ」
礼を返しながら、エルナはゆっくりと店内を見て回る。
花柄を織り込んだもの。野草を刺繍したもの。薄いレースを幾重にも重ねたもの。
どれも愛らしく、眺めているだけで自然と頬が緩んだ。
髪飾り用のリボンが並ぶ棚へ足を止めた、その時だった。
一つのリボンが、ふと目に留まる。
深い青色の生地に、金糸と銀糸で散りばめられた小さな星々。
(……夏の夜空みたいですわ)
そっと手に取る。
光を受けるたび、星の刺繍が瞬くように輝き、なめらかな生地は指先へ心地よく馴染んだ。
リボンなら辺境伯領で買ったお気に入りが何本もある。
けれど、これほど心を惹かれたものは初めてだった。
見入ったまま動きを止めたエルナへ、ソフィーが穏やかに声を掛ける。
「そのお色でしたら、公子様がお贈りくださった青や緑、黄色のドレスにもよくお似合いになりますよ」
「そうですか?」
「はい」
エルナはリボンを見つめたまま、小さく微笑んだ。
「お星さまの刺繍が、とても気に入りましたの」
「それはようございました」
気に入った理由は、本当にそれだけだったのだろうか。
ソフィーは胸の内だけで小さく微笑み、口にはしなかった。
店主を呼ぶと、リボンは髪へ結びやすい長さへ丁寧に切り分けられる。
端はほつれないよう同じ青色の糸で細やかにかがられ、最後はリボンと同じ色をした小さな封筒へ納められた。
「ありがとうございます」
「きっと、お嬢様によくお似合いになりますよ」
店主の言葉に笑顔で礼を返し、エルナは店をあとにする。
封筒を大切そうに抱えながら、振り返ってソフィーへ微笑んだ。
「帰りましたら、ルシアン様がお見えになる前に結っていただけますか?」
「もちろんでございます、お嬢様」
どんな結い方なら、この星空のリボンが一番美しく映えるだろう。
そんなことを考えながら歩くエルナの隣で、ソフィーは静かに目を細めた。
(きっと、公子様も驚かれますね)
青いリボンが風に揺れる姿を思い浮かべ、ソフィーは小さく微笑んだ。
最後に訪れたのは、焼き菓子専門の菓子屋だった。
店先には色とりどりの焼き菓子が描かれた看板が掛けられ、扉を開けると、甘く香ばしい香りがふわりと鼻をくすぐる。
「まあ……」
思わず声が漏れた。
店内には藤籠がいくつも並び、その中には花の形をした色鮮やかなジャムクッキー、一口サイズの可愛らしいマカロン、ドライフルーツを贅沢に飾った焼き菓子など、見ているだけで心が弾む品々が所狭しと並んでいた。
「どれも美味しそうで、迷ってしまいますわ」
目を輝かせるエルナへ、店員がにこやかに微笑む。
「当店では、季節の果物を使った焼き菓子が一番人気でございます」
ジャムクッキーも気になる。
けれど、今日は自分のためではない。
家族やルシアンへのお土産を選びたい。
(何が喜ばれるでしょう……)
辺境伯領での食卓を思い浮かべる。
父や兄たちは、香辛料を利かせた干し肉を酒の肴にすることが多い。
それでも、仕事で疲れた日は甘い菓子を嬉しそうに口へ運んでいた。
母は昔から甘いものが大好きだ。
では――。
(ルシアン様は……)
そこまで考えて、エルナははっと息を呑んだ。
(私……ルシアン様のお好みを存じ上げませんわ……!)
