王都編2-28 告白
時間は戻らない。
王宮舞踏会は、静かに幕を閉じた。
公爵夫妻の馬車が先に出発し、続いてエルナも馬車へ乗り込む。
ルシアンは向かいではなく、いつものように隣へ腰を下ろした。
煙水晶色の眼鏡を外し、胸元へしまう。
オスカーが静かに扉を閉めると、ほどなくして馬車はゆっくりと王宮を後にした。
見慣れた帰り道。
王宮から公爵邸までは、それほど遠くない。
窓の外を流れていく街灯の明かりを眺めながら、エルナは最後のダンスを思い返していた。
「さすがは、私の婚約者だ」
胸の奥へ、刃が深く突き刺さる。
あの瞬間、よく笑顔を保てたものだと思う。
(もう、このドレスを着ることはありませんわね)
エリーゼ、シャルロット、オリヴィア、クレア。公爵夫人に針子たち。そして、ソフィーたち。
皆が心を込めて仕立て、送り出してくれた一着だ。
申し訳ない気持ちは尽きない。
それでも、このドレスを見るたびに、今夜を思い出してしまう気がした。
こんなにも心が崩れ落ちそうになったのは、生まれて初めてだった。
――けれど。
どうしてだろう。
胸のどこかで、小さな声が囁く。
最後に一度だけ、聞いてもいいのではないか。
舞踏会では人が多かった。
あの場では、言いたくても言えなかっただけなのかもしれない。
そんな都合のいい考えが、どうしても捨てられない。
(お祖父様譲りですわね……)
自分でも呆れるほど、諦めが悪い。
初めて出会ったあの日から積み重ねてきた想いは、「もしかしたら」という淡い期待を手放せるほど、軽いものではなかった。
エルナはそっと息を吸う。
「ルシアン様」
名を呼ぶと、すぐに青い瞳がこちらを向いた。
湖面を映したような澄んだ青。
その瞳に映るのは、自分だけだった。
聞きたくない。けれど、聞きたい。
もう、今しかない。
壊れそうな心が、胸の内で早鐘を打つ。
意を決し、エルナは震える声で尋ねた。
「今日のドレス……どうでした?」
エルナの問いに、ルシアンはわずかに目を見開いた。
「もちろん――」
ゆっくりと頷き、まっすぐエルナを見つめる。
自分がエルナのために仕立てたドレスは、どれも自信作だった。
だが、今日の一着は、その中でもひときわ特別だった。
深い紺色はエルナによく映え、公爵家の婚約者としての品格を余すことなく引き立てていた。
広間中の視線を集め、誰もが息を呑んで見惚れていた。
次期公爵夫人として歩み始めた彼女を象徴するような一着だった。
だからルシアンは、心からの称賛を口にする。
「――素晴らしいドレスだ」
その一言が、エルナの心を打ち砕いた。
(……どうして)
胸の奥が、音を立てて崩れていく。
それでもルシアンは、気づかない。
「以前、エリーゼ殿下や皆と仕立てたと言っていただろう」
恥ずかしさを押し殺して、勇気を振り絞って袖を通したのに。
「レオンもジークも、よく似合っていると感心していた」
そんなこと、どうでもいい。
「今日、一番注目を集めていたのはエルナだった」
違う。そうじゃない。
一度でいい。
たった一度でいいから。
「似合っている」
その一言を、聞きたかっただけなのに。
「……エルナ?」
婚約者だからではなく。
次期公爵夫人だからでもなく。
ただ一人の人間として、見てほしかった。
そんな願いは、望んではいけないものだったのだろうか。
出会ったあの日から。そう、ずっと、恋をしていた。
優しくて。格好良くて。誰よりも頼りになって。いつも自分を守ってくれる、憧れの人。
その隣に立ちたくて。役に立ちたくて。認めてもらいたくて。今日まで必死に歩いてきた。
なのに。
どれだけ想い続けても、その想いだけは届かない。
(……こんなの、あんまりです)
張りつめていた心に走ったひびは、もう止まらなかった。
小さな亀裂は瞬く間に広がり、心の奥底まで蝕んでいく。
溢れ出した想いは、もう堰き止められない。
目頭が熱くなる。
(いけません……)
