王都編1-9 ヴァレリオン公爵家夜会
ヴァレリオン公爵家の夜会へ訪れたエルナは、いつも以上に品格と格式に満ちた邸内に圧倒されていた。
エントランスホールでは、公爵家の色である紺と金を思わせるように、大きな青い紫陽花と黄色い百合が出迎えている。
どちらも主役になれるほど存在感のある花だというのに、周囲には小さな青や桜色、白の花々が添えられ、互いの色を引き立てながら見事な調和を生み出していた。
大広間へ足を踏み入れれば、青いデルフィニウムや黄色と白の薔薇が、広々とした会場を彩っている。
色彩は華やかなのに、決して派手すぎない。
一つひとつが美しいだけではなく、すべてが計算されたように配置され、会場全体で一つの美しい景色を作り上げていた。
繊細なレースのテーブルクロスが掛けられた軽食の席には、思わず手を伸ばすことを躊躇ってしまうほど、芸術的に仕上げられた料理が並んでいる。
塊のまま美しく焼き上げられた牛フィレ肉。鳳凰を模して盛り付けられた温野菜。
細やかな装飾が施された、大きなケーキ。
どれも見事な料理でありながら、食卓そのものが華美になりすぎない。上質なものを惜しみなく使いながらも、決してこれ見よがしには見せない。
「いつ見ても、格式ばっているのに美しいな」
「ええ。今年も見事ですわね」
慣れた様子で会場を眺める辺境伯夫妻の隣で、スヴェンとエルナはただ圧倒されるように大広間を見渡していた。
「……いつもの公爵邸の方が気楽だよな」
「そうですわね……」
スヴェンの言葉に、エルナも小さく頷く。
何度も訪れたことのある公爵邸のはずだった。 ルシアンと過ごした談話室も、庭園も、廊下も知っている。
けれど、今夜の公爵邸はまるで別の場所だった。
いつもは穏やかに見える大広間も、今夜は一分の隙もなく整えられている。 花の色も、料理の盛り付けも、テーブルの配置さえ、すべてに意味があるように思えた。
王宮の舞踏会にも迫るほどの華やかさ。 それなのに、どこにも浮ついたところがない。
豪華であることを誇示するのではなく、これがヴァレリオン公爵家なのだと、ただ静かに示している。
エルナは思わず背筋を伸ばした。
自分も今夜は、この家の婚約者としてここに立つのだ。
そう思った途端、胸の奥がきゅっと緊張した。
少しでも気を紛らわせようと、エルナは隣にいるスヴェンへ小声で話しかけた。
「……お兄様、あのお料理はどうやっていただくのでしょう?」
「俺もそれを考えていた」
二人して軽食の並ぶテーブルへ視線を向ける。
「あれほど綺麗に盛り付けられていると、崩してしまうのが惜しいですわね」
「だが、食べるなら崩すしかないだろう」
「やはり、そうですわよね」
「むしろ、崩さずに食べる方法があるなら教えてほしい」
エルナは思わず小さく笑った。
ほんの少しだけ、張り詰めていた肩の力が抜ける。
そうして二人で料理を眺めながら話していると、招待客への挨拶を終えた公爵夫妻とルシアンが、大広間へ姿を現した。
公爵夫人は辺境伯夫妻へ軽く会釈をすると、エルナへ微笑みかける。
「エルナ、これから皆様へご挨拶をいたします。いずれは手伝っていただきますし、紹介したい方もたくさんおりますから、今日は私の隣についていらっしゃい」
「はい、奥様」
辺境伯夫妻へ「エルナをお借りしますわね」と声をかける公爵夫人の後を、エルナは背筋を伸ばして歩き出した。
いつもの公爵邸なのに、今夜は何もかもが違って見える。
自分も、この家の婚約者として振る舞わなければならない。
そう思うほど、再び緊張が込み上げてくる。
「母上はああ仰ったが、そんなに畏まらなくていい」
すぐ隣へ並んだルシアンが、いつもの穏やかな声で言った。
「……ですが、今日は公爵家の夜会ですもの」
「そうだな。だが、エルナはエルナのままでいい」
その言葉に、エルナは少しだけ安堵した。
◇ ◇ ◇
公爵夫妻のファーストダンスが終わると、エルナは公爵夫人に伴われ、招待客への挨拶に回った。
今夜は王太子夫妻や王女、アイゼンベルク公爵家をはじめ、侯爵家や有力伯爵家、王宮の高官など、上位貴族が多く招かれている。
「エルナ、こちらはマリステラ侯爵夫人よ」
「お初にお目にかかります。ノルドガルド辺境伯家のエルナと申します」
「まあ、こちらこそ。お会いできて嬉しいですわ」
形式通りの挨拶を交わしたところで、公爵夫人がさりげなく話題を振った。
「夫人は以前、北部の白樺細工や鹿角細工に興味を持っていらしたでしょう?」