共にお茶を飲むことは何度もあった。
けれど、いつも同じ菓子を口にしていたような気がする。
好きだから選んでいたのか。
それとも、エルナに合わせていただけなのか。
幼い頃からの思い出を一つひとつ辿ってみても、好物の話を聞いた覚えはなかった。
(……分かりませんわ)
少しだけ肩を落とし、エルナは店員へ顔を向ける。
「殿方がお好みになる焼き菓子はございますか?」
「でしたら、こちらのナッツをたっぷり使ったクッキーや、オレンジピールを練り込んだ焼き菓子が人気でございます」
「ありがとうございます」
エルナは二つの菓子を見比べる。
ルシアンなら、どちらを選ぶのだろう。
しばらく悩んだ末、甘さが控えめで香ばしそうなナッツのクッキーを手に取った。
家族には、オレンジピールの焼き菓子を。
「こちらをお願いいたします」
包みを受け取ると、大切そうに胸へ抱える。
(帰ったら、お聞きしてみましょう)
好きなお茶は。好きなお菓子は。
まだ知らないことが、こんなにもあったのだ。
「それでは、ルシアン様がお戻りになる前に帰りましょう」
「はい、お嬢様」
満足そうに微笑むエルナは、小さな包みを抱えながら菓子屋をあとにした。
◇ ◇ ◇
午後になり、ルシアン来訪の報せが入った。
エルナはクッキーの包みを大切に抱えると、足早に談話室へ向かう。
「お待ちしておりましたわ、お兄様!」
「元気そうだな」
「はい」
ルシアンの隣へ腰を下ろすと、エルナは嬉しそうに口を開いた。
「今日は午前中に、お買い物へ行ってまいりました」
「……」
その一言に、ルシアンの動きがぴたりと止まる。
けれど、当のエルナは気づかない。
「本屋さんと、仕立て屋さんと、リボンとレースのお店、それからお菓子屋さんにも参りましたわ」
「……誰と?」
「ソフィーと騎士たちです」
その答えに、ルシアンは小さく息をついた。
護衛が付いていたことに安堵する。
しかし同時に、新たな疑問が浮かんだ。
(なぜ、急に……。)
今まで、エルナが王都で外出したいと言い出したことは一度もない。
自分がデビュタント前の彼女を連れて街へ出れば、人目を集めるのは避けられない。
辺境伯夫妻は公務で王都へ滞在しているため、街を遊び歩くという発想もない。
そしてエルナ自身も、公爵夫人との淑女教育や、公爵邸の図書室、庭園での時間を楽しんでいた。
王都での暮らしに必要なものは、自分が不足なく揃えてきた。
不自由を感じさせたことはない――そう思っていた。
「何か足りないものでもあったのか。それとも、邸で過ごすには不十分だったか」
「いいえ?」
エルナは不思議そうに首を傾げる。
「必要なものは、お兄様がいつもご用意くださいますし、公爵夫人も色々教えてくださいます。公爵邸のお庭も綺麗ですし、まだ読んでいない本もたくさんありますわ」
穏やかに答えるその様子に、嘘はない。
だからこそ、ルシアンにはなおさら分からなかった。
「では、どうして……」
「昨日のエリーゼ様のお茶会で、皆様ご自身でお店へいらしていると伺いましたでしょう?」
エルナはにこりと笑う。
「私も見習おうと思いましたの」
「……そういうことか」
ようやく合点がいった。
デビュタントを終え、社交界へ足を踏み入れたことで、エルナは自らの意思で世界を広げようとしている。
誰かに言われたからではない。自分で見て、考え、歩き始めたのだ。
それは本来、喜ぶべき成長だった。
けれど。
(ひと言、声を掛けてくれれば……。)
そうすれば、自分も一緒に歩けた。
案内したい店も、本屋も、菓子屋も、いくらでもあったというのに。
胸の奥へ、ほんの少しだけ寂しさが滲む。
それでも、その感情は表へ出さず、ルシアンは静かに微笑んだ。
「そうか」
その一言に、エルナは嬉しそうに頷く。
「一人でお菓子だって買えたのです」