せめて最後まで笑顔でいたかった。
こんな姿を、ルシアンにだけは見せたくなかった。
けれど――もう、無理だった。
エルナの瞳から、一筋の涙が静かに零れ落ちた。
「……エルナ?」
確かめるように、その名を呼ぶ。
返事はない。
ただ、エルナは俯いたまま肩を震わせていた。
――泣いている。
一瞬、思考が止まった。
目の前で泣いているのは、誰よりも大切に護ってきた少女。
どんな花よりも美しく、どんな宝石よりも愛おしい。
その笑顔を守りたいと、ただそう願い続けてきた少女が、今、自分の隣で涙を流している。
そして、その涙の原因は――。
(……私、なのか)
胸が凍りつく。
エルナの瞳から零れた一粒の涙は止まることを知らず、次から次へと頬を伝って落ちていく。
愕然と見つめているうちに、馬車が静かに止まった。
扉の外からオスカーが様子を窺う。
ルシアンは小さく首を横に振った。
一瞬だけ車内へ視線を向けたオスカーは、何も言わずに姿を消す。
やがて再び、馬車はゆっくりと夜の街を走り始めた。
「……っ、……く……」
堪えようとしても堪えきれない嗚咽が、小さく車内に響く。
その音が、ルシアンの胸を締めつけた。
(泣かせてしまった)
その事実だけが、重くのしかかる。
茫然とした思考を無理やり動かし、ルシアンは胸元からハンカチを取り出した。
震える手で、頬を伝う涙をそっと拭う。
「……すまない」
掠れた声だった。
「私が悲しませたのだろう」
一度言葉を切り、苦しげに息をつく。
「何を間違えたのか分からない。だが、批難ならどれだけでも受けよう」
真っ直ぐエルナを見つめる。
「教えてほしい。私の何が、そこまで悲しませてしまったのだ」
その声は、責めるものではない。
ただ、心から知りたいと願う、痛々しいほど真摯な問いだった。
そんなふうに、優しく触れられて。
そんなふうに、心から心配されて。
それが、どうしようもなく嬉しくて。
どうしようもなく苦しくて。
エルナはもう、張りつめていた理性を繋ぎ止めておくことができなかった。
「ルシアン様は、悪くはありませんっ……。私が悪いのです。私が……っ」
話そうとしても、喉の奥が詰まり、言葉にならない。
嗚咽だけが小さく漏れる。
ルシアンは急かすことなく、ただ黙ってエルナの言葉を待っていた。
「こんなはずじゃ、なかったのに……っ。困らせたいわけじゃ……」
涙は次から次へと溢れ、止まる気配がない。
悲しげに眉を寄せるルシアンの表情が目に入るたび、自分が情けなくなって、いっそう涙が溢れてしまう。
震えるエルナへ向けて、ルシアンは静かに首を振った。
「違う」
短く、しかし迷いなく。
「エルナが泣いている以上、それで終わらせることはできない」
その涙の理由から目を逸らす資格など、自分にはない。
傷つけたのが自分なら、その痛みを受け止める責任がある。
「頼む……」
掠れた声が、馬車の中へ静かに落ちる。
「教えてくれ」
どうすれば、君はまた笑ってくれるのだろう。
その答えを知りたい。
「……エルナ」
優しく名を呼ばれた瞬間、張りつめていた心が音を立てて揺らいだ。
「ルシアン様っ……!」
言うつもりなど、なかった。
この想いは胸の奥へしまい、生涯抱えたまま生きていく。
そう決めていた。それなのに。
ここまで真っ直ぐ求められてしまえば、もう隠しきれない。
「……だって」
深く息を吸う。何度も、何度も。
込み上げる嗚咽を必死に飲み込みながら、エルナは震える唇を開いた。
「可愛い、とか……」
胸の奥に押し込めていた想いが、少しずつ溢れ出していく。
「似合っている、とか……」
これを口にしたら、もう後戻りはできない。
もう、婚約者としての理想の令嬢ではいられない。
それでも。
「一度も、言われたことがありませんわ……」
その一言が落ちた瞬間。
ルシアンの脳裏を、これまでの記憶が一気に駆け抜けた。
「エルナ嬢には、『楽しかった』と伝えたのか?」