「ええ。小箱や籠など、軽くて丈夫なものが多いでしょう? 南部の商人たちにも人気がありますの」
「本当ですか?」
領地の特産品が評価されている。
その言葉に、エルナの瞳がぱっと輝いた。
「ええ。あれは特別なものではありませんわ。北部では、冬の家仕事として作る家も多いのです」
「冬の家仕事?」
「はい。雪が深くなりますと、外でできる仕事が限られますでしょう? ですから、家の中で白樺を編んだり削ったりして、生活に使うものを作るのです。できのよいものは市に出して、商会に買い取ってもらうこともありますわ」
冬の長い時間を、少しでも無駄にしないために。
職人でなくとも、丁寧に作られたものにはきちんと価値がつく。そうして得た収入が、冬を越すための助けになる家もある。
「まあ。では、領民の方々が作ったものが南部まで運ばれているのですね」
「はい。ですが、貴族の方がお使いになるような細工物は、専門の職人が仕立てます。白樺の選び方から違いますし、細かな装飾を施したものは、とても美しいのです」
エルナはそこで一度言葉を切った。
侯爵夫人が興味深そうに頷いている。
隣では、公爵夫人も急かすことなく耳を傾けていた。
失礼のないように。
話しすぎないように。
けれど、せっかく興味を持っていただいたのだから、きちんとお答えしたい。
そう考えながら、エルナはさらに口を開いた。
「鹿角細工も、少し事情が違いますの」
「鹿角も北部の特産ですものね」
「はい。ただ、鹿は父が狩猟する頭数を管理しております。春は次の世代が育つ時期ですから、狩猟を控える必要がありますでしょう? ですから、角を使った細工物についても、いつでも作れるというわけではありませんの」
「まあ、そこまで管理されているのですね」
「はい。秋の狩猟で得られたものを職人が加工して、冬の間に仕上げることが多いですわ」
「そうすると、南部へ運ぶ時期も決まってくるのかしら?」
「そうですわね」
エルナは少し考える。
「北部は冬になると道が雪に閉ざされますから、春になってからまとめて運ぶほうがよいと思います。もし特別に欲しいデザインなどがございましたら、秋までに注文をいただければ、職人へ伝えておくこともできますわ」
そこまで話して、エルナはふと我に返った。
「……申し訳ありません。私ばかりお話ししてしまいました」
頬を染めて小さく頭を下げる。
すると、マリステラ侯爵夫人は穏やかに微笑んだ。
「いいえ。とても興味深いお話でしたわ。北部の暮らしについて、こんなに詳しく伺ったのは初めてですもの」
「そうですか……?」
ほっとしたようにエルナが顔を上げる。
その様子を隣で見ていた公爵夫人は、満足そうに微笑んでいた。
エルナ自身は必死なのだろう。
けれど、領地のことを尋ねられれば、自分の知っていることをきちんと言葉にできる。
貴族令嬢としての社交にまだ不慣れなところはあるが、こうして領地や暮らしに関わる話なら、十分に相手と会話を続けられる。
――思っていた以上に、よくできている。
「エルナ、次はこちらへ」
「はい、奥様」
公爵夫人に促され、エルナは再び背筋を伸ばした。
その横顔には、先ほどまでの緊張がほんの少しだけ和らいでいた。
「少し休憩していらっしゃい」
「よろしいのですか?」
「ええ」
夜会も中盤に差しかかり、招待客への挨拶を続けていた公爵夫人が、エルナへ向き直った。
主要な招待客への挨拶は、ほとんど終わっている。
令嬢たちと話しているときのエルナの様子については、ルシアンからも、令嬢たちの母親からも聞いていた。
だからこそ、令嬢たちよりさらに年上の夫人や当主たちとの会話では、少し苦労するかもしれないと思っていた。
だが、それは杞憂だったようだ。
むしろ、令嬢たちと話をさせるよりも、領地や交易、政策といった話題のほうが、エルナには話しやすいのかもしれない。
そんなことを考えながらふと視線を巡らせると、令嬢令息たちに囲まれている息子の姿が目に入った。
ルシアンが何度もエルナのほうを見ていたことには、とうに気づいている。
公爵夫人がさりげなく目配せすると、ルシアンはすぐに人の輪から抜け出し、こちらへやってきた。
「母上、お疲れでしょう」
「いいえ。全く」
黙り込んだ息子へ、公爵夫人が微笑む。
「少しの間だけですよ」
「ありがとうございます、母上」
先ほどまで令嬢令息たちに囲まれ、次期公爵として完璧な微笑みを浮かべていた男とは思えないほど、ルシアンの表情が嬉しそうに緩む。
「エルナ、私と踊ってくれないか」