誇らしげに抱えた包みを見せる姿は、まるで褒めてもらうのを待つ子どものようだった。
「――ですが、お兄様のお好みが分からなかったので、お店の方へおすすめを伺いましたの」
少し困ったように、エルナが肩をすくめる。
「お兄様は、どのようなお菓子がお好きですか」
「私の好み?」
「はい」
思いがけない問いだった。
ルシアンはわずかに首をひねる。
好み――。
そう言われても、すぐには思い浮かばない。
食事も菓子も、腹が満たされ、紅茶に合うものであれば十分だった。
着るものも、使うものも、相応しいものであればそれでいい。
少し考えた末、ルシアンは静かに答えた。
「特にはないな」
「え?」
「紅茶に合えば、何でも構わない」
「そうですか……」
エルナは困ったように、膝の上の包みへ視線を落とした。
せっかくお土産を選んだのに、喜んでもらえるのか分からない。
その様子を見て、ルシアンはようやく我に返る。
「……いや」
包みを見つめるエルナへ、穏やかに微笑んだ。
「エルナが選んでくれるものなら、何でも好きだ」
「そうですか……?」
まだ少し半信半疑のまま見上げるエルナへ、ルシアンはゆっくりと頷く。
「ああ」
それは嘘ではなかった。
彼女が、自分のために初めて選んでくれた菓子だ。
嬉しくないはずがない。
「見てもいいだろうか」
「もちろんですわ」
包みを開くと、香ばしい焼き菓子の香りがふわりと広がる。
ぎっしりとナッツが詰まった、素朴な焼き菓子だった。
「ありがとう。美味しそうだ」
クッキーを見つめたまま、ルシアンは柔らかく微笑む。
「あとで、一緒にいただこう」
「はいっ」
嬉しそうに頷くエルナを見て、ルシアンも自然と口元を緩めた。
本当なら、この包みごと大切に取っておきたいくらいだ。
そんなことを考えながら視線を上げると、ふと、エルナの髪に結ばれた見慣れない青いリボンが目に留まった。
「そのリボンは?」
彼女が身につけているものとしては、見覚えのないものだった。
ルシアンが尋ねると、エルナはぱっと顔を輝かせる。
「リボンとレースのお店で見つけたのです」
そう言うなり、もっとよく見てもらおうと思ったのだろう。
エルナはルシアンのすぐ隣へ座り直すと、くるりと背を向けた。
「ご覧ください」
ふわりと揺れた栗色の髪が、すぐ目の前へ流れる。
その距離に、ルシアンは思わず息を呑んだ。
肩が触れそうなほど近い。
けれど当の本人は、そんなことなどまるで気にも留めていない。
平静を装いながらリボンへ目を向ける。
その瞬間、ルシアンの思考が止まった。
深い青色の生地。そこへ金糸と銀糸で、小さな星々が丁寧に刺繍されている。
まるで――。
「夏の夜空みたいで、素敵でしょう」
嬉しそうな声が耳へ届く。
「……そうだな」
それ以上は、何も言えなかった。
そういうことに、しておこう。
「ソフィーが上手に結ってくれました」
「よくできている」
青いリボンは栗色の髪へ自然と溶け込み、その星々は光を受けるたび控えめに瞬いていた。
思わず口元が緩む。
(今日は、驚かされてばかりだ……)
ようやく落ち着きを取り戻した頃、エルナが姿勢を戻した。
自然と視線が重なる。
(……近い)
思わず頭を撫でたくなる。
幼い頃なら、ごく自然にそうしていただろう。
けれど、もう彼女は社交界へデビューした淑女だ。
軽々しく触れていい相手ではなかった。
一方のエルナは、そんなルシアンの葛藤など露ほども知らず、楽しそうに話し始める。
「本屋さんと仕立て屋さんへも参りましたわ」
仕掛け絵本に夢中になってしまったこと。気になる本がたくさんあったこと。
仕立て屋のドレスも素敵だったけれど、やっぱりルシアンが贈ってくれたドレスの方が好きだったこと。
王都での小さな冒険を、一つひとつ嬉しそうに語っていく。
そのきらきらと輝く茶色の瞳を見つめながら、ルシアンは静かに耳を傾けていた。