「言っていない」
「思ったことは、ちゃんと言え」
「言葉にしなければ伝わらない」
「いつか勘違いされるぞ」
白鳥湖へ行ったあとのこと。幼馴染は、確かにそう忠告してくれていた。
それなのに。
「エルナに限って、それはない」
「そう思っているのは、お前だけだ」
エルナの優しさに甘えていた。
彼女なら分かってくれる。言わなくても伝わっている。
そう信じて疑わなかった。
――そんなものは、ただの思い込みだった。
「私との婚約を、どう思っていらっしゃいますか?」
あの問いかけも。今思えば、あの頃にはもう、不安だったのだ。
「私たちの婚約は祖父同士の約束によるものだ。私の婚約者はエルナだろう?」
あの時も。もっと違う言葉があったはずだ。
「夜会で一緒に踊れなくて寂しかった、とか……そういうことは言わなかったのか?」
「エルナも主催者だ。会えないことくらい理解している」
「たまには思っていることを、そのまま伝えてやれ」
「伝えている」
――違う。
伝わっていなかった。いや。自分は、何ひとつ伝えていなかった。
菓子店へ向かう日の、とびきり可愛いエルナにも。自分が口にしたのは「よくできている」の一言だけ。
今日だって、機会はいくらでもあった。
誰よりも美しいと思った。誰よりも目を奪われた。
誇らしくて、愛おしくて、胸がいっぱいになるほどだった。
それなのに。
彼女が一番聞きたかった言葉を、自分は一度も口にしなかった。
(……そういう、ことか)
ようやく理解した。傷つけたのは、今日だけではない。
言葉を惜しみ続けた、その積み重ねが。少しずつ、少しずつ。彼女の心を傷つけていたのだ。
ルシアンは、自らが積み重ねてきた過ちの重さを、初めて思い知った。
言葉を失ったまま動かないルシアンを見つめ、エルナはそっと目を伏せた。
(困らせてしまいましたわね……)
好きでもない相手から、こんな想いを打ち明けられては。
さすがのルシアンでも、返す言葉に困るだろう。
申し訳なさは募るばかりだった。
けれど、久しぶりに声を上げて泣いて。
胸の奥へ押し込め続けてきた願いを口にしたことで、不思議と心は晴れていた。
もう十分だ。ルシアンに笑われても構わない。
情けない姿を見られてしまったけれど、もう思い残すことはない。
これからも次期公爵夫人としての務めを果たそう。
それでいい。
エルナは静かに息を整え、穏やかに微笑んだ。
「ルシアン様。そろそろ帰りましょう。公爵様も奥様も、ご心配なさっておりますわ」
涙で濡らしてしまったハンカチを丁寧に畳む。
あとで綺麗にして、お返ししよう。
そう思って指先を動かした、その時だった。
不意に、その手を優しく包み込まれる。
「……ルシアン様?」
顔を上げると、ルシアンが両手でエルナの手を包んでいた。
まるで壊れ物に触れるような、慎重で優しい手つき。
こんなふうに手を握られたのは、いつ以来だろう。
掌から伝わる温もりに、胸がどくりと鳴る。
思わず頬が熱を帯びた。
(いやですわ、私ったら……)
あれほど泣いたというのに。少し触れられただけで胸が高鳴ってしまう。
どうやら、この恋はそう簡単には終わってくれないらしい。
戸惑うエルナを、湖を思わせる青い瞳がまっすぐ見つめていた。
その瞳には、先ほどまでの動揺ではない、確かな決意が宿っている。
「エルナ……聞いてほしい」
低く、それでいてどこか震える声だった。
「どうされました?」
いつものように問い返す。
するとルシアンは、固く結んでいた唇をゆっくりと開いた。
「まずは、心から謝罪をする」
ルシアンは真っ直ぐエルナを見つめた。
「私は君に甘えていた」
その一言は、自らを責めるように静かだった。
「言葉にしなくても、分かってくれると、勝手に思い込んでいた」
幼い頃から、自分の後ろをちょこちょこと付いてくる小さな女の子。
「お兄様」
そう呼んで、実の妹のように懐いてくれた。