「はい、ルシアン様」
差し出された手にエルナがそっと手を重ねる。
二人が連れ立って歩いていく姿を見送り、公爵夫人は目を細めた。
まったく。
あれほど周囲に気を配っていたというのに、エルナのこととなると分かりやすいものだ。
けれど、そんな息子の姿を見られることもまた、母親としては嬉しかった。
穏やかなワルツの音に合わせ、エルナはルシアンと踊っていた。
夜会ではいつも一緒に踊っているからだろうか。以前に比べれば、随分と慣れてきた気がする。
今日は、いつもより肩の力を抜いて踊れている。
そんなことを考えていると、ルシアンが声をかけた。
「夫人や当主たちへの挨拶で疲れただろう。少し休むか?」
「緊張しましたが、大丈夫ですわ。休んでいるわけにはいきませんもの」
「無理はするな」
「はい」
エルナが素直に頷くと、ルシアンも小さく頷いた。
「うまく話もできていたようだな」
「そうでしょうか?」
正直なところ、緊張して必死だったせいで、話した内容は覚えていても、どのように話していたのかまでは覚えていなかった。
もっと余裕を持って、相手の様子を見ながら話せるようにならなければ。
悩ましげな表情を浮かべるエルナへ、ルシアンは目を細めた。
「母上が安心されていた。大丈夫ということだ」
「そうであれば、嬉しいです」
エルナはほっとしたように微笑んだ。
ルシアンと踊っていると、不思議と落ち着く。
けれど、それはきっと、夜会で何度も一緒に踊ってきたからだろう。
そう思えば、納得できた。
やがて曲が終わると、ルシアンはエルナを軽食スペースへと連れて行った。
「少し食べるといい」
そう言って、ルシアンは手際よく軽食を皿へ盛り付け始めた。
牛フィレ肉の塊は断面を美しく切り取り、温野菜で形作られた鳳凰は崩すことなく、その一部だけを器用にすくい取る。大きなケーキも、見事な装飾を損なわないよう、きれいに一切れを切り分けた。
(さすがですわ……)
先ほどスヴェンと二人で、結局「思い切って崩すしかないのでは」と結論づけた料理たちだ。
それをまるで何度もやっているかのように、ルシアンは美しく取り分けていく。
すぐそばで待機していた給仕たちも、ちらちらとその様子を見ていた。
(若様、それは本来、我々の仕事なのですが……)
――とはいえ、いつものことでもある。
エルナが相手になると、ルシアンが甲斐甲斐しく世話を焼くことを、彼らもすっかり知っていた。
そして何より、あれほど器用に料理を崩さず取り分ける姿を見せられては、つい目がいってしまう。
「果実水も飲むといい」
「ありがとうございます」
あっという間にエルナの手には軽食の皿とフォークが握られ、ルシアンは果実水のグラスまで持っている。
その片手には、自分用のワイングラス。
「いただきますわ」
「ああ」
エルナが牛フィレ肉を口に運ぶ。
柔らかな肉は舌の上でとろけ、温野菜はさっぱりとしていながら、噛むほどに自然な甘みが広がる。ケーキも、ふわりとしたスポンジと滑らかなクリームの甘さが絶妙だった。
「美味しいですわ」
にこにこと軽食を口に運ぶエルナを、ルシアンは満足そうに見つめている。
やがて皿が空になる。
エルナが果実水を飲んでいると、ふとルシアンが遠くへ視線を向けていることに気づいた。
その視線の先では、二人の伯爵が額を寄せるようにして、何やら熱心に話し込んでいた。
「ルシアン様、行って差し上げてはいかがですか?」
「……いいのか?」
「もちろんです」
エルナがルシアンのグラスを受け取り、その背中を見つめる。
ルシアンが二人の伯爵の間に入って何かを話し始めると、ほどなくして二人の表情が明るくなった。
あっという間に戻ってきたルシアンへ、エルナは尋ねる。
「何をお話しされていたのですか?」
「新しく整備される街道の利権で揉めていたんだ。共同管理にすれば双方に利益が出るから、そう提案した」
「まあ……! そんな難しいことを、すぐに解決できてしまうなんて。やっぱりルシアン様はすごいですわ」
きらきらとした尊敬の眼差しを向けられ、ルシアンは平然と答えた。
「大したことではない」
そう言いながらも、まっすぐな茶色の瞳に見つめられて、緩みそうになる頬を必死に堪える。
その後、エルナは公爵夫人のもとへ戻っていった。
ルシアンも再び貴族たちに囲まれる。
格式と品格に圧倒されていたエルナにとって、初めてのヴァレリオン公爵家の夜会。
けれど、その夜の終わりには――少しだけ、この場所にも慣れたような気がしていた。