可愛くて。愛おしくて。自分を慕ってくれていることが、当たり前になっていた。
だから、言わなくても伝わる。
そんな根拠のない安心に、甘えてしまっていた。
「……傲慢だった」
ルシアンはゆっくりと目を伏せる。
「『言葉にしなければ伝わらない』」
その言葉を噛みしめるように繰り返した。
「本当に、その通りだった」
エルナは何も言わず、静かに耳を傾けている。
「君を不安にさせた。ここまで追い詰めてしまった」
一度、小さく息を吐く。
「婚約者として、失格だ」
許しを請うような声音だった。
その言葉に、エルナは首を横へ振る。
「私だって……聞き方が悪かったですわ」
あの時もっと勇気を出して、もっと素直に尋ねていたなら。
答えは、もっと早く見つかっていたのかもしれない。
「ルシアン様は、いつだって素敵な婚約者です」
その微笑みに、ルシアンの表情がわずかに和らぐ。
けれど、だからこそ。
今度は自分が、言葉にしなければならなかった。
ルシアンは静かに息を吸い、エルナの瞳を真っ直ぐ見つめる。
「先ほどの質問に答えよう」
「あの……もう、それは結構ですから……」
エルナは困ったように笑った。
思い返せば、ひどく子どもじみたことで悩んでいた気がする。
わざわざ聞きたくもない答えを、今さら聞く必要はない。
そう思ったのだ。
「よくない」
穏やかだったルシアンの声に、揺るぎない強さが宿る。
「これは、私が伝えなければならないことだ」
そう言って、ルシアンは包んでいたエルナの手をそっと握り直した。
その温もりに、エルナの肩が小さく震える。
「……っ」
今度は、エルナが言葉を失う番だった。
「可愛いも、似合っているも……」
ルシアンが口にした言葉に、エルナの身体がぴくりと強張る。
聞きたくない。
――いや。
聞くのが怖い。
そう思うのに、胸の奥では、まだ期待している自分がいた。
そして、ルシアンは静かに、その続きを口にした。
「常にそう思っていた」
「……え?」
エルナはきょとんと目を瞬かせる。
「当たり前すぎて、言葉にするという発想がなかった」
その一言は、あまりにも予想外だった。
「私が仕立てたドレスだ。似合わないはずがない」
ルシアンは真っ直ぐエルナを見つめる。
「靴も、手袋も、外套も、宝飾も。すべて、君に似合うと思って用意した」
一つひとつ、確かめるように言葉を重ねていく。
「そして、そのどれもが思った以上によく似合っていた」
エルナは呆然とルシアンを見つめた。
聞き間違いだろうか。
欲しかった言葉が、こんなにも次々と紡がれるものなのだろうか。
「……私が用意したものだけじゃない」
ルシアンは小さく首を振る。
「君は、何を身につけても可愛い」
息が止まる。
「何を着ても似合う」
胸が大きく高鳴る。
「今日は、とくに美しかった」
世界から音が消えたようだった。
「誰にも見られたくなかった」
ルシアンは照れたように少しだけ視線を伏せ、それでも言葉を止めなかった。
「……誰よりも、綺麗だった」
「……」
エルナは何も言えなかった。
頬がみるみる赤く染まっていく。
ずっと、ずっと聞きたかった言葉。
何度も思い描いた言葉。
それが今、目の前のルシアンの口から、一つ残らず紡がれていた。
「幼い頃の君は、城の馬小屋へ忍び込んだり、木登りをして降りられなくなったり、池へ飛び込んで皆を慌てさせたりしていた」
どこか懐かしむように、ルシアンは穏やかに微笑む。
「……だが、そんな君も愛おしかった」
「……っ」
なぜ。
どうしてそんなことを、こんなにも自然に言えるのだろう。
恥ずかしくて。嬉しくて。
今すぐどこかへ逃げ出してしまいたかった。
「本格的な淑女教育が始まってからは、会うたびに綺麗になっていく君を見ていた」
ルシアンは少しだけ目を細める。
「あの頃の私が、どれほど心を奪われていたか……知らないだろう?」
もう、聞いてはいけない。
これ以上聞けば、心臓がもたない。
そう思うのに、狭い馬車の中には逃げ場などなかった。
「ルシアン様……もう、じゅうぶんですわ……」
真っ赤になったまま懇願するエルナへ、ルシアンは静かに首を横へ振る。
「いや」
その青い瞳が、真っ直ぐエルナだけを映していた。
「まだ、一番大切なことを伝えていない」
その一言で、時間が止まる。
ルシアンはゆっくりと息を吸い、穏やかに続けた。
「君は私にとって、何よりも大切な存在になんだ」
胸が大きく跳ねる。
鼓動が耳の奥まで響いて、何も考えられない。
それでも、ルシアンから目を逸らすことだけはできなかった。
ふと、ルシアンは握っていた手をそっとほどく。
そして、エルナの左手を優しく取り、その甲を上へ向けた。
壊れ物に触れるような、丁寧な手つき。
ゆっくりと持ち上げられたその手へ、ルシアンは静かに唇を寄せる。
薬指へ落とされた、ひとつの口づけ。
そのまま真っ直ぐエルナを見つめ、穏やかに微笑んだ。
「愛してる」
「…………っ!!」
頭の中が、真っ白になる。
こんな答えは、想像したこともなかった。
どうすればいい。何を言えばいい。何も分からない。
ただ、頬だけが熱を帯び、心臓だけが壊れそうなほど鳴り続けていた。
そんなエルナを見て、ルシアンは堪えきれないように、小さく笑った。
「今まで……まったく気づかなかったのか?」
ルシアンは少し呆れたように、それでいてどこか照れくさそうに尋ねた。
「…………」
気づかなかった。本当に、何ひとつ。
恥ずかしさで顔から火が出そうだった。
夜の馬車の中でよかった。
昼間だったら、とてもこんな顔は見せられない。
言葉を探すように視線を彷徨わせたあと、エルナは小さく息を吸った。
「私……ずっと、ルシアン様は『お兄様』で、婚約者で……大切な家族でした」
幼い頃から、兄のように慕っていた。将来は家族になる。ずっと隣にいてくれる。
それが当たり前だと信じていた。
だから、ルシアンも、きっと同じ気持ちなのだと思っていた。
「私に優しくしてくださるのも……ルシアン様がお優しい方だからだと、思っておりましたの」
守ってくれることも。気遣ってくれることも。困っていれば手を差し伸べてくれることも。
あの柔らかな笑顔も。すべて、婚約者だから。家族になる相手だから。
そういうものなのだと思っていた。
「まさか……そんなふうに見てくださっていたなんて……考えたこともありませんでしたわ。
どうやら、勘違いをしていたのは、自分の方だったらしい。
突然知らされたルシアンの想いは、嬉しいのに、まだ胸へ収まりきらない。
動揺を隠せないエルナへ、ルシアンは優しく微笑んだ。
「私が優しくするのは」
一拍置いて、静かに言う。
「君だけだ」
「……っ!!」
胸が大きく跳ねた。
どくん、と鼓動が響く。
ルシアンは楽しそうに目を細めたまま、エルナだけを見つめている。
その余裕そうな笑みに、少しだけ悔しくなる。
(……待ってくださいませ)
さっきから、驚いてばかりいるのは、自分だけではないだろうか。
言われっぱなしなんて、少し悔しい。
エルナは照れたように唇を結び、それでも逃げずにルシアンを見つめ返した。
「私だって……」
心臓が、どきどきと鳴り続けていた。
何度深呼吸をしても、少しも落ち着いてくれない。
それでも勇気を振り絞り、エルナはルシアンの手をそっと握り返した。
「初めてお会いした日から、ずっと――」
あの日の光景が脳裏によみがえる。
月明かりを映したような銀の髪。澄み渡る冬の湖を思わせる青い瞳。まるで、おとぎ話に出てくる王子様のようだった。
どこか冷たそうに見えたその眼差しは、驚くほど優しくて。温かくて。
気づけば、あっという間に恋に落ちていた。
「ずっと、お慕いしておりました……!」
言ってしまった。
胸がいっぱいになって、思わずルシアンを見上げる。
けれど、ルシアンは穏やかに微笑んだまま、静かにエルナを見つめ返していた。
(……?)
予想していた反応と違う。
自分のように真っ赤になる様子もなければ、慌てる気配もない。
(もしかして……足りませんの?)
ルシアンは先ほど、自分の想いを一つひとつ丁寧に伝えてくれた。
それに比べれば、自分の告白はたった一言。
(もっと……きちんと伝えなければ、いけないのでしょうか……)
考えれば考えるほど頭の中がぐるぐると回り始める。
やがてエルナは意を決したように、小さく息を吸った。
「領民の皆様お一人おひとりを気にかけてくださるところも、お好きですわ」
エルナは照れながらも、一つずつ言葉を紡いでいく。
「貴族の方々の間に入って、どちらも納得できるように仲裁してくださるところも……いつも優しくて、穏やかなところも」
「そうか」
ルシアンは穏やかに頷く。
その口元には、満足そうな笑みが浮かんでいた。
(……まだ足りませんの?)
「本を読んでいらっしゃるお姿も、お兄様方と遊戯をしている時も、お昼寝をしている時も……全部、素敵です」
「ああ」
相槌を打つたびに、ルシアンの笑みは少しずつ深くなっていく。
どう見ても、楽しんでいる。
「お月さまみたいに綺麗な銀色の髪も、宝石みたいな青い瞳も……ずっと見ていたいくらいです」
その言葉に、ルシアンは思わず目を細めた。
今もなお、自分の瞳を宝石のようだと言ってくれる。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
だから気づけば、言葉が零れていた。
「君だけのものだ」
「……っ!!」
心臓が跳ね上がる。
やっぱり、完全に乗せられている。
自分ばかりが照れて、慌てて、振り回されている気がした。
「からかわないでくださいませ!」
頬を真っ赤に染めて抗議すると、ルシアンは肩を揺らして小さく笑う。
「すまない」
謝ってはいる。
けれど、その表情には少しも悪びれた様子がない。
(絶対に反省していませんわ……)
思わず唇を尖らせる。
――けれど。
こんなふうに心をかき乱されたのは、あの日以来だった。
エルナの笑みが、ふっと消える。
「あの時は……本当に、どうにかなってしまいそうでした……」
静かに落ちたその一言に、ルシアンの表情もまた、穏やかなものから真剣なものへと変わった。
「あの時は……あれが最善だったと、分かっています」
エルナは静かに言葉を紡いだ。
トーマスを助けるには、ルシアンが納屋へ飛び込むしかなかった。
それ以外に、あの子を救う方法はなかった。
だから、責めるつもりなどない。
けれど。
「目の前で、ルシアン様が崩れた納屋に巻き込まれていく姿を見た時……本当に、頭の中が真っ白になりました」
あの瞬間の恐怖は、今も鮮明に焼き付いている。
「分かっていても……今でも、ルシアン様を失ってしまう恐ろしさは消えてくれません」
あの日。エルナの世界は、大きく覆った。
北部辺境では、家族を送り出したまま帰らぬ人となる者も少なくない。
父も兄たちも、いつ危険に身を置くか分からない。
そして、ルシアンもまた同じだった。
領民を守るため。責務を果たすため。
その身を危険へ投じることを、決してためらわない人。
だからこそ、隣にいてくれることは、決して当たり前ではないのだと知った。
失いたくない。誰よりも、大切な人。
あの日を境に、胸の奥へしまい込んでいた想いは、もう隠しきれなくなっていた。
ルシアンは静かに目を伏せる。
「……怖い思いをさせてしまったな。すまなかった」
その謝罪に、エルナはゆっくりと首を横へ振った。
「いいえ」
優しく微笑みながら答える。
「ルシアン様だから、あのお怪我で済んだのですわ」
あの場にいたのがルシアンではなかったなら。
もっと多くの人が傷つき、命を落としていたかもしれない。
だから、あの判断を後悔してほしくはなかった。
「それに――」
エルナは少しだけ唇を尖らせる。
「私……ずっと、お怪我のことを心配していたんですのよ」
少しくらい、怒ってもいいのではないだろうか。
あの時は、失ってしまうかもしれないという恐怖と悲しみで、それどころではなかった。
けれど今なら分かる。
胸に残っていたのは、それだけではない。
「――それなのに、ルシアン様は何も仰ってくださいませんでした」
エルナは少しだけ唇を結ぶ。
「お怪我をなさっても、平気なふりばかりで……」
ルシアンは静かに目を伏せた。
「これ以上、心配をかけたくなかった」
その気持ちは痛いほど分かる。
分かるからこそ、簡単には納得できなかった。
「視察では、頼ってくださったではありませんか」
エルナの声に、少しだけ力がこもる。
「それなのに、ご自身がお怪我をされた時だけ頼ってくださらないなんて……あんまりです」
「…………」
珍しく感情を露わにするエルナを前に、ルシアンは何も言えなかった。
「私……ずっと、ルシアン様をお支えするために頑張ってまいりましたのよ」
その一言に、ルシアンはゆっくりと頷く。
「……知っている」
淑女教育。公爵夫人教育。夜会での立ち居振る舞い。主催者としての務め。
どれも決して楽なものではなかった。
それでもエルナは、一度も投げ出さなかった。
壁にぶつかっても立ち止まらず、何度でも前を向いて歩き続けた。
その努力が、すべて自分の隣に立つためだったことを、ルシアンは誰より知っている。
だからこそ、彼女だけは危険から遠ざけたいと願ってきた。
「ルシアン様がお一人で何でもできてしまうことは、よく存じております」
エルナは静かに微笑む。
「ですが……だからといって、黙って見ていることなんて、私にはできません」
その言葉に、ルシアンは苦笑を浮かべた。
「……そうだな」
エルナは、守られるだけの令嬢ではない。
どれほど高い壁が立ちはだかろうと、乗り越えることを諦めない人だ。
先ほどまで涙を流し、顔を真っ赤にして狼狽えていたというのに。
今はもう、自分を諭そうとしている。
その強さも。優しさも。どこまでも愛おしかった。
思わず口元が緩む。
そんなルシアンを見て、エルナはもう一歩だけ前へ踏み出した。
「わかってくださるのでしたら――」
もっと信じて欲しい。もっと頼って欲しい。
転ぶことがあろうと、一緒に立ち上がる。
広く豊かな公爵領を、一人で背負う必要はない。
エルナはまっすぐルシアンを見つめ、穏やかに微笑んだ。
「これからも、ずっと……お側で支えさせてください」
エルナの言葉は、春の日差しのような温もりとなって、静かにルシアンの胸へ染み渡っていく。
(まったく……)
心の中で、小さく苦笑する。
想いを伝えきって、ようやく安心したはずだった。
それなのに、最後の最後で、こんなにも大きな幸せを返されてしまうとは。
敵わない。
本当に、エルナには敵わない。
胸がいっぱいになり、愛おしさが溢れて止まらない。
どうにかなってしまいそうだった。
ルシアンは目を細め、幸せそうにエルナを見つめる。
そして、何かを決めたように穏やかに口を開いた。
「……もう」
少しだけ笑って続ける。
「私たちが婚約者でいる必要はないな」
「……?」
意味が分からず、エルナは小さく首を傾げる。
そんな反応さえ愛おしくて、ルシアンは自然と笑みを深めた。
「式の日取りを決めようか」
「…………っ!!」
一瞬、時が止まる。
次の瞬間、暗がりの中でも分かるほど、エルナの頬が真っ赤に染まった。
「る、ルシアン様……!」
声にならない声を漏らすエルナを見つめながら、ルシアンは優しく笑う。
その青い瞳は、月明かりを映してどこまでも穏やかに輝いていた。




